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第134話 大丈夫ですよ

 さらさらと、水の流れる音がする。

 ツル状のバラのアーチをくぐり抜け、セフィリアは噴水広場にやってきた。


「……あら、私……どうして?」


 物思いにふけっていたら、なんの宛もなくここまでやってきたようだ。

 だがなにを考えていたのか、セフィリアは思い出せない。


「レイ、カイルさん」


 ほぼ無意識のうちに、彼らを呼ぶ。

 そこでようやく、セフィリアは違和感に気づいた。


「……レイ? カイルさん……?」


 セフィリアが呼べばどこからともなく駆けつけるふたりが、すがたを現さないのだ。


(おかしいわ……)


 ここはアーレン公爵家の敷地内にある噴水庭園。セフィリアも見慣れた場所だ。

 それなのに、使用人がひとりもいない。

 いや、ひとだけではない。

 花の香りにさそわれる蝶も、羽休めにおとずれる鳥も、なにもいない。

 風も吹かず、ただ水の流れる音があるのみ。


「──セフィリア」

「っ! だれですか!?」


 レイでもカイルでもない男の声が聞こえ、はじかれたようにセフィリアはふり返った。

 そして、エメラルドの瞳を見ひらく。

 いつの間にだろう。背後に、黒衣をまとい、アッシュグレーの髪にアメジストの瞳をした青年がたたずんでいたのだ。


「魔王クラヴィス……いえ、あなたは」


 身がまえるセフィリアに対して、クラヴィスのすがたをした青年は多くを語らない。

 うつろな瞳で、セフィリアを映し出すだけだ。


「セフィリア……僕の、阿妹アーメイ

「……リン師兄にいさま?」


 邪悪な気配は感じられない。そしてなにより、おのれを呼ぶ口調に既視感をおぼえたセフィリアは、意を決して青年へ問いかけた。


「燐師兄さまなの? 無事だったのね……!?」


 彼は悪しき龍に意識を乗っ取られてしまったはず。だが、ここにいるのはセフィリアが兄と慕っていた青年に違いない。

 ほっと安堵し、駆け寄るセフィリア。

 すると青年が口をひらき、抑揚のない声で告げた。


「……ころして」

「なっ……!」

「きみの手で……僕を、殺して」


 ──刹那、セフィリアの脳裏に走馬灯のごとくよみがえる光景がある。


『おねがいだ。僕を……ころ、して』


 それは、セフィリアが彼という存在を失った瞬間の光景。


「……いや……」


 強ばる唇で、セフィリアは震える声をもらす。

 耳をふさぎ、1歩、2歩と後ずさった。


「きみが殺してくれ、愛花アイファ


 人形のような青年の口の端から、つぅ……と血がしたたる。

 剣で貫かれた彼の胸。それが、セフィリアが最後に目にしたものだ。



「──リア……リア!」


 くり返し呼ばれる声で、セフィリアは息を吹き返したように目をさます。


「はっ! はっ、はっ……はぁっ……」


 飛び起きたセフィリアの背を支える、ひろい手の感触。


「レイ……?」


 こわごわと視線を向ければ、ワイシャツすがたのレイが、セフィリアの乱れた髪を指で梳いた。


「酷くうなされていた。顔色も悪い」

「ごめんなさい……心配をかけて」

「どうして謝るんだ?」


 背をさすられるうちに荒い呼吸もおさまり、セフィリアも落ち着いて思考できるようになる。


(そうだわ……今夜は、レイがついていてくれたのね)


 はじめは従者でしかなかったレイも、いまやセフィリアと婚姻し、夫となった。つまりセフィリアの寝室にはべることが許されるのである。

 この日はレイがセフィリアを寝かしつけていたため、真っ先に異変に気づいてくれたのだ。


「ちょっと、嫌な夢を見ただけですから……」

「そうか」


 セフィリアの言葉に、レイは納得した、ように見えた。

 しかしひと息ついたのち、レイはベッドサイドに置かれたベルに手を伸ばす。

 カランカラン。ベルの音が奏でられ、すこし。


「失礼いたします。どうされましたか? セフィリアお嬢さま」


 ノック音とともに、カイルが寝室へやってきた。

 就寝中であったはずだが、となりの部屋に控え、こうして呼ばれるとすぐに駆けつけるのである。

 手持ちの鍵で寝室に入ったカイルは、ベッド上でレイに肩を抱かれたセフィリアをひと目見て、表情を引きしめる。それとなく状況を悟ったようだ。


「リアが悪夢を見たらしい。冷や汗も酷い」

「わかった。お嬢さま、まずお召しかえをしましょう。それから、ハーブティーをお持ちします」

「……ありがとうございます」


 本当に、彼ら兄弟には頭が上がらない。

 セフィリアは泣き出してしまいたいような、そんな気持ちになった。



  *  *  *



 レイに手伝ってもらい、着替えをすませたころ。宣言どおり、カイルがハーブティーを用意してもどってきた。

 セフィリアがハーブティーをひとくち飲み、ほっと息をはいたのを見届けると、カイルはベッドに腰かける。

 右にレイ。左にカイル。セフィリアはちょうど、ふたりに挟まれた状態だ。


「よっぽど怖い夢を見たんですね。でも、もう大丈夫ですよ」


 カイルはやさしい。まずはセフィリアの不安を取り除くために言葉をかけてくれる。 

 セフィリアが話そうとしなければ、カイルはなにも訊かないだろう。

 だが、それはいけないと、セフィリアは思った。


「……燐師兄さまが邪龍に乗っ取られたときのことを、夢に見ました」


 とたん、レイとカイルの顔つきが緊張したものに変わる。

 あの夜のことについてセフィリアが気に病んでいることは、ふたりもよく知っているためだ。

 親しい存在に「殺してほしい」など懇願され、セフィリアが心を痛めないはずがなかった。


「つくづく、気に食わないな……あのひとは」


 苛立たしげな声をもらしたカイルは、つとセフィリアへ視線をもどす。


「カイルさ──」


 ブルーの瞳に見据えられたかと思えば、ぐるりとゆらぐ視界。

 気づけばセフィリアは、ベッドに沈められていた。そこへカイルが覆いかぶさってくる。


「悪夢なんて気にする余裕もなくなるくらい、気持ちよくさせればいいですか?」


 そこにいるのは、陽気で快活なカイルではない。獲物を目前にとらえた、獣のような男だ。


「カイルさん……」


 けれど、セフィリアは抵抗しなかった。どうなろうがかまわないと思っていた。

 それからしばらく。セフィリアの頭上でため息が聞こえた。


「……なんて、本気で襲ったりしませんけど。いつもみたく真っ赤になって抵抗できないくらいお嬢さまが弱ってるのは、わかりました」


 やはり、カイルはすべておみとおしだった。

 すりすりと指先でセフィリアのほほをなでるカイルの表情は、セフィリアを労るやさしいもの。

 いつものカイルだ。ほほをくすぐる感触が気持ちよくて、セフィリアは思わずカイルの手にすり寄ってしまう。


「リア、きみが不安に思っていることを、俺たちに教えてくれないか」


 なりゆきを見守っていたレイが、セフィリアの手をにぎり、静かに問う。

 不思議なことに、それまでセフィリアをさいなんでいた胸さわぎが、一瞬で吹き飛んだようだった。

 ぎゅっとレイの手をにぎり返したセフィリアは、ゆっくりと口をひらき、心情を吐露する。

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