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46.最終日

 林杏リンシンの中の杏花が眠ってからしばらく経った。林杏はその日、最後の砂糖の石をいつもどおり筒の中に入れる。

(今日を過ごせば、道院に戻れる。長かったような、短かったような)

 目を覚ました林杏は洞くつの外に出る。ひんやりとした空気は鋭さを含みながらも、頭をすっきりさせてくれた。

(よし、今日も1日気を引き締めていこっと)

 林杏は両方の頬を軽く叩く。

 最後の日だったが、林杏は深緑シェンリュと共に普段どおりの生活を送った。蔓細工を作り、保存食である干したキノコや梅の砂糖漬けなどを食べる。

 昼食として外の焚き火で作ったキノコ汁と干した桃、梅の砂糖漬けを食べながら、林杏は深緑に言った。

「私は明日になったらこの山を去ります。そういう修行でしたから」

「そう、ですか。もうそんなに日が経つんですね」

「深緑さんは今後どうするんですか?」

「そうですね。……町に住もうと思います。キノコや蔓細工を売りに行っている、あの町に」

「町に、ですか?」

 林杏は心配になった。町に住めば、【】としての力をまた誰かに利用されるかもしれない。その気持ちがどうやら顔に出ていたようで、深緑に「大丈夫ですよ」と言われた。

 深緑は梅の砂糖漬けを食べながら続けた。

「今度こそすべての人を治したいんです。だから診療所みたいなものを開こうと思います。お金はこれまでどおり、キノコや蔓細工で稼ぎます」

 深緑らしい生き方だ。

「いいと思います」

 林杏がそう返事をすると、深緑は嬉しそうに笑った。


 次の日。林杏は起きて朝食を食べると、道院に帰る準備を始めた。残った保存食は深緑に渡し、荷花フーファから借りた食器などの持ってきたものをまとめる。

「お見送りします」

 深緑が申し出てくれた。

「まだしばらくここにいますか?」

 林杏が尋ねると、深緑は小さく首を横に振った。

「いえ、わたくしも今日中には出発しようかと。ただ、細工が途中なんです。それが完成してからここを発ちます」

「そうですか。お気をつけて」

「ありがとうございます。あの、最後にお聞きしたいことが」

 深緑の言葉に林杏は首を傾げる。

「あの、お名前は? なんとお呼びすればいいでしょうか?」

 そういえば名乗っていなかった気がする。もう杏花シンファではない。しかし林杏と名乗るのもなんとなく照れくさかった。

「そうですね、それではシンとでも呼んでください」

「杏さん。……今まで本当にありがとうございました」

 深緑は深々と頭を下げた。ああ、むしろお礼を言いたいのはこちらのほうなのに。どれだけありがとう、と言っても足りない。深緑がいなければ、林杏はこの修行をとても辛く感じていただろう。

「深緑さんがいなければ、私はいろんなことに気づけませんでした。こちらこそありがとうございました。どうかお元気で」

 林杏は微笑みを浮かべる。洞くつの外へ出て気を足元に集め、空を飛ぶ。見下ろすと、寒いなか深緑が手を振っていた。林杏も手を振り返した。


 ゆっくり飛んでいるのにも関わらず、頬に冷たい風が襲ってくるせいで耳が痛くなってきたころ、道院に着く。天佑チンヨウが立って待っていた。

「半年のあいだ、お疲れさまでした。声をかけるまで休むように」

 林杏にそう言うと、天佑はどこかに行ってしまった。到着したのは林杏が最後だったのかもしれない。

 林杏が自室に戻ろうとしたとき、「林杏ー」と誰かに呼ばれた。振り返ると晧月コウゲツ浩然ハオランが食堂から出てきた。もう昼食の時間だったのか。

「よー、お疲れ。帰ってくるの遅かったな」

「わあ、晧月さんと浩然さんっ。お久しぶりです。……なんで晧月さん、首のところ泥だらけなんですか?」

「帰ってくるときにいろいろあったんだ、気にしないでくれ」

「このあとオレが洗ってやることになった。まったく面倒でならん」

「悪いってえ、さすがにほかのやつらはそこまで暇じゃねえしよお」

「オレも暇なわけではないんだが?」

 2人のやりとりを見ていると、本当に道院へ帰ってきたのだと実感する。

 浩然と目が合う。浩然は少し視線を泳がせたあと、木製の髪飾りを差し出した。髪に挿す部分は二又に分かれており、大小異なる杏と梅の花がついている。

「その、度々世話になっている礼だ。受けとってほしい」

「わあ、すてきですね。え、本当にいただいていいんですか? 大したことをした覚えはありませんが」

「いや、オレはだいぶ命を救われた場面が多いんだが。まあ、もし気に入らなければ処分してもらって構わない」

「そんな、処分だなんて。ありがとうございますっ。髪や体をきれいにしてから使わせていただきますね。わあ、本当にかわいいですっ」

 林杏が喜んでいると、晧月がにやりと笑っている。

「おや? おやおやおや? 犬野郎くん、そういうことか? そういうことなのか?」

「な、ち、違う。そういう意図はない」

「まあまあ、俺の体洗いながら詳しく教えてくれや。よし、それじゃあな林杏っ。もうちょっとで飯の時間終わるから食っとけよ」

「あ、はい。あの、浩然さん。ありがとうございますっ」

「……ああ」

 晧月は腕を浩然の肩に回すと、引きずるように連れていった。林杏は自室に戻って簡単に髪や体をきれいにしてから、食堂に向かった。道院の空気は心地よかった。




                            転生者修行編・終わり

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