次の日、
「お、なんだ犬野郎。来てたのかよ」
「お前がいるとはな、虎野郎」
晧月の顔を見ると浩然はげんなりした様子で口を開いた。林杏とも目が合う。すると浩然は視線を少し泳がせたあとに「よう」と小さく声をかけてきた。
「お疲れさまです」
以前のように噛みついてこなくて、林杏は安心した。やはり毒蛇の修業のときに助けたことに恩を感じているようだ。
「犬野郎、調子はどうだよ? 俺たちはあと桃だけだぜ」
「ふん、あと1つだからと、威張ったところでなにになる」
「なんだよ、その反応。もしかして1つ目か?」
「馬鹿にするな。2つ目だ」
晧月にからかわれるくらいなら、初めから言っておくほうが精神的な疲労も少ないのでは、という言葉を林杏は飲み込んだ。
「浩然さんは、いつこの桃園に?」
林杏は教えてもらえないつもりで尋ねた。すると浩然は意外にもすぐに返事をしてくれた。
「3日前からだ。ここの主らしき女性がなかなか桃を譲ってくれなくてな」
きっと桃の枝を挿した、あの女性のことを言っているのだろう。浩然が3日かかってまだ桃を貰えていないとなると、やはりなかなか手ごわいようだ。
「んじゃあ、俺たちは行くわ。お前も頑張れよ、犬野郎」
「上から目線で言うな、虎野郎」
晧月がにやりと笑うと、不機嫌そうな顔をしている浩然のもとから、林杏と晧月は立ち去った。
「晧月さん、私達もあの女性を探しましょう」
「なーに、ゆっくりでいいじゃねえか。気が急いたってなんの得もしねえよ」
「ですが、桃を貰わないと今回の修業の完了には……」
林杏がそう言うと、晧月は微笑みを浮かべて首を横に振った。
「林杏、例えばお前さんが大事なものを持っていて、それを売ってほしいって言ったやつがいるとする。話をするたびにお前さんの大事なものを売ってもらおう、っていう気持ちが隠しきれていない。そんなやつと話したいと思うか?」
少し考えてから、林杏は首を横に振った。晧月は「だよな」と言って続ける。
「人っていうのはな、思惑がにじみ出ちまったら相手を冷めた目でしか見られなくなるんだよ。1番うまいのは、思惑を隠して『あなたのためを思っていますよ』って顔ができるやつだ。……まあ、タチが悪いやつだと詐欺師とか地上げ屋だな。商人にも商売っ気を隠してうまくやれてるやつがいる」
つまり、桃を譲ってほしいという気持ちを上手に隠して女性と接する必要がある、ということだろう。
(そんな器用なこと、できるかな)
しかし自信がないなどとは言っていられない。やるしかないのだ。
「わかりました、がんばります」
「まあ、ほどほどにな。じゃあ、あの人探すか」
林杏は頷くと、晧月と共に女性を探した。
桃園は思ったよりも広かった。たわわに実った木々もあれば、まだ蕾の列もあった。たくさんの桃の花が咲いているところを歩きながら、女性を探す。
「それにしても、どこにいらっしゃるんでしょうか?」
「さあな。こんだけの広さの桃園を1人で管理しようと思ったら、多変だろうなあ。あちこち動き回ってるかもしれない」
晧月もあちこちを見回しているが、それらしき人影はない。
(それにしても、どこまで歩いても桃の木がある。すごくきれい。きっと手塩にかけて育ててるんだろうな)
そのときふと、人影が見えた。テキパキと手を動かしているようだ。近づいてみると、昨日会った女性だった。晧月と顔を合わせ、頷き合う。
「こんにちは」
林杏が声をかけると、女性はふり返った。表情は固い。
「あら、どうも」
「こちらの桃園はお1人で管理を?」
林杏の問いに女性は答えてくれた。
「ええ。桃と向き合っている時間は、心が落ち着きます」
桃の木を見つめる女性の目つきは穏やかだ。おそらくここの桃は、彼女にとって心の支えなのだろう。
(そりゃあ簡単に譲ってくれないわけだ)
ならば林杏や晧月にできることは2つ。彼女の信頼を得るために、ゆっくり時間をかけること。譲ってほしいという気持ちをにじませないことだ。
しかしそう考えると、なにを話せばいいのかわからない。林杏が考えていると、先に晧月が口を開いた。
「桃ってやっぱり間引いたりするんで?」
「ええ。花や枝をきちんと切ったり摘んだりしてやらないと、実の質も下がりますから。一見するとかわいそうに思えますが、最終的にはこの子たちのためになるんです」
「子育てみたいなものかもしれませんね。俺はしたことありませんが」
「そうかもしれませんね。わたくしもしたことはありませんが。……いえ、大昔はあったのかもしれません。ここに来てからずいぶん経ちますので、記憶がおぼろげで」
記憶がなくなるほどの長期間を、この桃園で過ごしている。それもたった1人で。
(寂しくないんだろうか)
林杏は口を開きかけたが、やめた。女性はこの桃園を愛して管理しているのだから、侮辱になってしまう。
「ここの桃たちは、愛情を注げば注ぐほど応えてくれます。……人は、応えてくれないことも多々ありますから」
そう話す女性の表情が少し陰る。しかしすぐにその暗さは消えて、林杏と晧月に尋ねてきた。
「ところでご用件は?」
林杏はどう答えればいいか迷った。桃は欲しいが、信頼してもらうのが先だ。しかし信頼してもらうためにはどう言えばいいか思い浮かばない。すると晧月が答えた。
「そうですね、ちょっとしたお誘いを、と思いまして」
「誘い、とは?」
女性の表情が固くなり、警戒しているのがこちらにも伝わる。しかし晧月は気にした様子はなく、続けて言った。
「お茶会をしませんか? もちろん、あなたが1番安心できる場所で構いません」
予想していなかった提案に、林杏は思わず晧月のほうを見た。晧月はまっすぐ女性を見ている。女性は表情を崩していない。しばらく2人は見つめ合っていたが、女性が小さく溜息を吐くと続けて言った。
「わかりました。お受けしましょう。用意は今からわたくしがしますので、太陽が真上にきたら、またこちらへお越しください」
「ありがとうございます。それでは、また。行こうぜ、林杏」
「あ、は、はい。失礼します」
林杏は晧月とともに頭を下げ、女性のもとを去った。