目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

35.霧

 鳥の鳴き声と、瞼に直撃する太陽の光で林杏リンシンは目を覚ました。

「あ、れ……?」

 林杏はゆっくりと体を起こした。桃色の枝のすき間から降り注ぐ日光、落ち葉の感触、頭よりも高いところにある道らしき場所。じわりじわりと出てくる全身の痛み。しかしその痛みは裂傷のような鋭く熱いものではなく、打撲のときの感覚に似ている。

(ちょっと待って、これはどういう状況?)

 林杏は記憶を整理することにした。

(そう、洞くつの外に出たらすごく大きな狼がいて、それで逃げて。それから足元に狼の大きな口が出てきて、飲み込まれて。……え、なんかおかしくない?)

 あのとき、狼の声は四方八方からしていた。それに狼と林杏ならば間違いなく狼のほうが足も速いはず。しかし狼たちは襲ってこずに、ただただ林杏を追いかけてきていただけ。そして足元に道ではないものが現れた。あり得ないことだ。そしてもしもその口が本物なら、林杏は今この場にいないはず。

 林杏は頬をつねった。痛い。つまり、今ここにいるのが現実ということになる。

(まさかあの狼……幻覚? なんでまた)

 すぐに原因がわかり、1つの可能性にたどり着く。昨日食べたキノコだ。あのキノコに幻覚を見せる毒があったとすれば、昨日の状況にも今の自分の状態にも納得がいく。

(ああー、毒キノコだったかー……)

 林杏はなんともいえない気分になりながら、大の字に倒れ込んだ。どうやら落ち葉の溜まり場らしく、洞くつの中よりも軟らかくて気持ちいい。

「てか幻覚かーいっ。でも幻覚でよかったー、本当によかったー、怖かったーっ」

 林杏は思わず叫んだ。鳥たちが驚いたのか、飛び立った音がする。

(あのキノコは2度と食べない。絶対食べない)

 林杏は心に誓ったところで、あることに気づいた。

(ここどこ?)

 間違いなく春天山チュンティエンざんの中だが、洞くつからどれだけ離れているのか、下ったのか登ったのかもわからない。

(まずは怪我してないかどうか、確認しよ。……うん、捻挫や大きな怪我もない。よかった。さて、じゃあ次はここから脱出しなくちゃ)

 林杏は足元に気を集め飛ぶと、道に着地した。気の操作も問題なさそうだ。林杏はそのまま真上に飛び山を見下ろして現在位置を確認しようとした。しかし、あることに気がつく。

(この山に籠れって言われたけど、もしも山より高く飛んだことが、山を脱出したって判定をされたら?)

 頭の中に浮かんだのは、霊峰の真上にある桃園の主、梓涵ズハンの笑顔。

(また梓涵さんとお茶会するんだ)

 林杏は飛ぶのを止めた。

(たしか山で遭難したときは、山頂を目指したらいいって父さんに言われたな。とりあえず登ってみよう)

 林杏は獣道を進むことにした。

 林杏は足場の悪い道を歩きながら、あることに気づいた。このまま歩き続けていれば、お腹が空いてしまうだけだ。

(呼吸法を変えないと、空腹が辛くなっちゃう)

 林杏は呼吸方法を変え、足を動かし続ける。

(どれくらいで山頂に着くかな? できれば早く着きたいけど、夜に歩くわけにはいかないし……。遅くても2、3日くらいで着いたらいいんだけど)

 林杏は山頂があるだろう上のほうを見る。山頂はやはり景色がいいのだろうか。

(故郷の山はそんなに高くなかったな。半日もあれば山頂に着いたし)

 そういえば、林杏と会うたびに求愛行動をしてきていた蛇はどうなっただろうか。番を見つけて幸せに暮らしているだろうか。ほかの動物たちも元気だといいのだが。

(とにかくなんとかして山頂に行かなくちゃ)

 林杏は考えるのをやめて、ひたすら足を動かすことに集中することにした。


 夜になると、あまり凹凸おうとつのない木の幹にもたれかかった状態で眠った。どんな動物がいるかわからないところで、寝転ぶ勇気はなかった。

 朝日が昇ると同時に目が覚め、すぐに歩き出す。しばらく歩を進めていると、足元や倒木にたくさんのキノコが生えているのがわかった。どうやら群生地に入ったようだ。林杏は足を止めて、キノコを見た。傘は黄色く、白い粒がいくつもついている。

(食べれたらいいけど、火もないしなあ。キノコは生で食べたらいけないし)

 林杏は再び歩き始めた。どこを歩いても黄色く白い粒のあるキノコが生えている。よほど繁殖力が強いのだろうか。

林杏はあることに気づいて立ち止まった。

(なんか周りが白くなっていってる。まさか、霧?)

