目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

45.真実

 姉は空が暗くなりそうな時間にやっと帰ってきた。

「遅くなってすみません。商店の女将さんと話が盛り上がってしまって」

「いえ。大丈夫ですよ」

 キノコを売ったときの金銭は、荷花フーファへのお礼を買う分だけをもらい、残りは姉に渡している。どうせ道院に戻れば違う修行が始まるのだ。この修行のあとはまた泥のように眠るだろう。村や町に行って買い物はできても、遊ぶ余裕はない。

 姉はすっかり慣れた手つきで、夕飯の用意をはじめた。近頃は売ったキノコやカゴの代金で姉が、少量だが山にない食材を買ってきてくれる。もちろんひしおはまっさきに入手させた。今日は魚の干物を買ってきてくれた。キノコと一緒に炊いてくれるようだ。

 姉の後ろ姿を見ていてふと、林杏リンシンはあることに気がついた。姉は【】だ。生まれつき仙人である存在なのだから、霊峰に住めるのではないか。林杏は姉に声をかけた。

「あの、霊峰へ行こうとは思わなかったのですか?」

 姉の手の動きが一瞬止まる。姉は調理を進めながら話してくれた。

「実はこの山に来たのは、死ぬためだったんです」

 ああ、やはりそうか。そんな気はしていたのだ。

「両親が捕まったあと、わたくしはしばらく役所に保護されていました。けれど役所の保護が終わってから、どうすればいいのかまったくわからなかったんです。会ったことがないはずなのに、わたくしのことを知っている人がたくさんいて。石も投げられました、『金に汚いからこうなったんだ』って言われて。なにがなんだかわからなくて……」

 両親の本来の顔を知らなかった姉からすれば、いきなりに感じるだろう。話すべきだろうか、と迷っていると姉が続けた。

「どうやら両親は多額の金銭を得て、わたくしに治療させていたようだったのです。わたくしは、そんなことすら知らず、いいことをしている気でいて……」

 両親の本当の顔を知った姉は、いったいどういう気分だったんだろうか。林杏には想像しかできない。

「人を癒している気でいたわたくしは、とても愚かで。……妹は知っていたんでしょうか、両親のことを」

 林杏はどう答えようか迷った。林杏が知っているのも不自然ではあるが、杏花シンファとして答えたい気持ちもある。

「あなたは、どう思いますか?」

 林杏はその一言しか出なかった。姉は「わかりません」と首を横に振った。

「ですが、妹は両親に許されないことをしていました。だからわたくしは、妹が嫁いで出て行ったと聞いて、ほっとしたんです?」

「え? どういうことですか?」

 林杏は思わず姉に尋ねた。林杏がなにをしたというのだろうか。

「妹は幼い頃から、両親に暴力をふるっていたようなのです。全力で暴れられ、手が付けられないと両親が言っていました」

 林杏は理解できなかった。暴力をふるわれるのは日常茶飯事だったが、前世の両親を殴ったことなど1度もない。なぜそんな話になったのか。

「あなたの妹は両親を殴ったことなどありませんよ。むしろ殴られていました」

 林杏がそう言うと、姉はようやくこちらを向いた。驚きの表情を浮かべている。

「そんな。だって、母には青あざだってあったんですよ」

「そんなもの、化粧道具を使えばいくらでも再現できます。あなたの身の回りを世話していたのは誰ですか? 妹でしょう。両親に暴力をふるうような人間が大人しくあなたの身の回りの世話なんてしませんよ」

「そ、そんな。で、でもなぜ両親はわたくしにそんな嘘を……?」

 姉の問いに林杏は1つの可能性を話す。

「あなたと妹を仲よくさせたくなかったんですよ。仲よくなれば、力を合わせる。力を合わせるようになれば、あなたが家を出ていくことも可能でしょうから。……あなたの【生】の力を死ぬまで利用するために、あなたを孤立させるために、嘘をついたんだと思います」

「じゃあ、妹は……。わ、わたくしは妹になんてことを。あの子は……わたくしに家の外の世界が広いということを教えてくれたのに。あの日夜空も美しいと教えてくれたのに」

 どうやら一緒に部屋から抜け出したときのことを思い出しているようだ。そう、林杏は姉に知ってほしかった。部屋の外の世界を。そしてもしもあのとき、姉が望めば自分の命にかえてでも逃がすつもりだった。姉は覚えているだろうか、あのときの杏花の言葉を。

「妹は、言ったんです。『遠くに行きたい? 今行きたい?』って。でもわたくしは両親が心配するからと帰ったんです。も、もしもあのときわたくしが、頷いていれば妹は、両親からの暴力から逃れられたのでしょうか。わたくしが一緒に逃げていれば……。そうだ、あの、妹が嫁いでからのことをご存知ですか? 妹は、幸せなんでしょうか?」

 林杏はどう答えようか迷った。しかし今さら嘘を教えたところで、姉にとって救いにはならない。

(いや、違う。私は……過去の私を救いたいんだ)

 林杏は話す。

「あなたの妹は嫁いだのではありません。売られたのです。何人も愛人がいる老人のもとに」

「え……」

「売られて、愛人となってからは老人に愛でられました。幸いともいうべきか、体の関係を持つことはありませんでしたが。そして冥婚(めいこん)を迫られました」

 ここで言葉を切るのは意地が悪いだろうか。そんなことを一瞬思ったが、林杏は続けた。

「その冥婚をなんとか逃れましたが、死にました」

「そ、んな……」

 姉は両手で顔を覆い、「そんな」と泣きはじめた。

「わたくしは、本当になにも知らなかったのですね。両親の本当の顔も、妹の境遇も。しかもわたくしは両親の言葉を信じて、妹に厳しく当たって……。なんて愚かなんでしょうか」

 林杏はなにも言えなかった。いや、前世の自分のことを考えると、なにも言いたくなかった。

「せめてわたくしがもっとさとければ。あの子ともっと話をしていれば。あの子の話を聞いていれば。ごめん……杏花、ごめん……」

 ごめん。姉のその一言を聞いて、林杏は心が穏やかになっていくのがわかった。

(そうか、私は姉さんに謝ってほしかったのか。……寄り添ってほしかったのか)

 林杏はゆっくり目を閉じる。もしも姉と笑い合う日があれば。以前に見た幻のように刺繍をするようなことがあれば。

(過去のことを思っても意味はないけれど。でもそんな日々があれば、きっと杏花は林杏になっていなかった。林杏になっていなければ、父さんや母さん、晧月コウゲツさんたちに出会えなかった。私は今……幸せだから)

 林杏は決意する。もう杏花を眠らせてあげよう。そして林杏として、姉――深緑シェンリュと交流しよう。

 林杏は深緑の両手を握る。涙で濡れている。

「大丈夫です。そう思ってもらえただけで、救われます。だからどうか、囚われないでください。あなたの妹も……そんなことは望みませんから。ねえ、深緑さん」

 林杏はそう告げると、深緑をそっと抱きしめた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?