建物内に着くと、
「浩然さん」
林杏は思わず声をかけて近づいた。浩然がこちらを向く。
「よかった、石から戻れたんですね」
「ああ。……その、桃園の管理人からお前が働きかけてくれたと聞いた。感謝する」
浩然は頭を下げた。林杏は首を横に振る。
「そんな。だって、浩然さんが桃を盗むとは思えませんし」
「お前がオレのことをどう思っているかは知らんが、オレはそれほど立派なやつじゃない。手のひらに落ちてきた桃を、このまま持って帰ろうか迷ってしまう程度には欲まみれだ」
林杏が再び口を開きかけたとき、背後から聞き覚えのある声がした。
「おー、犬野郎。戻れたのか。よかったなあ、林杏がかけ合ってくれて」
「うるさい虎野郎。今ちょうど礼を言っていたところだ」
「え、お前さんってお礼言えるのか?」
「オレをなんだと思ってるんだ、おい」
林杏は2人のやりとりを見て、思わず笑ってしまった。すると別の足音が聞こえた。天佑だ。3人は話すのをやめ、横1列に並んだ。
「これより、新たな修行を与えます」
天佑の言葉であることに気がついた。イタチの獣人の女性、
天佑はゆったりした袖の内側から、3本の竹簡をとり出した。
「各自1本ずつとりなさい」
最初に晧月、次に浩然、最後に残ったものを林杏が天佑の手から引き抜いた。そして裏を見るとそこには【春天山】(チュンティエンざん)と書かれていた。
(春天山って、実家から歩いて1週間くらいのところにある山だったはず)
春天山は常に梅や桜が咲いているかのような桃色の地面が特徴的な山だ。春になると生えている梅や桜が満開になり、桃色がいっそう美しくなる。
「今そちらに書かれている山で半年籠りなさい。籠る山の名前は互いに明かさぬように。町や村に出かけることは禁じます。明日から山に籠りなさい」
天佑はそう言って竹簡を回収すると、建物から立ち去った。
「まーた奇妙な修行だなあ。だが持って行くものは制限されてないみたいだからな、しっかり準備していこうぜ、林杏」
「そうですね」
林杏が頷くと、浩然も建物から出て行こうとしていた。
「あ、浩然さん」
「……なんだ」
「お気をつけて」
林杏がそう言うと、浩然は小さく「ああ」と答え、出ていった。
晧月は浩然には興味がないようで、林杏に話しかけてきた。
「おい、林杏。なにを持っていったら便利だと思う?」
「そういうことって話し合ってもいいんですかね?」
「なーんにも言われてねえからいいんだよ。ちょっと作戦考えようぜ」
「作戦って、行く山違うでしょうに。いいですけど」
「よし、じゃあ俺の部屋で考えよう」
林杏は晧月のあとに続いて、建物を出た。
晧月の部屋に着くと、晧月は林杏に椅子を勧めてくれた。素直に腰を下ろすと、晧月は寝台の上に座った。
「さーて、山に半年間籠るのか。山っていえばまず小刀はいるわな。あとは小さくってもいいから鍋があると助かるよな」
「そうですね。道具があるだけで調理方法が広がるかと。あとは調味料もあると、精神的な安定具合が違うと思います」
どうせ籠るなら、食事くらいは味のついたものを食べたい。林杏はほかにあったほうがいいものがないか、腕を組んで考える。
(水はあれば助かるけど、意外と重さがあるし。あとは、夜に備えて上着はあったほうがいいかも。それから火打ち石はもちろんいるし。そうだ、簡単な器があったら食事や食料を探すときに使える)
林杏が上着と簡単な食器のことを伝えると、晧月は「たしかに」と頷いた。
「そうだなあ、使ってない食器とかないか聞いてみるか。食堂がよさそうか」
「そうですね。上着は自分のものを持っていけばいいですし」
「ほかにあったほうがいいものってあるか?」
林杏はもう1度考える。
「最低限の食糧の持ち出しもですよね。
「そうだな、大事だ。ほかはなにかあるかあ? うーん」
「あまり荷物が多くても、山の中で動きにくくなるかもしれません。それくらいじゃないでしょうか」
「それもそうか。じゃあ、ちょっと食堂に行って頼んでみるか」
林杏は晧月と共に食堂に向かった。
食堂では食器の音がしている。林杏は
「荷花さん」
林杏は大きめな声で名前を呼んだ。すると荷花は水や食器を置く音などがするなか、なんとか気づいてくれ、こちらにやってきた。
「あら林杏。どうしたの?」
「実はお願いがあるんです。修行で半年ほど山に籠らなくてはいけなくなりまして。1週間分の辟穀の食糧、それから塩を2人分いただきたいのと、使っていない器があれば2つお借りしたいんですが」
「わかったわ、ちょっと座って待っていてくれる?」
「はい、ありがとうございます」
荷花は厨房の奥へ姿を消した。林杏と晧月は厨房に近い位置にある机に座った。しばらくすると、2つの包みを持った荷花がやってきた。
「お待たせ。食事と器が入ってるから、確認してちょうだい」
荷花から包みを受けとり包みの結び目をほどくと、木の器が1つ、1週間分の干し肉と干した果物、紙に小さく包まれた塩が5つ入っていた。
「ありがとうございます。器はお返ししますね」
「いつでも大丈夫だからね。あ、洗ってあるからすぐに使えるわよ。修行、気をつけてね」
「ありがとうございます」
林杏と晧月は荷花に別れを告げて、食堂を出た。
食堂の入口の外側で晧月が立ち止まり、声をかけてきた。
「これで準備はよさそうだな。ああ、そうだ林杏。山に着いたら木の幹とかに、その日が来て何日目か印しておけよ。時間の感覚がわからなくなると、つらいだろ?」
晧月の言葉で前世での
「ごもっともです」
林杏は苦い思いをしながら返事をした。
共同宿舎の前で晧月と別れて、自室に戻る。
(さて、準備するか)
林杏は気合を入れて、明日に向けて荷物をまとめはじめた。