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28.桃の母

 お菓子を持って帰ってきた林杏リンシンは、晧月コウゲツと桃園に向かう。場所は昨日と同じ。桃の花や若木に囲まれて行なうお茶会は、穏やかな気持ちになる。

「こんにちは」

 晧月が梓涵ズハンに声をかけると、彼女は顔を上げてゆったりとお辞儀をした。

「よくいらっしゃいました。どうぞ、お座りください」

「あの、今日もお菓子を持ってきました。月餅とサンザシのお菓子です」

「まあ、ありがとうございます。一緒に食べましょう」

 林杏も晧月の隣に座った。机は丸く、皿のほかに、湯呑みと急須が置かれている。

「今日は桃の花のお茶にしましょう。たくさん作ってあるんです」

「え、桃の花ってお茶になるんですか? 私、初めて聞きました」

 林杏は思わず本音を口にする。すると梓涵は簡単に説明してくれた。

「間引いた花を乾燥させると、お茶になります。少し苦みはありますが、香りがいいんですよ」

 そう言って梓涵は急須から桃の花のお茶を注いだ。ふわりと花の香りがして、自然と肩の力が抜ける。

「お好みでこちらのはちみつを使ってください」

 そう言って梓涵は小さな壺を机の中央に置いた。

 林杏の前にも桃の花のお茶が置かれる。そっと飲むと、確かに苦みはあるが山菜と同じくらいだったので、そのまま飲むことにする。晧月は壺の中のはちみつをお茶に落としていた。

「このお茶を作るのも仕事の一環で?」

 晧月の問いに梓涵は答えた。

「もともとは趣味で行なっていました。しかしどうやら神々に気に入られたようで、今では仕事となっています」

 神。この世界を作り、さまざまな生命を見守っているという存在。

「梓涵さんは神に会ったことがあるんですか?」

 林杏は思わず尋ねた。すると梓涵は首を横に振った。

「いつも指定されている場所に前もって桃やお茶を置いていると、知らないあいだになくなっているんです。時間もバラバラで。けれどわたくしの前の管理人時代からそうだったようなので、あまり深く考えないようにしています」

「神のこと、気にならないんですか?」

 自分ならきっと気になってしまう、と林杏は心の中で思った。もしも本当に神という存在がいるのならば、聞いてみたいことも考えるのに。

「ええ、それほどは。たしかに会えたら面白いかも、とは思いましたが。まあ、縁があればお会いできるでしょう」

 林杏は思わず感心した。梓涵の落ち着いた考え方は、林杏にはまだないものだ。ふと、梓涵と目が合う。その目はまるで我が子を見る母親に似ていた。

「あの、私の顔になにかついてますか?」

 林杏は不安になり、梓涵に尋ねた。お菓子のかけらでもついていたとしたら、大変恥ずかしい。

「ああ、ごめんなさい。あの子も生きていれば、あなたのようにお菓子を頬張ったのかもしれない、と思ってしまって」

「お子さん、ですか?」

 林杏の質問に梓涵は微笑んだ。

「生まれてくることはありませんでしたが」

「すみません、悲しいことを思い出させてしまって……」

 林杏が謝ると、梓涵はゆったりと首を横に振った。

「大丈夫ですよ。……女の子だったのです。その後すぐに夫も兵役で亡くなったので、新たな子どもをこの手で抱くことはありませんでしたが……わたくしにはこの桃園があります。それで、十分です」

「梓涵さん……」

 林杏はどのような言葉をかければいいのか、わからなかった。すると、梓涵が話題を変えてくれた。

「ところでお二人の故郷は、どのようなところなのですか? ぜひ聴かせてくださいな」

「俺はフェイ州の出身なんで、賑やかでしたね」

「晧月さんは顔が広いみたいで、おもしろい方々と知り合いのようなんです」

 林杏は以前聞いた、絵描きの女性と飴屋の店主のことを思い出した。

「まあ、そうなのですね。林杏、あなたも輝州が故郷ですか?」

「いえ、私はヤン州の山にある、小さな村です」

 すると梓涵は少し驚いたようだった。

「仲がいいから、てっきり同郷かと」

 そういえば以前にも言われたことがあった。晧月は人懐っこいので、話しているだけでとても仲がいいように見えるのかもしれない。しかし林杏も晧月と話しているのは楽しいので、仲がいいと言われて悪い気はしない。

「林杏は、故郷でずっと蛇に求愛されていたそうですよ」

 晧月が付け足した言葉に、梓涵は首を傾げた。林杏は自身に平伏の力があったこと、そして1匹の蛇になぜか求愛行動をとられていたことを話した。

「まあ、その蛇にとって、林杏はとても大切な人だったのですね。……きっと、わたくしにもいたんでしょう。……もうずいぶんとこの桃園にいるせいか、記憶がおぼろげになっていて。夫の顔も思い出せませんが」

「梓涵さん」

 もしも自分が両親たちの顔を思い出せなくなったら。晧月の存在を忘れてしまったら。想像して林杏は心が締めつけられた。

「この桃園には優しい人も、清くない心の持ち主もきます。桃を手に入れるために。……心ない人に渡した結果、桃を不幸な目に遭わせたくありません。わたくしは、この桃園の、桃たちの母なのですがら」

 梓涵は桃の木を見た。その眼差しは林杏に向けたものと同じだった。


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