 もしも霧が発生しているなら、歩き回らないほうがいい。しかし雨は降っていないうえに、今はそれほど霧が起こりやすい時期でもない。

(でもこの山って、なんだかほかのところと違うし。用心するに越したことはない、か)

 林杏はその場に座ろうとしたが、あちこちに黄色く白い粒がついているキノコが生えている。林杏は近くにあった倒木で、キノコが生えていないところに腰を下ろした。

(少し休憩しよう。まだ先は長いだろうし。この山ってどれくらいの高さがあるんだろう。最初着地する前にちゃんと見ておけばよかった。……あ、れ?)

 林杏は異変を感じていた。手足が痺れてきたのだ。その痺れはすぐに全身に回ってきて、体勢を維持できなくなり、座っていた倒木の前に倒れる。

(な、なんで、痺れが?)

 昨日からなにも口にしていないはずなのに。林杏はなにもわからなかった。心当たりがない。

 体の先端だけだった痺れはどんどん全身に広がっていく。のどの周りも痺れてきた。このまま呼吸器まで動けなくなったら。想像するだけで恐ろしい。

(考えろ。原因を、解決策を)

 息が苦しくなってくる。林杏はとりあえず自身の気の巡りを探ることにした。流れている気が乱れているうえに細い。このままではこの世を去ることになってしまう。

(気を整えるのも苦しすぎてできない。でも、なんとかしなくちゃ)

 なにか方法はないか。今までの修業で身に着けたのは。

(そうだ、内丹術ないたんじゅつだ)

 林杏は手のひらに気を集め、痺れをとる丸薬を作る。しかしよく考えれば手を動かすことができないので、口に入れられない。

(なんとか、なんとか動かせないかっ。……だめだ、まったく動かない。……そうだ、舌の上は?)

 林杏は舌の上に気を集める。すると硬い感触が現れた。なんとか力をふり絞り、唾液と一緒に飲み込む。次第に体中の痺れが引いてきたので、なんとか立ち上がった。

(なんで急に体が……。なにか原因があるはず)

 そんな風に考えていると、再び体が痺れてきた。膝が地面につき、転倒する。

(なんで? 丹は効いたはず。……まさか、この霧のせい?)

 よく見ると霧は少し黄色く色づいている。そして目の前にある黄色く白い粒がついているキノコの傘の内側から胞子が出ていた。霧と同じ色をしている。

(そうか、これは霧じゃなくってキノコの胞子で、この胞子のせいで体が動かないんだ)

 それならば、いつまでもここにいてはいけない。林杏は舌の上で再び丹を作り、飲み込んだ。体の痺れが少しずつ消えてきた瞬間、林杏は霧、いや胞子の外へと動きだした。

 胞子が飛んでいた範囲はそれほど広くなかったようで、痺れが残る体でもそれほど時間をかけずに脱出できた。

「はあー」

 林杏はその場で座りこみ、大きく溜め息を吐いた。

(ひどい目にあった)

 まだ少し体が痺れている。少し休んでから動くことにして、林杏は目を閉じた。

(なんかどっと疲れた)

 幼い頃に母親から「眠れなくっても、目を閉じていれば疲れはとれるのよ」と言われたことを思い出す。

(これが修行じゃなかったらすぐに下山してるな)

 痺れはとれてきたものの、入れ替わるように体がだるくなってきた。

(ちょっとだけ横になろう)

 林杏は落ち葉の下に硬い感触がないことを確かめると寝転んだ。

 寝転んでしばらくすると、疲労感が姿を隠したように感じる。林杏は起き上がり、再び頂上を目指した。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?