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第7話

「少し考えさせてください」


颯太は、ゆっくりとそう言った。カルテを閉じた手には、まだ微かに震えが残っている。

これは、ただの過去の記録ではない。この一冊のファイルが、父の退職の真相を明らかにする鍵となる。けれど、同時に、病院そのものの歴史にも影響を与えるものだった。

暴けば、多くの人が傷つくかもしれない。それでも、父が何も悪くなかったことを証明するためには、この記録を世に出さなければならないのか。

答えは、簡単には出なかった。颯太は、深く息を吐きながら、届いた牛丼の袋を手に取った。


「……すみません。いただきます。」


「ああ、いいよ。腹が減っては戦はできないからな。」


院長は穏やかに笑いながらも、その目にはどこか思慮深い光が宿っていた。牛丼の温かさが指先に伝わる。それとは対照的に、心の中は、まだ冷えたままだった。


「それじゃあ、失礼します。」


そう言いながら、颯太は院長室のドアへと向かった。そして、ドアノブに手をかけたとき、院長の静かな声が背後から響いた。


「神崎君。どんな結論になってもいい。ただ……行動する前に、私のところに来てくれるか?」


「……」


振り返ると、院長は椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと視線を向けていた。


「わかりました。」


颯太は、静かに頷いた。次にここへ来る時、自分はどんな答えを持っているのだろうか。

それを見つけるために、今はただ、じっくりと考えなければならない。院長室のドアを閉じた時、外の空気が妙に冷たく感じた。颯太の決断の時は、すぐそこまで迫っていた。


院長室を出ると、それまでじっと黙っていた真田先生が口を開いた。


「颯太、どうするつもりだ?」


颯太は、足を止めることなく歩き続けた。けれど、その問いに、すぐに答えることはできなかった。


「……」


彼の足音だけが、廊下に静かに響く。やがて、俯いたまま、ぽつりと呟いた。


「まだ……わかりません。」


それが、今の颯太の正直な気持ちだった。医者として鍛錬を重ね、手術にも積極的に関わり、経験を積んできた。それなりに自信もついてきたつもりだ。けれど、こういう根本的な部分は、昔から変わらない。

人の運命を左右する選択に対して、すぐに決断を下せない。慎重とも言えるが、迷いが生じる場面では、いつも時間がかかる。それに、この件はすぐに決められることではなかった。父の無実を証明するために、記録を公にすべきか。でも、それをすれば病院の歴史が大きく揺らぐことになる。


黒沢や鷹野の責任を追及することで、どれだけの人が影響を受けるのか。そして、前院長である院長の父親の罪が明らかになることで、今の院長の立場も危うくなる可能性がある。

正義とは何なのか。父を守るために動くことは、正しいことなのか。

それとも、過去のこととして、全てを飲み込むべきなのか。


「……」


沈黙する颯太の横で、真田先生はじっと彼を見ていた。彼は、それ以上何も言わなかった。

きっと分かっているのだろう。颯太がすぐに決断できるような人間ではないことを。

だからこそ、彼は問いを投げかけただけで、追い詰めるようなことはしなかった。


「……もう少し考えます。」


そう呟くように言うと、真田先生は軽くため息をつきながら、小さく頷いた。


「……そうだな。」


ただ、それだけ。それ以上、何も言わず、二人は並んで歩き続けた。けれど、このまま迷い続けるわけにはいかない。どこかで、決断を下さなければならない時がくる。その時、自分はどんな答えを持っているのか。まだ見えない未来を前に、颯太はただ、静かに歩を進めるしかなかった。


自然と、颯太の足は母の病室へと向かっていた。手には、すでに冷たくなってしまった牛丼がぶら下がっている。もう温かい食事ではなくなった。けれど、それを口にする気力もなかった。

午後の業務まで、あと15分ほどしかない。母の顔を見てから病棟に戻ろうと思った。


こんこん


「入るよ。」


軽くドアをノックすると、中から穏やかな声が返ってきた。


「どうぞー。」


扉を開けて中に入ると、母はベッドの上で編み物をしていた。毛糸と編み針を器用に動かしながら、ゆったりとした時間を過ごしている。母が編み物をしているのは、珍しい光景だった。


「あれ? 編み物? 珍しいね。」


そう言うと、母は微笑みながら手元の毛糸をなでた。


「桜ちゃんに教えてもらってるの。鈴木桜ちゃん。」


「あー、桜ちゃん」


そういえば、彼女は編み物が得意だった。循環器病棟に入院している鈴木桜。病院の談話室で、よく小さな作品を作っていたのを思い出す。


「なんだか、手を動かしてると落ち着くのよね。病院にいると、時間の流れがゆっくりだから。」


母は、穏やかにそう言いながら、手元の毛糸を編み続ける。颯太は、そんな母の様子を眺めながら、ベッド横の椅子に腰を下ろした。


「……」


なんだろう、この空気。ついさっきまで、院長室で病院の過去と向き合うような重い話をしていたのに。ここは、それとは無関係の、ただ静かで、温かい時間が流れていた。

この場所だけが、別の世界のようだった。それが、今の颯太にとって、どこか救いのように感じられた。


「それ、牛丼? まだお昼食べてないの?」


母が編み物の手を止め、颯太の手元をじっと見た。冷たくなった牛丼のパック。温かさをすっかり失い、どこか無機質な存在になってしまったそれを、母は眉間にしわを寄せながら見つめる。


「食欲がなくて。」


軽くそう返すと、


「はぁ?」


と、低い声でうなるような母の声が聞こえた。

…ん?なんだか、嫌な予感がする。

ゆっくりと顔を上げると、母の表情が変わっていた。さっきまでの穏やかな雰囲気とは打って変わって、眉間にはさらに深い皺が寄り、目が据わっている。

明らかに……怒っている。


「ご、ごめ……」


と反射的に謝ろうとしたが、


「なぁに考えてんのよ!!」


母の声が室内に響き渡った。


「昔からしっかり食べて、しっかり寝ないとダメって言ってるでしょー!?」


怒りのボルテージが一気に上がり、母の手に握られた編み針が一瞬、宙に浮いたように見えた。完全に雷を落とされた。


「だ、だって忙しくて……」


「忙しいからって、ご飯を抜くのが許されるわけないでしょ! そんなの、医者以前に人としてダメよ!!」


ピシャリと断言され、颯太は縮こまる。これは、どうやっても逃れられないやつだ。


「病院で働く以上、体が資本でしょ? 患者を診る前に、自分の管理くらいちゃんとしなさい!」


「……はい。」


「はいじゃないの! そもそもねぇ……」


そこからしばらく、母の説教タイムが続いた。まるで、幼少期に戻ったかのような気分だった。けれど、この叱り方が、どこか懐かしくて、安心する。変わらないな。母はいつだって、こうだった。颯太が忙しさを理由に体を壊しかけると、必ずこうして怒る。


「……ごめんなさい。ちゃんと食べるから。」


ようやく母の怒りが落ち着き始めた頃、しおらしくそう答えると、母はジト目で睨みながら、ふぅっとため息をついた。


「なら、今ここで食べなさい。」


「えっ? いや、でも……」


「でもじゃない! そのまま午後の業務に行ったら、また食べないままになるでしょ? ここで食べなさい。食べるまで見てるから。」


逃げ道がない。颯太はしぶしぶ、冷めきった牛丼の蓋を開けた。頬をかすかに緩ませる母の姿を見ながら、一口、二口と口に運んでいく。


「そうそう。ちゃんと噛んで食べなさい。」


変わらない母の言葉に、どこか救われる気がした。迷いの渦中にある時でも、この時間だけは、変わらず温かいままだった。


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