院長はじっと黙って動かない。何も口出しをしないつもりなのだろうか。それをみかねた木村先生が口をひらく。
「黒沢先生の主張を破るには、ICUの看護記録を見る必要があるね」
「ICUの看護記録!」
「そう。記録は、一つのカルテだけで完結するものじゃない。今のように電子カルテであれば、各部署から同じ記録を共有して記入することができるが、当時はそれぞれの紙記録だった」
ICUの看護記録。それは、患者の状態をリアルタイムで記録する看護師たちの記録ノート。医師のカルテとは別に、看護師たちは毎時間ごとの患者の状態や処置、医師の指示を詳細に記録している。そこには、黒沢や鷹野がどんな指示を出していたのか、医師の記録には残っていない細かな経過が書かれている可能性がある。黒沢先生の主張が間違っているのかを確かめることができるだろう。
「……つまり、ICUの記録が残っているなら、そこに消された情報がある可能性が高いですね」
「うん。でも…ICUの記録は一定期間が過ぎると、機密資料として保管庫に移されるんだ。」
「……保管庫ですか」
「そう。通常の病棟記録とは別に。もちろん医局の保管庫ではないよ」
つまり、通常の電子カルテや医局の記録には存在しないが、一定期間保管される場所があるということだ。
「でも、保管庫には、アクセス権限が必要ですよね。」
藤井先生が顎に手を当てながら呟く。
「そうなんだ。権限は…」
木村先生がそっと院長を見る。
「前院長と…もう一人」
「……!」
「院長」
「……」
颯太は、唇を噛みしめた。まだ、すべては終わっていない。新たな手がかりが見えてきた今、次に進むべき道は決まっている。颯太は、木村先生、藤井先生と目を合わせる。
「次は……保管庫ですね。」
そう呟くと、藤井先生が小さく頷いた。
「ついに、本丸に近づいたな。」
「前院長が、すべての鍵を握っているということですね……。」
新たな戦いの幕が開けようとしていた。颯太の心臓が、ゆっくりと高鳴った。この会話の間、ずっと黙っていた人物がいた。
院長だ。彼は、黒沢と颯太のやり取りをひと言も口を挟まずに聞いていた。まるで、黒沢の話に同調するかのように、何も言わずに。
いや、違う。院長は、何かを見極めているのではないか?
「……」
颯太は、院長の横顔をじっと見つめた。沈黙の中にある意図。この人は、どちらの側に立つのか。いや、もしかすると、もう答えは出ているのかもしれない。ただ、それを表に出すタイミングを見計らっているだけで。颯太は、静かに拳を握りしめた。
「……!」
突然、静かな室内に院長の院内PHSが鳴り響いた。院長は素早くそれを取り出し、応答する。
「はい」
受話口の向こうで、緊迫した看護師の声が聞こえる。
「院長、 ICUの高橋さんが目を覚ましました!」
その報告に、颯太の心が一気に跳ね上がる。
ついに……!
「意識レベルは?」
院長の問いに、看護師が答える。
「GCS(グラスゴー・コーマ・スケール)15です。呼びかけにも反応があります」
完全に意識が回復している!
「わかった。すぐに向かう。」
通話を終え、院長が颯太を見た。
「行こう。」
「はい!」
言葉を交わす間も惜しみ、二人は急ぎICUへと向かった。足音だけが、廊下に響く。すべてが動き出そうとしている。
颯太と院長は、ICUの扉を押し開けた。室内には、淡々と電子音を刻むモニターの音が響いていた。さきほど電話をかけてきた看護師が、高橋さんの点滴とモニターをチェックしているところだ。彼の身体にはまだ数本のラインが繋がれているが、顔色は思ったより良い。
「お疲れ様。」
院長が落ち着いた声で看護師に声をかける。
「お疲れ様です。高橋さん、院長が来てくださっていますよ。」
看護師がそう言うと、高橋さんがゆっくりと顔を向けた。
「ああ……」
掠れた声が、微かに響く。瞳にはまだ少しぼんやりとした色が宿っているが、意識ははっきりしている。確かに、目を覚ましている。術後の混乱はなく、GCS(意識レベル)は問題ない。颯太は、そっと安堵の息を吐いた。
「高橋さん、目が覚めましたね。気分はどうですか?」
ベッドの横に立ちながら、できるだけゆっけりと声をかける。
「……なんとか。」
力のない声ではあったが、しっかりと返事が返ってくる。それだけで、十分な回復の兆しだった。
「呼吸は苦しくないですか? 胸の痛みや違和感は?」
「少しだけ重たい感じがするけど、痛みはあまりないです」
「それはよかった。まだ術後ですから、無理をせず安静にしてくださいね。」
看護師が点滴の流量を微調整しながら、頷く。
