その時、颯太の院内PHSが鋭く鳴り響いた。
急患か? それとも、急変か?木村先生と藤井先生も、一瞬息をのむ。
颯太は、素早くPHSを取り出し、通話ボタンを押した。
「はい、神崎です。」
「神崎君、僕だ。何度もすまないが、至急院長室へ来てもらえるか。」
院長?予想外の人物の声に、颯太の眉がわずかに動く。
「例の話をしたいんだ。……黒沢先生もいらしている。」
「……!」
黒沢先生。その名前を聞いた瞬間、心臓がバクバクと音を立てた。黒沢が、院長室にいる?
つまり、これは昼の話しの延長ではない。
「……わかりました。すぐ向かいます。」
短く返答し、PHSを切る。手のひらには、いつの間にかうっすらと汗が滲んでいた。
「……黒沢先生が来てるって?」
横で聞いていた藤井先生が、低い声で呟く。
「いよいよ、核心に触れるってことか。」
木村先生も、腕を組んで険しい表情を浮かべる。
「まさか、向こうから仕掛けてくるとはな……。院長が間に入るのは予想していたが、黒沢先生が自ら出てくるとは。」
「どうする? 行くのか?」
藤井先生が問うと、颯太は迷いなく頷いた。
「……行きます。もう、逃げられませんから。」
ここで引いたら、何も変わらない。父の汚名を晴らすために。病院の過去の過ちを暴くために。そして、何より──自分が医者としての信念を貫くために。
「俺も行く。」
藤井先生が、力強く言った。
「僕も。神崎君を一人で行かせるわけにはいかない。黒沢先生とは面識があるし、当時手術にも入っていたからね。少しは役に立てると思う」
木村先生も続く。
「木村先生…藤井先生…ありがとうございます」
心強い味方を背に、颯太は静かに息を整えた。そして、決意を固めながら、院長室へと向かった。すべてが明らかになる、その瞬間が訪れようとしていた。
院長室の扉の前に立ち、木村先生・藤井先生そして真田先生と目を合わせた。ここから先は、後戻りできない。
こんこん。
控えめなノックをする手が、わずかに震える。
「神崎です。」
「どうぞ。」
中から院長の落ち着いた声が響いた。扉を開けると、まず視界に入ったのは院長の姿。そして、その向かい側の椅子に、初めて見る黒沢先生が座っていた。グレーの髪をきっちりと整え、眼鏡をかけている。無駄のない端正な顔立ちだが、目つきは鋭く、ここにいるだけで場が張り詰める空気をまとっている。圧倒される。ただ座っているだけなのに、まるでこちらの心の内を見透かしているような眼差しだった。一瞬でも気を許せば、その視線の強さに飲み込まれてしまいそうになる。
けれど、ぐっと堪えた。負けるわけにはいかない。
「みんな来たのか……。」
院長が静かに言い、黒沢先生のほうを向く。
「黒沢先生、こちらが航太郎先生の息子、神崎颯太先生と、心臓外科医の藤井先生です。」
そして、颯太たちに目を向け、静かに紹介する。
「神崎君、こちらが黒沢先生だ。」
──父の記録に残されていた名前。
──術後管理の責任を担いながらも、そのミスを父に押し付けた男。
「……はじめまして。」
颯太は、相手の目を真っ直ぐに見つめながら、かすかに頭を下げた。
「……」
黒沢は、わずかに目を細めながら、何も言わない。その口元には笑みのようなものが浮かんでいたが、それが友好的なものかどうかはわからなかった。
「神崎航太郎の息子、ねぇ」
黒沢は、組んでいた手を軽くほどきながら、ゆっくりと椅子にもたれた。
「噂には聞いているよ。優秀な先生らしいね。」
「……恐縮です。」
「いや、本当に。お父さんとは昔、一緒に仕事をしていたが……」
そこで言葉を切り、静かに眼鏡を押し上げる。
「まさか、その息子さんがこうして私の前に立つことになるとはね。」
その言葉には、どこかふくみがあった。けれど、颯太は動揺を見せなかった。
──動じるな。ここは戦いの場だ。
「私も、こうして先生にお会いできるとは思いませんでした。」
「……さて、君はずいぶん昔のことをほりかえしているらしいね」
黒沢は、余裕のある口調でそう問いかけた。颯太は、手に汗を感じながら目線をそらさなかった。
「僕にとっては昔のことではありません。……西浦君のカルテを見ました。」
静かに、けれどはっきりと答える。
「そこには、黒沢先生が術後管理を担当していたことが記されていました。」
その言葉に、黒沢の表情がほんの一瞬だけ変わった。それは、驚きか? それとも……警戒か?
