母の喝のおかげで、冷たくなった牛丼ではあったが、しっかりと昼食をとることができた。
不思議なものだ。
さっきまで、何を食べても味がしないような気がしていたのに、食べ終えるころには、少しだけ気持ちが落ち着いていた。
食事をとることは、心にも影響するのかもしれない。
母が昔から言っていた「しっかり食べて、しっかり寝ることが一番大事」という言葉が、今になって身に染みる。
「じゃあ、行ってくるよ。」
「はいはい。ちゃんと食べたんだから、しっかり働いてらっしゃい。」
どこか満足げな表情で手を振る母を背に、颯太は病室を後にした。
廊下に出た瞬間、すぐ隣で静かにしていた真田先生がポツリとつぶやいた。
「……お母さん、怖かったな……。」
「……ええ……。」
母の怒声を思い出し、颯太は軽く肩をすくめた。
「小さいころから父よりも怖かったんですよ……。」
「……だろうな……。」
真田先生は、どこか納得したような声で答える。
そのまま、二人は静かに歩き出した。気が張り詰めていた午前中と比べると、ほんの少しだけ体が軽くなった気がする。昼食をとったことも、母と話したことも、全てが束の間の息抜きになっていたのだろう。
しかし、まだやるべきことがある。
颯太は、高橋さんのICUへと足を向けた。
ICUに入り、真田先生とともに高橋さんのベッドサイドへ向かう。静かな電子音が規則的に鳴る。高橋さんの状態は、安定していた。
血圧 112/70mmHg、心拍数 78bpm、酸素飽和度 98%。
術後の急性変化もなく、人工弁の機能も正常に保たれている。
「脈拍も安定してるな。よかった。」
真田先生が、腕を組みながら呟く。
「ええ。このままいけば、間もなく意識も回復するでしょう。」
颯太は、慎重にモニターの数値を確認しながら答えた。心臓の拍動はしっかりとしたリズムを刻み、術後管理の目標値も問題なし。あとは、患者自身が目を覚ますのを待つだけだった。
「このまま合併症なく回復すれば、数日後には一般病棟へ移れると思います。」
「ああ。術後経過としては理想的だ。」
真田先生は、少しだけ微笑む。この患者を救えたという事実は、颯太にとっても大きな意味があった。過去の誤った術後管理とは違い、今回は最善を尽くせた。
そして何より、この確かな結果が、颯太の迷いを少しだけ和らげてくれた。
颯太は、いつも通り病棟をまわりながら診察を続けていた。
鈴木桜さんも、来週には退院が決まっている。
ずっと病棟で過ごしていた彼女も、もう少しで自宅へ帰れるのだ。
「先生、桜は無事に帰れますね?」
鈴木さんのお見舞いに来ていた祖母が、不安そうに尋ねる。
「はい。今のところ、経過は順調です。退院後のフォローは必要ですが、ご自宅での生活も問題ないでしょう。」
「ありがとうございます……。本当に、ありがとうございます。」
家族が深々と頭を下げる姿を見ながら、颯太もまた、静かに頷いた。
また一人、患者を送り出す。有村さんも、あと数ヶ月すれば退院となるだろう。
退院の目処が立つのは大きな一歩だった。
「焦らず、一歩ずつ行きましょうね。」
「先生、退院できるって聞いて、嬉しいけど不安です」
「それは普通のことですよ。でも、大丈夫です。ここで治療を続けて、少しずつ生活に戻ればいいんです。」
「……はい。」
その言葉に、患者の顔が少しだけ明るくなる。治療を終え、患者がまた日常に戻る。
それを見送るのも、医者の役目だ。颯太が一通りの回診を終え、医局に戻ろうとしたとき、廊下で見覚えのある姿が目に入った。
「神崎君、お疲れ様。」
木村先生だった。いつもの、にこやかな笑顔で挨拶をしてくる。
「木村先生、お疲れ様です。」
颯太がそう返すと、木村先生はにこやかな笑顔のまま、ふと小さく息を吐いた。
「昼、院長室に呼ばれたって聞いたけど、大丈夫?」
「え?」
思わず、颯太は一瞬驚いた表情を見せた。