「バイタルも安定しています。弁の音も正常に聞こえますし、このまま経過を見ていけば問題なさそうですね。」
「順調だな。よかった。」
院長も、ゆっくりと頷いた。高橋さんは、弱々しく微笑むと、視線を颯太へと向けた。
「……先生。」
「はい?」
「……助けてくれて、ありがとう。」
短い言葉だったが、それは彼の心からの感謝だった。颯太の胸に、じんわりとした温かさが広がる。
「いえ、こちらこそ、高橋さんが頑張ってくれたおかげです。」
高橋さんは、ゆっくりと目を閉じて、小さく息を吐いた。こうして彼が回復に向かっていることは、間違いない。それだけで、この手術は間違いではなかったと実感できる。
「しばらくは安静にしてくださいね。今はしっかり休んで、また落ち着いたらお話しましょう。」
「……はい。」
高橋さんは、再び目を閉じた。心拍は安定している。大丈夫だ。救うことができた。颯太は、ふっと息をつきながら、院長と目を合わせた。
「よかったですね、院長。」
「ああ……本当によかった。」
院長も、小さく微笑んだ。
それから、院長も颯太も忙しい日々を送り、気がつけば高橋さんの手術から1週間が過ぎていた。
高橋さんはICUでの回復を経て、ついに一般病棟への転棟が決まった。病室に入ると、高橋さんはベッドをあげ、すでに点滴のラインもほとんど外れている。顔色も良くなり、手術前のような苦しそうな表情はもう見られなかった。
「高橋さん、一般病棟に移れてよかったですね。」
颯太がそう言うと、高橋さんは穏やかな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「神崎先生、その節は本当にありがとうございました。」
「いえ、そんな……頭を上げてください。」
恐縮した様子でそう言うと、高橋さんはすっと顔を上げ、少しだけ眉を下げた。どこか、懐かしむような、寂しげな表情だった。
「神崎先生……僕、神崎先生のお父さん……航太郎先生にも助けてもらってるんです。」
「……え?」
「僕が入職したばかりのころ、先生が何度もフォローしてくださって……。」
高橋さんの言葉に、颯太は思わず言葉を失った。この病院に就職してから、幾度となく父の痕跡を見てきた。だが、こうして直接、スタッフから父の話を聞くのは初めてだった。
「僕が新人だった頃、まだ何もわからなくて、医療の現場に立つのが怖かったんです。看護師なのにダメですよね…でも、航太郎先生はそんな僕を決して突き放さずに、ひとつひとつ丁寧に教えてくれました。」
高橋さんは、少し目を伏せる。
「厳しい先生でした。でも、決して頭ごなしに怒ることはなくて……。僕が失敗して落ち込んでいると、『人は失敗する。だが、患者の前でだけは笑顔でいなさい』って言われました。」
「……父が……。」
「ええ。その言葉が、今でもずっと僕の中に残っています。」
高橋さんは、そう言いながら、少し寂しそうに微笑んだ。
「だから……僕が手術を受けるって決まったとき、神崎先生が担当してくれると聞いて、なんだか不思議な気持ちでした。親子二代にわたって、僕は命を救われたんです。」
その言葉に、颯太の胸がぎゅっと締めつけられる。
親子二代。
「……僕は、父のようになれているんでしょうか。」
思わず、ぽつりと口をついた。高橋さんは、少しだけ驚いたように目を見開いた後、ふっと優しく微笑んだ。
「先生は、先生ですよ。」
「……え?」
「航太郎先生は、神崎先生のお父さん。でも、神崎先生は、神崎先生です。」
「……」
「でも、一つだけ確かに言えることがあります。先生の治療には、あの時の航太郎先生と同じ、患者を想う気持ちがある。僕は、それを感じました。」
父と同じ気持ちが、自分の中にもある。そう思えた瞬間、心の奥が少しだけ、温かくなった気がした。
「……ありがとうございます。」
「いえ、僕のほうこそ、本当にありがとうございました。」
高橋さんは、再び深く頭を下げた。父は、確かにここにいた。そして、今もなお、誰かの記憶の中に生き続けている。颯太は、静かに拳を握りしめた。
「……俺は、やっぱり決めなくちゃいけないですね。」
高橋さんが、怪訝そうにこちらを見る。
「なにか……迷ってることがあるんですか?」
「……少しだけ。」
「先生なら、きっと正しい道を選べますよ。僕はそう思います。」
その言葉に、颯太は、ほんの少しだけ自信を持てた気がした。
「高橋さん、これからも、しっかり回復してくださいね。」
「はい。頑張ります。」
そっと病室を後にしながら、颯太は父の歩いた道を、もう一度確かめるような気持ちで、廊下を歩いた。
過去を、振り払うために。そして、前へ進むために。