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23.妻

 荷物をまとめ終わった林杏リンシンは首元にツォンを巻いて、食堂へ向かった。食事の前であるためか、厨房の人たちは忙しそうだ。林杏は申し訳ないと思いながらも、荷花フーファに声をかける。

「荷花さん」

「あら、林杏。……その荷物、もしかして道院を出ていくの?」

 荷花は手をとめて、わざわざ林杏のもとにやってきてくれた。林杏は頷く。

「はい。無事に劫に受かりまして、霊峰に住むことになりました」

「まあ、おめでとうっ。あっちでも元気でね」

「はい。今まで本当にありがとうございました。荷花さんのおかげで、とても助かりました」

「ふふふ。よかったわ。それで……犬の人のこと、答えは出た?」

 荷花の問いに林杏は首を縦に振る。荷花は笑顔を浮かべた。

「そう。それならいいわ。元気でね、林杏」

「ええ。荷花さんも、どうかお元気で」

 林杏は頭を下げて食堂を出た。天佑チンヨウにもあいさつをしておいたほうがいいだろうが、果たして捕まえることができるか。

(天佑さん、本当どこにいるかまったく想像できないんだよなあ)

 そのとき、天佑の助手が、建物に入っていくのを見つけた。林杏も建物に入る。するとそこには助手だけでなく、天佑もいた。

「天佑さん、ちょうどよかったです。そろそろ霊峰に行くので、ごあいさつをしたくって。今までお世話になりました」

「いえ。どうぞお気をつけて」

「はい、失礼します」

 林杏は頭を下げて建物を出た。

 林杏は足元に気を溜め、空を飛ぶ。霊峰までの道のりは覚えているが、首には聡がいるので、速度を落として向かうことにした。

浩然ハオランさんも、晧月コウゲツさんも合格してるよね。きっと霊峰で会える)

 林杏は2人に再び会えるかもしれないという期待で、早く霊峰に到着したくて仕方なかった。


 霊峰に着いた林杏は、天佑が言ったことを思い出していた。

(たしか念じながら探せば見つかるんだっけ)

 林杏は浩然と晧月のことを考えながら、霊峰の中を適当に歩きはじめた。

 霊峰の上には常に雲があるせいか、それとも木々が茂っているせいか、少々暗く感じる。薄いが霧も出ているようだ。

(本来なら霧の中が移動するのは得策じゃないけど、天佑さんの言うことだから間違いないだろうし、霊峰なんて普通の山じゃないでしょ)

 林杏は時折、聡の頭を撫でながら歩き続ける。霧は出ているが、じめじめとした空気はない。

(そういえば、浩然さんの話ってなにか、まったくわかってない)

 どんよりと気分が重くなる。しかし浩然のことだ、きっとこの霊峰にいる。しかしそうなったとき、どのような顔をすればいいのだろうか。

(わからない)

 林杏にできるのは、歩き続けることだけだった。

 どれくらい歩いただろうか。ほんの10分くらいにも思えるが、1時間以上経っているような気もする。

 どこからか人の声が聞こえてきた。

(まさか)

 そのとき、左側の木々から見知った顔が出てきた。

「……あっ。林杏っ」

「晧月さんっ」

 晧月の後ろから浩然も顔を出す。

「林杏っ」

「浩然さんっ」

「お前さん、劫に受かったんだな、よかったぜ」

「お二方もご無事でよかったです」

「そうだ、犬野郎。茶淹れてくれよ」

「虎野郎に提案されるのは癪だが、まあいいだろう。林杏、荷物を貸せ」

「え、あ、はい」

 林杏は浩然に荷物を渡してから、自分のために持ってくれたのだと気がついた。小さく胸がときめく。

(いや、これは浩然さんにとっては、当たり前のこと。私に特別ってわけじゃない。……でも嬉しい)

 そんな風に頭の中がぐちゃぐちゃになっているなか、晧月が浩然から林杏の荷物をとった。

「俺は先に行っとくわ。林杏、犬野郎とゆっくり来な。ああ、聡も連れていくぜ。ほら、行こうぜ聡」

 林杏から聡を受けとると、晧月の姿がすぐ見えなくなる。浩然は「あいつ……」と呟いた。

「とりあえず、行こう」

「あ、はい」

 林杏は浩然のあとをついて行く。2人のあいだに会話はなく、どこか気まずさが流れる。林杏はなんとか話題を探そうとしたが、心臓の音がうるさすぎてどうにもできなかった。

 そのとき、浩然が立ち止まった。

「林杏」

「はっ、はい」

「以前に言ったように、話を聴いてくれないか」

「あ。は、い」

 浩然は大きく深呼吸すると、懐からなにかとり出し、林杏に渡してきた。小さな紙の袋に入っている。

「受けとってくれ」

「えっと、開けてもいいですか?」

「ああ」

 林杏は紙袋の中身を出してみた。そこには水晶でつくられた杏の花のかんざしが入ってあった。

「きれい」

「よかった。……林杏」

 林杏は視線をかんざしから浩然に移す。浩然の力強い視線が、林杏を射抜く。林杏の心臓はこれまでにないくらい速く鼓動を刻んでいた。

「林杏、どうか俺の妻になってくれないか。お前を、愛しているんだ。一生離したくない」

 妻。浩然と夫婦になる。しかも、林杏のことを愛しているとは。

(誰かと結婚するとかじゃ、なかった)

安心した林杏は思わず、涙を1粒落としてしまった。

「え、あ、そ、そんなに嫌だったなら、すまない。この話は忘れ……」

「違うんです。ただ、ほっとしてしまって。もしも、浩然さんがほかの人と結婚するって話だったら、どうしようって思ってて。せ、せっかく自分の気持ちがわかったのにって。私も、浩然さんのことが、好きだって、劫のときにわかって」

 林杏がそう言った瞬間、力強く抱きしめられた。自分よりもずっと大きな体に包まれる。

「オレは、夢を見ているんじゃないよな? お前は、幻なんかじゃないよな?」

 林杏は浩然の大きな背中に腕を回し、抱きしめ返した。

「はい。私も好きなんです。だから、妻にしてください」

 誰かと夫婦になる、それも浩然の妻になど、いったいどうすれば予想できただろうか。しかし林杏は今までにないくらい、心が満たされている。

 浩然がゆっくりと抱擁を解く。そして林杏の右頬に触れた。吐息がかかるくらい、顔が近い。

「林杏、もっと……近づいていいか? 嫌なら、きちんとそう言ってくれ。そうじゃないと、今のオレは止められん」

「えっと、その、浩然さんにされて嫌なことってないと思います。多分」

 林杏が思ったことを言うと、浩然は目を丸くしたあと、くすりと笑った。

「そうだった、オマエはそういうやつだったな」

「え、えっと、なにか気に障ることでも? だったら、ごめんなさい。そんなつもりは……」

 途端に柔らかいものが口に当たる。それが浩然の唇だとわかったのは、数秒経ってから。生まれて初めての口づけに、喜びで頭がおかしくなりそうだ。

 林杏の唇から離れた浩然が、あの日のような、春の木漏れ日の笑顔で言った。

「そうやって、無自覚にオレが喜んでしまうことを言うところ。林杏、頼むからほかの男にそんなことは言わないでくれ」

「え、えっと、よくわかりませんが、わかりました」

 林杏が頷くと、浩然が林杏の唇に指先で触れてきた。

「足りないんだ。もう1度いいか」

「え、あ、えっと……はい」

 林杏が返事をすると、浩然の唇と自分のものが重なった。口づけを終えても浩然が「足らん」と言ったので、何度も口づけを交わすことになった。


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