「看護師が噂してたからね。院長室に入るの、珍しいことだから。」
「ああ……。そういうことですか。」
この病院では、院長室に呼ばれること自体が珍しい。それが医局の中で話題になるのも無理はない。
「実は……」
迷う理由はなかった。颯太は、院長室で起こったことを木村先生に話すことにした。
──封印されていたカルテのこと。
──黒沢先生と鷹野先生が術後管理を行い、その記録が不自然に消されていたこと。
──院長がそのカルテを手元に保管し続けていた理由。
木村先生は、じっと黙って話を聞いていた。彼の表情から、何を考えているのかは読み取れなかった。やがて、颯太が話し終えると、木村先生はふっと長い息をつき、廊下の壁に背をもたれた。
「はぁ……そうか……そんなところにあったのか。」
木村先生の視線は、どこか遠くを見つめるようだった。
「見つからないはずだ。」
その言葉に、颯太は息を呑んだ。
「先生も、カルテを探していたんですよね」
木村先生はゆっくりと頷いた。
「ああ、もちろん。航太郎先生の汚名をなんとか晴らせないかと思ってね。…恩師だから」
その言葉に、颯太の胸がじんわりと温かくなった。木村先生も、ずっと動いてくれていたのだ。
父の無実を証明するために。
この病院の過去の誤りを正すために。
「ずっと探していたんだ。事件の後からずっとね。でも、カルテは病院のどこにもなかった。電子データも、紙記録も。」
「病院から消えたんじゃなくて、保管されていたんですね。」
「……ああ。院長の手元に、ね」
木村先生は、小さく苦笑した。
「皮肉なものだね。無実を示す証拠が、よりにもよって病院のトップに握られていたなんて。」
「……先生は、院長がそれを持っていることを知っていたんですか?」
「いや。そこまでは気づかなかった。」
木村先生は、首を振る。
「ただ、消えたということは、誰かが意図的に残していた可能性があると思っていた。」
「それが、院長だった……。」
「そういうことだね。」
木村先生の視線が、真っ直ぐに颯太へ向けられる。
「で? これから君はどうする?僕は、神崎君を全面的にサポートしよう」
木村先生は、真剣な眼差しで颯太を見つめた。迷い続ける時間は、もう残されていない。けれど、それでも自分ひとりでは答えを出せそうにない。そのとき、ふいに別の声が割り込んできた。
「俺も。」
驚いて廊下の奥を見ると、藤井先生がそこに立っていた。
「藤井先生!」
颯太が驚いて声を上げると、藤井先生は呆れたように眉間にしわを寄せ、腕を組んだ。
「こんなところで話をしていたら、聞きたくなくても聞こえるだろ。」
藤井先生の声は、いつものように低く、どこかぶっきらぼうだった。けれど、その言葉の中には、確かな覚悟が感じられた。
「俺も、神崎をサポートする。この病院に何が起きようと、な。」
その言葉に、颯太の胸が熱くなった。入職したばかりの頃、藤井先生はまるで颯太を邪魔者のように扱っていた。
「お前みたいな甘い考えの奴が、この病院にいても意味がない」
そう言われたこともある。当時の藤井先生は、医局の中でも群を抜いて冷徹な存在だった。
無駄なことは口にせず、後輩にも厳しく、必要以上に関わろうとはしなかった。けれど、数々の苦難を共に乗り越え、少しずつ関係が変わっていった。藤井先生もまた、この病院の真実を知りたがっているのだろう。それは、この病院を愛しているからこそだ。
「……ありがとうございます。」
颯太は、心からそう言った。木村先生、藤井先生、そして真田先生。自分は、ひとりではない。この支えがあるのなら、迷い続けることをやめよう。ついに、決断を下す時が来た。
「この病院の過去を公表します。 そして、父の無実を証明します。」
そう誓うと、藤井先生はふっと息を吐き、静かに微笑んだ。
「それでこそ、お前だ。」
耳元で真田先生の声が聞こえた。颯太の心に、ようやく覚悟が宿った瞬間だった。