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6.忠告は……。

 その日の夕食を食べ終わった林杏リンシンは、深緑シェンリュのいる町へ飛んで向かった。近頃少しずつ日が長くなってきてはいるものの、すでに暗くなっている。さいわいにも月が出ているので、飛びやすい。頬や耳に冷たい風が当たる。

 町の人々はまだまだ夜を楽しむつもりのようで、飲食店らしき場所からはわずかに光がもれている。林杏は建物の上を飛び続ける。

(ええっと、この辺りだっけ)

 深緑が住んでいるであろう長屋に着くと、林杏は扉の前に下りた。そして3度扉を叩く。

「どなたでしょうか?」

 深緑の声。この部屋で間違いないようだ。

「お久しぶりです。……シンです」

 すると扉が勢いよく開いた。

「杏さん、本当に杏さんなんですねっ。どうぞ、お入りください」

「では、お言葉に甘えて」

 林杏は深緑の部屋の中に入った。診療部屋の奥にある、深緑の自室らしいところにとおされる。

「どうぞお座りください。すぐにお茶を淹れますね」

「ああ、お構いなく。すぐにお暇しますので。今日はあなたに話があるんです」

「話?」

 深緑が首を傾げる。付き合っている男のことであるとは想像していないようだ。林杏はごまかすことなく、男のことを告げることにした。

「あなたが今お付き合いをしている男性ですが、別に妻がいます。そしてあなたを金づるにして、金銭を得ようとしています。……あなたの両親のように」

 深緑の顔にはこれといって表情が浮かんでいない。林杏は続ける。

「あの男はあなたと結婚する気はありませんし、付き合っているのはあなたからお金が得られるからです。悪いことは言いません、あの男とは別れたほうがいい」

「……杏さん、あなた恋をしたことは?」

 深緑が尋ねてきた。この話になんの関係があるというのだろうか。しかし答えないのもおかしな話なので、素直に告げる。

「ありません」

 前世では老人の冥婚めいこんを避けるために仙人を目指し、今世では周りの子どもたちとは精神年齢が合わず、恋愛対象として見ることはできなかった。

 深緑はうっとりした様子で言う。

「心が温かくて、穏やかで。ああ、人を好きになるってこんなに素敵なことなんだって、思いました。この気持ちに蓋をするなんて、できません。たとえ杏さんがどう言おうと、わたくしは彼と共に生きるつもりです」

「恋をすることは問題ありません。ただ、あの男といても深緑さんは幸せになれませんよ。あの男が見ているのはあなたではなく、あなたから生まれるであろうお金です。あなたはいいのですか、再び金づるにされても」

「彼を馬鹿にする人は許しません。たとえ杏さんでも」

 林杏を睨みつける深緑の目つきは鋭い。ああ、本気であの男に恋をしているのだ。

(こりゃなにを言っても無駄、かな)

 これまで深緑は林杏の言葉を聞き入れてくれていた。しかし今回は拒否した。深緑が自分の気持ちを優先するのは嬉しいことだが、変な男に引っかかってしまうのは本意ではない。

「深緑さん、あなたはその男のせいで不幸になってもいいんですか?」

「彼となら、どんなことも乗り越えられます」

「男にはその気がないのに? あなたは1人になってしまいますよ」

「彼がわたくしを見捨てるなんて、あり得ません。わたくしを愛してくれているのですから」

 林杏は溜息を吐きたくなった。林杏の言葉が、幸せになってほしいという気持ちが深緑に伝わらない。

「私はあなたに不幸になってほしくはありません。あの男との付き合いはやめてください」

「杏さん、あなたにはわからないんですわ。愛される喜びが。その心地よさを知らない人に、彼のことを言われたくはありません」

 その喜びとやらで破滅してしまっては意味がないと思うのだが。林杏はついに耐えきれず溜息を吐いてしまった。

(恋は盲目っていうけれど、ここまでとは)

 さてどうしたものか。別の切り口を考えようとしたとき、深緑が部屋の扉を開けた。

「お帰りください。彼を侮辱する人とこれ以上お話することはありません」

 深緑の目つきから本気で怒っていることがわかる。これ以上状況がよくなるようには思えない。林杏には道院に帰るという選択肢しかないようだ。

「どうか、あの男を信じすぎないでください」

「お帰りください」

 林杏は仕方なく、部屋を出る。するとまるで怒りをぶつけるかのように扉を閉められた。

 林杏は小さく溜息を吐き、飛んで道院に帰った。


 道院に帰ってきた林杏は自分の部屋に戻る気もなれず、なんとなく食堂に向かった。厨房内では片づけをする音で賑やかだ。

「はあ」

 林杏は入口から1番近い席に座り、長机に突っ伏した。

(まさかあんなにも頑固とは。いや、恋がそうさせてるのか? まったくわかんない)

