姉が落ち着いた頃には日がだいぶ高くなっていた。
「さっそく食べられる実について教えます。こちらへ」
林杏はまずは桜桃のことについて説明することにした。
「桜桃は桜の花が散って、実になったものです。といっても観賞用の桜には実をつけないものもあります。この山の桜は実ができるものです」
「桜って、あの薄い桃色の花のことですか?」
「ええ。この山の土や石は砂糖でできているためか、通常のものより甘みが強いですね。果物は乾燥させたり砂糖漬けにしておけば長期保存できます。この桜桃を摘んでください。採るのは実だけで。茎ごととってしまうと、次の年に実ができなくなってしまいます。そう、茎を軽く持ったら実だけ引っ張って」
指示どおりにして桜桃が採れた姉は明るい表情で、林杏のほうを向いた。
「採れましたっ」
「いいですよ、その調子です。砂糖漬けにしたいので、もう少し採りましょう」
「はい。全部採ればいいですか?」
この1ヶ月で何度か鳥や蛇を見かけている。林杏が出会っていないだけで、ほかの動物がなにかいるかもしれない。
「いえ、動物たちの分も残しておきましょう。餌がなくなると人里に下りて農作物を荒らすことも増えてしまうんで」
「農作物を荒らされると困るんですか?」
「もちろんですよ。食料がなくなると日々暮らせませんし、冬も越せませんから」
「冬を、越す」
姉はいまいち想像できていないようだ。裕福な家で隔離されていたのだから、わからなくて当然かもしれない。林杏はこれからのことも考えて丁寧に教えることにした。
「冬はとても寒く、食べ物やお金がなければ死んでしまいます」
「火鉢を使ったり、足湯をしたりすればいいのでは?」
「炭を買うのにもお金がいります。なかには炭を買えない人もいるくらいです。それに食べ物がないと空腹で動けなくなり、体温も下がります。するとさらに動けなくなり、この世を去るんです」
姉は信じられないといった表情をしている。温かな家の中にいて、これまで寒さを経験したことがない姉からすれば衝撃なのだろう。
「冬になれば空気も水も冷たいですし、作物は育たなくなります。もちろん寒さを利用して育つものもありますが、多くはありません。だから秋までに収穫し、保存食を作るんです。作物の出来で、冬を越し春へ命を繋げられるかが決まります」
「そ、それなら温かい家に引っ越せば……」
「新たに家を買えるのは一部のお金持ちだけなんです。多くの人は家を借りるのです。もちろん先祖から受け継いだ家を持っている人もいます。しかしお金がなければ改修もできません」
姉は次の言葉を探しているが、なにも浮かばないようだった。そんな姉に林杏は声音を優しくして話しかけた。
「家を改修してくれる人がいて、炭を作って売ってくれる人がいて、作物や食べ物を作ってくれる人がいる。そんな人たちにお礼を含めて相応の対価を支払う。そうやって私達の世界は回っているんです」
林杏は1度言葉を区切って、話を続ける。
「もちろん、お金以外にも大切なものはあります。けれどお金があれば大抵のことは解決します。でも人をだましたり物を盗んだりするのはいけません。だからできることを増やしましょう」
「はい……。わたくしは、守られていたのですね。世間のことをなにもわかっていませんでした」
姉はしゅんとしている。そんな姉に林杏は言った。
「あなたは守られていたのではありません。ただ自由を、考えることを奪われていただけです。あなたは今、新たに生まれたのです。生まれたばかりの者が世界をわからないのは当然です。だから、これからいろいろ知っていきましょう」
姉は小さく頷いた。林杏は姉がこれ以上落ちこまないように桜桃をとってもらい、次は桃について話すことにした。
「桃の花が散ると、このように実となります。桃の実はそのままでもいいですが、砂糖漬けにしても大変おいしく食べられます。それじゃあ、採ってみましょう」
林杏は桃のもぎかたを教え、姉に採ってもらう。
採った桜桃と桃の量を見る。
(これだけあれば十分か)
林杏は姉に声をかけて、共に洞くつに戻った。
昼食に採った桃と桜桃、干したキノコで作った汁ものを食べることにする。
「では調理をしてみましょう。今回はキノコ汁を作ります。用意するのはキノコと塩、もしもあれば
「ひしお、とは?」
「動物や魚の肉、もしくは穀物を塩で漬け込んで作った調味料のことです。発酵食品の部類になります。入れると料理のおいしさがぐっと上がるので、早めの入手をおすすめします」
林杏は鍋を手にとり、川に行くことを姉に告げ、共に来てもらった。
「水の確保は大事です。どこかで野宿するときは必ず最初に探してください」
姉の返事がない。林杏が振り返ると、そこには姉の姿がなかった。
(姉さんっ?)
心臓がひやりとする。もしもいつぞやの自分のように落下していたら。
林杏は来た道を戻る。すると姉はしゃがみこんでいた。林杏は姉のもとに駆け寄った。
「どこか怪我を?」
「いえ、ちょっと疲れてしまって」
姉は前世の両親が捕まるまで、ずっと家に閉じ込められていたのだ。体力がないのは当然である。
(しまった、そこまで考慮すべきだった)
林杏は自身の配慮のなさに、口の内側を噛んだ。
「すみませんでした。あなたは今まで外に出ることがなかったのに。すぐに戻りましょう」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
「だめです。無理をするのと努力するのは違います。さあ、戻りましょう」
林杏は来た方向へ回り込んだ。姉が立ち上がったのを確認すると、先頭を歩いた。時折振り返り、姉がついてきていることを確認する。
洞くつに戻ってくると、姉にはたき火の前に座ってもらった。
「ここで休んでいてください。私は食事のために水を汲んできます。すぐに戻りますので」
「はい……すみません」
「いえ、私のほうこそすみませんでした。私はこの山にあと5ヶ月ほどこの山にいなくてはいけないので、ゆっくりやっていきましょう。では、いってきますね」
林杏は川へ向かいながら考える。
(あと5ヶ月で姉さんが生きていけるようにしなくちゃ。……でも姉さんは体力がないし。いや、そもそも今日までのあいだ、まともに食べてたのかすらわからない。いや、髪は傷んでいたけれど、体はそれほど痩せてなかった。なら今までどこにいたんだろう?)
川に着いたので鍋に水を入れた。水は意外にも重い。こぼさないように足元と水面に注意しながら運んだ。