「ほほう。院長…見せたのか?」
「…ええ。彼から迫られましたので」
「ふむ……。なるほど。君がそこまで知っているなら、話は早いな。」
黒沢は、また手を組み、ゆっくりと息を吐いた。
「では、私は何をしたというんだね? 君の見たカルテには、何が書かれていた?」
颯太は、拳を握りしめ、口を開いた。
「先生が、経過観察と指示を出したことが記されていました。」
「そうだったかな。」
「しかし、その後、西浦君の状態が悪化していたにもかかわらず、必要な処置が行われなかった。」
黒沢は、微かに片眉を上げる。
「記録には、血圧低下、頻脈、酸素飽和度の低下が記されていました。にもかかわらず、昇圧剤の追加もなく、人工呼吸器の設定も変更されなかった。」
「……」
黒沢の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。それは、面白いとでも言いたげな表情だった。
「では、私が意図的に何かをしたとでも?」
「……逆です。必要な処置を怠った、ではないですか?」
颯太の言葉に、室内の空気がピンと張り詰める。挑発には乗らない。冷静に事実を突きつける。
「僕は、父の無実を証明したいだけです。」
その言葉に、黒沢は静かに目を細めた。
「人殺しとして医師免許をとりあげられ、最後は自ら命を絶ち君たち家族を置き去りにした父親の?そんなことをしてどうなる!もういなくなった人間の無実を証明し、生きている人間、そしてこの病院を信頼して通っている患者たちの信頼を裏切ってでもすることなのか!」
「僕はただ、真実を知りたいだけです。」
黒沢はじっと睨むように颯太を見つめて、そして、薄く笑い始めた。
「私が指示を出して、看護師が無視した可能性は?ICUの看護にミスがあったんじゃないのか?君が見たカルテが本当にすべての記録なのか、考えたことはあるかね?」
すべての記録…その言葉に、颯太の背筋が冷たくなった。
「つまり、まだ見えていない部分がある、ということですか?」
「さあ。もう昔のことだから忘れてしまったな」
その言葉には、余裕と挑発が入り混じっていた。だが、黒沢の言葉以上に、院長の沈黙が気になった。彼は、机に肘をつきながら、じっとこのやり取りを聞いているだけだった。目の前に座る黒沢の味方なのか、それとも別の考えがあるのか。
まだ、分からない。黒沢は軽く眼鏡を押し上げ、続けた。
「院長と前院長はこの病院を守る義務がある。君もここで働いている以上、この病院を守る義務があるんじゃないのか?」
「それは…」
颯太をはじめ、木村先生と藤井先生も息をのむ。病院の信頼が落ちたらどうなるのか。患者が少なくなり最悪の場合、病院が倒産する可能性もある。
「黒沢先生のおっしゃることはもっともだ」
院長が低い声でつぶやく。やはり、院長も颯太がこのことを公表することは反対なのだろう。颯太は、静かに拳を握りしめた。目の前の黒沢は、眼鏡を押し上げながら、薄く笑みを浮かべている。
「……ふん。父親と同じずいぶんと無駄な正義感に溢れた目をしているな。」
そう言って、黒沢は軽く肩をすくめる。
「だがな、神崎君。正義がすべてではないことを覚えておいたほうがいい」
「どういう意味ですか?」
「神崎航太郎は、確かに腕の立つ外科医だった。だがな、それだけじゃ医者は務まらない。」
「……」
「彼は、理想に囚われすぎた。だから、最後には誰も彼を守ろうとしなかったんだ。正義感が強すぎたせいだろう。間違ったことを許せないその性格のせいだ」
「……!」
「君も、その轍を踏むつもりかね?人殺しの父親の二の舞になるのか?」
──父を侮辱した。颯太の手が、無意識に拳を握りしめる。だが、ここで感情的になるわけにはいかない。黒沢は、わざとこちらを挑発しているのだ。
「僕は…父の無実を証明したいだけです。」
「ふん。君の信念は自由だが……君が本当に父親の名誉を守れるのか、私は興味があるよ。」
黒沢は、静かに椅子から立ち上がった。
「さて、私の話すべきことは話した。あとは、君がどうするかだな。」
そう言い残し、黒沢はゆっくりと院長室を出ていった。最後まで、余裕の表情を崩さずに。黒沢が去った後も、部屋の空気にはまだ重たい緊張が残っていた。藤井先生は、忌々しげに黒沢の背中を見送りながら、低く呟いた。
「あの男……何を考えている。」
木村先生も、腕を組みながら沈痛な表情を浮かべる。
「黒沢先生、相変わらずですね…」
「……」
颯太は、ゆっくりと深呼吸し、心を落ち着けた。黒沢は、まるでこの勝負はすでに決まっているとでも言いたげだった。だが、決着はまだついていない。
まだ、自分は真実のすべてにたどり着いていないのだから。