 恋などというものがなければ、この問題はもっと簡単に解決できた。いやそもそも問題とならなかったはずだ。林杏は恋という存在を憎らしく思った。

「お、なんか林杏の干物が落ちてる」

 林杏が顔を上げると、そこには晧月コウゲツ浩然ハオランが立っていた。

「おい、干物は失礼だろ虎野郎」

「いやでも、このなにかあったであろうへたり具合は干物に似てると思うんだよな」

「お前、そういうところだぞ」

「いいですよ、干物でもなんでも」

 林杏が投げやり気味に答えると、晧月が向かいの席に腰を下ろした。

「こいつはよっぽどだな。どうしたんだよ、林杏」

 晧月が頬杖をついて尋ねてきた。どうやら浩然も同席するつもりのようで、晧月の隣に座った。林杏は文句を口に出した。

「もう恋という存在が腹立たしいです。恋っていう概念がなければ、こんな問題にはならなかったのに」

「なんかえらい目に遭ってるってだけはわかったが。その辺どう思いますか、犬野郎」

 なぜ浩然に話を振ったのか。まあ晧月のことだ、浩然も会話に参加させるためだろうとは思うが。林杏は突っ伏したまま顔を上げて、浩然を見る。

「どう思いますか、浩然さん。意見を聞かせてください」

 浩然は視線をあちこちにずらしたあと、小さく咳をしてから答えてくれた。

「ま、まあ恋っていうのはある意味本能だ。存在しなければしなかったで、問題があるだろうな。……まあオレは恋という感情が嫌いではない」

 浩然と視線が合う。その目つきはなんとなく深緑に似ているような気がしたが、人種も性別も違うのだ、気のせいだろう。ふと晧月を見ると浩然を見てにやついていた。

「晧月さんは恋、したことあります?」

 なるべく多くの意見がほしくて、林杏は晧月にも声をかける。

「まあ、この年齢だからな。人並みにはしてるぜ。叶った恋もあれば、破れた恋もあったもんだ」

「恋ってどんな感じなんですか? そんなに心地いいもんなんですか?」

 林杏の質問に晧月と浩然はきちんと答えてくれた。

「そうだなあ、しんどいときもあるし、飛び上がりたいほど嬉しいときもあるな。まるで自分って心が崩れて新しく生まれ変わろうとしてる感じがある。犬野郎はどう思うよ?」

 晧月はもう1度浩然に話を振る。浩然は一瞬晧月を睨んだが、律儀に答える。

「心地よくはあるな。……好きな相手の笑顔は見たいと思うし、頼ってもらいたいとも思う」

「私はその心地よさが、いまいち想像できません。縁もない気がします」

 林杏は頬を膨らませる。

「まあまあ、お前さんはまだ若いんだから決めつけなくていいんじゃねえか? 案外近くにあるかもしれねえぜ? 恋する心地よさってやつが。なあ、犬野郎」

「……そうだといいな」

 浩然は晧月を睨んでおり、晧月はどういうわけか浩然を見てニヤニヤと笑っている。本当にこの2人が仲よくなってよかった。

(でもなんとかしてあの男を引き離さなくちゃ。けどあの様子だと聞き入れてくれなさそうだし。うーん……)

 林杏は長机に額をのせたまま、うなり始める。すると浩然が口を開いた。

「その、オレ……たちで力になれることがあれば、言ってくれ」

「うう、ありがとうございます、浩然さん。でももうちょっと考えてみます……ぎい」

「おいおい、変な鳴き声聞こえたけど大丈夫かよ、お前さん」

 声音から察するに晧月も心配してくれているようだ。林杏も恋をしたことがあれば、なにか変わったのだろうか。しかしそんなことを考えても意味はない。

(そうだっ)

 林杏は勢いよく顔を上げて晧月と浩然を見る。

「お二方の恋のお話を聴かせてください」

「唐突すぎるだろ」

 浩然の言葉も、もっともである。しかし恋をしたことがない林杏が、恋というものを理解し、深緑を説得するための切り口を増やすためには、この方法しかない。

「私は少しでも恋についての情報がほしいんです」

「なんかおもしろいことになってんなあ。まあ、話せる範囲ならいいぜ」

「ありがとうございます、晧月さんっ」

「……言っておくが、それほど多くないぞ」

「それでも大丈夫です。ありがとうござます、浩然さん」

 林杏は晧月と浩然から過去の恋の話を聴きはじめた。

 しかしどうにも腑に落ちないことが多く、結局恋とは理屈でどうにかなるわけではない、ということがわかっただけだった。林杏が何度も「わからない、わからない」と言うと晧月と浩然は困ったように笑っていた。


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