魔導の塔攻略戦前夜、奴隷部隊の戦奴が見張り当番を除いて寝静まった夜。アインは一人錆に塗れた大剣を見つめていた。
彼は一度も深い眠りに就いたことが無い。目を閉じ、浅く眠る事があっても物音が一つでもしたら直ぐに剣を取り飛び起きる。剣士の肉体と精神を蝕むは慢性的な睡眠不足と胸の内で暴れ狂う激情だけだったが、今は身に着ける戦闘甲冑に宿る死した戦奴の亡霊がアインの眠りを妨げる。
一度でも眠ってしまったら己の意思が途切れ、その瞬間に別の誰かに成り代わってしまう。現実を認識し続け、眠りの中の夢物語に浸る甘い考えは持ちたくない。己を形作る殺意だけは、絶やしたくない。意味不明な恐怖と曖昧な自己認識、真紅の瞳に映る剣が己であり、己は人でなく剣で在りたい。ただ、戦うだけの存在であればいいと、切に願う。
「眠れないのかい? アイン殿」
「……」
「私も眠れなくてね、少し相席しても宜しいかな?」
「……勝手にしろ」
「では失礼するよ」
カラロンドゥがアインの隣に座り、深い溜息を吐きながら夜空を見上げる。
「星が綺麗だねぇ。君、星を見上げたことはあるかい?」
「無い」
「そりゃあ残念だ。星は良い、この果てし無い夜空には戦争や国家などが存在せず、皆共存を果たしている。我等人とは違い、この星空は他者同士が真に結びついた理想を体現している。ほら、貴公も見上げてごらん、夜空の星を」
「……理想や思想を語るなら寝ろ。俺は暫く起きている」
「暫くったって貴公は私の知る限りじゃ一度も眠った事が無いだろう? いや、眠った事が無いのは違うか……深い眠りに就き、夢を見た事が無いのだろう?」
「……」
星を見上げ、理想を語ったところで現実は変わらない。何かを変える為に足搔き、藻掻き続けてきた者の行き着くところは新たな闘争の幕開けだ。希望や未来を語る為に、人は何を得て、何を捨てる。失わなければ気付けない不変の中で、果たして変化は必要なのか。
カラロンドゥは黒衣の袖より酒瓶を取り出し、一口呷り「不変の円環に縛られた者は、変化という希望を求め、絶望の未来を切り拓かなければならぬのだろう」と静かに話す。
「変わらない。それは確かに素晴らしい意思と誓いだ。だがね、不変とは己に縛られ歩みを止め、新たな視点を拒むことを意味するのだよ」
「……不変は悪だと言いたいのか?」
「否、変えてはならぬこともある。人は変化し続け、新たな思想や理想を抱く生物だ。変化は必要であり、進歩も新たな視点を得た上で取り入れる要素だろう。……変えてはならぬもの、それは愛と勇気だよ」
「馬鹿馬鹿しい……愛と勇気だと? そんな柔い意思で人は戦えない。血肉と死を求める殺戮者に愛は不要、勇気を抱いて戦う者は迷いを孕む。戦う為に存在している者は剣を取り、殺意を以て進むべきだ。殺戮衝動と闘争こそが、不変であるべきであろう」
「だが、殺戮と闘争は死と破壊しかもたらさぬだろう。人という生命が存続し、世界で生きる上でアイン殿の言う殺戮衝動と闘争は確かに必要だ。必要悪……うむ、その言葉がしっくりとくる。しかし、人が死を追い求め、戦い続ける世界でも愛と勇気は形を変えて存在するのだよ」
厭な笑みを浮かべたカラロンドゥは肩を震わせながら口角を上げ、黒甲冑の剣士を見る。その身から溢れる激情などお構い無しと言った風に、星と星を指でなぞった。
「空に星が存在せず、大地に草木の一本も存在しなかった時代をご存じかね?」
「知らん」
「知らぬなら教えよう。星が無き世界は闇に閉ざされた不毛の大地だった。大地に生きる生命は形を持っておらず、闇の中で己の存在を認識出来なかったのだ。闇は闇を知り得ず、生命は生と死の境界線上に存在する曖昧な存在だったのだよ。だが、星という光が生まれ、闇が己の姿形を認識した時、その生命は最初に何を抱いたと思う?」
「他者への嫌悪感と殺意だ」
「……実に貴公はロマンを知らぬ男だ。愛だよ、愛を知った上で、闇の中で生きる生命は勇気を以て他者を知ろうとしたのだ。誰かの手を求め、誰かの思いを知りたいと言う欲求から光へ歩み出した。どうだ、ロマンチックだろう?」
「俺なら他の存在を殺そうとするがな」
「貴公は、存外臆病な性格なのかも知れぬな」
アインはカラロンドゥの言葉に意見しないし、口も返さない。彼の視線は星空を一瞥しただけで、常に剣を見据えていた。
「剣を取る者として、貴公は完成された戦士なのだろう。その足が踏み締める大地が屍で舗装され、夥しい程の血で穢れていようと貴公はそんな事は意に返さずに進み続ける。常人ならば道半ばで狂人となり、廃人になる道でも貴公は完成されている故に歩く事が出来る。己に欠けた何かを知らぬまま、往くのだろう」
「……」
「その道の名は、貴公にしか知り得ぬ名。誰の手も借りず、誰も信用しない修羅の道。アイン殿、その道は魔道と呼ばれる冥府への道だ。その先には何も無い。生命も、生死も、何もかもが存在しない無の方途だよ。貴公は臆病な故に己の欠けた何かを理解しようともしないし、知ろうともしない。いいかい? 力を持つ者は、力を持った理由が必ず存在する。それを忘れないで欲しい」
カラロンドゥはそれだけ言うと満足したように大きく息を吐き、酒瓶をもう一度呷ると立ち上がる。彼女の頬は僅かに朱色に染まり、酒に酔っているように見えた。
「……眠るのか?」
「何だい? 私に傍に居て欲しいとでも?」
「どうでもいい。俺は、常に一人で戦場に立つ殺戮者。誰かに傍に居て欲しいなどと一度も思った事は無い」
「……貴公がそう思うならば構わない。だが、見えずとも、見ようともしなくとも、運命とは足音を立てずに忍び寄ってくるものだ。その時、貴公が選択を誤らないことを祈るばかりだよ、私は」
運命。その言葉にアインの指が僅かに反応したが、直ぐに剣の刃を撫でる動作に戻る。運命から連想したのは王城の中庭にて空へ手を伸ばす白銀の少女の姿。
白痴と呼ばれる少女をアインはそう思わなかった。身に余る尋常ではない魔力量と常人には見えぬ何かを掴み取る動作。少女から感じ取った力の片鱗から、アインは彼女に己と同じ力を感じ取り、少女は白痴ではなく周囲に興味を示さないだけだと見抜いた。
「お休み、アイン殿」
そう呟くように言ったカラロンドゥはテントへ戻り、床に就く。その姿を目で追ったアインは沈黙を貫いたまま、剣を見つめ続けた。