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第3章

プロローグ 朝は来る

 ──ふわり。

 その瞬間は、甘酸っぱいカモミールの香りとともにやってくる。


「お目覚めの時間です、お嬢さま」


 天蓋つきベッドのそばに、人影がひとつ。

 白いレースの帳をそっと押しのけて、青年は寝息を立てるセフィリアへ声をかける。


「……んん……?」

「まだ夢の中かな。気持ちよく寝入っているところを起こすのは、忍びないが」


 きしり──……

 ベッドのスプリングがきしむ音と影に覆われる感覚で、セフィリアはうっすらとまぶたをひらく。


「んっ……」


 ふに、と唇にやわらかいものがふれる。

 息がかかるほど間近に、レイのととのった顔が。

 次の瞬間、セフィリアは完全に覚醒した。


「ほら起きて、リア。遅刻してしまうぞ?」

「……ひぇっ」


 これには眠気も吹っ飛び、思わず声が裏返ってしまう。

 それも当然だろう。起き抜けのぼんやりとした視界に突然黒髪の美青年のご尊顔がどアップで映り込んだ挙句、唇を奪われれば。

 正直羞恥で逃げ出してしまいたいセフィリアだったが、覆いかぶさられているためにそれができない。いわゆる『押し倒された状態』に近い。


「……だーかーら……」


 恥ずかしさで顔に熱があつまるのを感じながら、セフィリアは渾身の叫びを腹の底からひびかせた。


「ふつうに起こしてくださいってば、レイ〜!」


 対して、「ふつうに起こしてるぞ?」と首をかしげているのは、尋常ではない距離の詰め方でやたらと色気をふりまいている美青年──レイである。もちろん、本人にその気はない。じつに厄介である。


「──失礼いたします、セフィリアお嬢さま」


 そうこうしているうちに、続けてもうひとり、セフィリアの部屋へやってくる青年がいた。

 すらりとした長身にブルーの短髪、きっちり着こなしたモーニングコートすがた。爽やかかつ優雅な風貌の彼は、うやうやしくセフィリアへ一礼するなり、ひとこと。


「お嬢さま、うちのアホがご迷惑をおかけして申し訳ありません。こいつにはよーく言って聞かせますので」

「か、カイルさん……!」


 この場において救世主とも呼べる存在が来てくれた。

 なぜなら、わが道をゆくマイペースなレイをどうにかできるのは、彼の兄であるカイルだけだから。

 そして今日もまたセフィリアの悲鳴を耳にしてすみやかに駆けつけたカイルが、レイをふり返ってにっこり。


「おまえは……朝っぱらからなぁにをしとるかーっ!」

「なにって、ふつうにリアを起こそうと……」

「黙らっしゃい! ふつうに起こすだけでお嬢さまが半泣きになるかい!」

「俺はまた、なにか間違えたんだろうか……」

「それがわからないうちはおまえも半人前だ! いいからとっとと出てっておまえも支度しろ、遅刻するぞ!」


 いまいち腑に落ちないながらもカイルの言うことはもっともなので、レイも「それじゃあリア、またあとで」と言い残し、部屋を出ていく。

 レイのすがたが見えなくなると、カイルは肩をすくめ、ため息をついた。


「まったくあいつは……」

「あはは……ありがとうございます、カイルさん。助かりました」

「いえいえ。俺はお嬢さま専属のお世話係兼騎士ですし」


 レイに悪気がないのは、セフィリアも理解している。

 ただ彼のストレートすぎる愛情表現が、心臓に悪いことも事実で。そういうときは必ず、カイルがまっさきに駆けつけてレイをたしなめてくれる。


「さて、気を取り直して支度しましょっか。失礼しますね」


 にこやかな笑みを浮かべたカイルは、ベッドに腰かけたセフィリアのそばにひざをつく。そしてレイの用意した香りつきの湯が張られた器に布をひたし、セフィリアの足を丁寧にぬぐう。


「お着替えが終わるころに朝食をお持ちしますね」


 カイルはセフィリアに室内履きの靴を履かせながら、支度をととのえていく。さすが、てきぱきと手慣れたものだ。

 などとセフィリアが感心していると、ふとカイルがブルーのまなざしを向けてくる。


「カイルさん? どうしました」

「いえ、だいじなことを忘れていたのを思い出して」

「だいじなこと……あっ」


 セフィリアは思わずくり返したのち、はっと気づく。

 カイルがこんなことを言い出した後、決まってする行動に思い当たったためだ。


「あの、カイルさん……」


 せいいっぱい笑ってごまかそうとしたセフィリアだったが、無理だった。


「はい、お嬢さま。今朝はまだでしたよね?」


 非常にまぶしい満面の笑みで、カイルが両腕をひろげる。そして逃げ腰のセフィリアをぐっと抱き寄せた。


「はー……今日もさいっこうにかわいいです、お嬢さま。食べちゃいたいくらい。朝っぱらからそんなことしませんけど」


 はじまった。

 毎朝一番にハグをする「1日1お嬢さま」なるものが、カイルの日課らしく。

 すんすんと「お嬢さまはいい香りがしますねぇ」とされるがままでいるセフィリアは、さながら吸われている猫の気分だった。

 レイとはすこし異なり、カイルの場合は好きにさせていれば9割方は満足して離してくれる。残りの1割は、話題にしてはいけない。


 いつもの光景。しかしながら、同じ時間をすごすうちに、カイルたちとの関係性にもたしかな変化があった。


「俺のお嬢さま──愛してます」


 耳もとでささやく低い声。

 セフィリアは恥じらいにしばしエメラルドの瞳をさまよわせた後、まぶたを閉じて自身を抱く腕に身をゆだねる。


「私も……っん」


 言葉の終わりを待たず、焦れたように唇を食まれる。

 じんわりとしたぬくもりで体内が満たされゆく感覚は、心地がいい。

 以前よりずっとひろくなったカイルの背に、セフィリアは腕を回す。

 その左手の薬指では、プラチナのリングが輝いていた。

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