颯太は、院長室の前に立った。ここに来るのは、もう何度目になるだろうか。けれど、今日ほど重い決断を持ってこの扉を叩くのは初めてだった。
こんこん
軽くノックすると、中からはいつものように落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ。」
事前に、この時間に話をしたいと連絡をしておいた。だから、院長もそのつもりで待っていてくれたのだろう。扉を開け、中へ入る。院長はいつものようにソファの前で待っていた。
「座りなさい。」
促され、颯太はゆっくりとソファに腰を下ろす。院長は穏やかな表情のまま、静かに視線を向けてきた。この人に、どう伝えるべきか。言葉を整理しながら、深く息を吸う。
そして、まっすぐ院長の目を見据えて言った。
「院長、僕は西浦君のことを公表しようと思っています。」
院長の目が、微かに細められる。けれど、驚いた様子はない。まるで、すでにその答えを予測していたかのように。
「父がしたこと、病院で起きたこと……正直に……だから……」
言葉を続けると、院長はゆっくりと頷いた。
「わかった。」
その一言が、室内の空気を変えた。
「……!」
予想していた反応とは、少し違った。反対されるかもしれない。あるいは、慎重になるように諭されるかもしれない。けれど、院長はただ、穏やかに微笑んでいた。
「わかった。ICUの看護記録を見に行こう。」
ICUの看護記録。それは、黒沢が言っていたもう一つの真実。医師のカルテには記されていない、看護師たちの記録。そこには、より生々しい事実が残されている可能性がある。
「……院長、僕がこう言うと、思っていたんですね?」
問いかけると、院長は小さく笑った。
「まあね。君の目を見ていれば、それくらいはわかるさ。」
「……ありがとうございます。」
「礼を言うのは、すべてを終えてからにしなさい。」
院長は、そう言いながら立ち上がった。
「行こうか。君が、すべての答えを見つけるために。」
そうして、二人は静かにICUの看護記録を求めて歩き出した。病院の闇に、ついに光が当たる時が来たのかもしれない。
病院敷地内奥の倉庫。そこに看護記録が保管されていることをこの時颯太は初めて知った。
それほど奥ばった場所に保管されていた。
入口には防犯カメラ。そして、暗証番号と鍵。
文章の保管はとても厳重にされていた。
倉庫に入ると、そこには膨大な量のカルテの数。
年度別にわかれている。
颯太はまっさきに事件のあった年のカルテをひとつずつめくる。そして…
「あった…」
そこには、ICUの看護師たちが毎時間記録していた詳細な患者情報が残されていた。
その中には──
「術後の経過観察開始(PM 8:00)/状態安定、モニター正常。血圧110/68mmHg、HR 98bpm、SpO₂ 98%。」
ここまでは、院長室で見つかったカルテと同じ記録だった。
しかし、問題はここからだ。
「AM 3:30/血圧低下(98/55mmHg)、頻脈(HR 112bpm)、不穏症状あり。鎮静薬指示」
この部分が、電子カルテからされていた。
「AM 5:15/血圧 85/50mmHg、酸素飽和度 96%。黒沢医師に報告。『経過観察』の指示。」
ここも、医師のカルテにはなかった記録だ。
「AM 6:00/血圧 78/45mmHg、HR 135bpm。苦悶表情強まる。黒沢医師に再度報告するも、『予定通りで』と指示。鎮静薬継続。人工呼吸器の設定変更なし。」
「AM 6:30/血圧低下(72/40mmHg)、SpO₂ 80%。患者呼吸困難の訴えあり。鷹野医師、鎮静薬追加投与指示。酸素投与量変更なし。」
「AM 6:50/心停止。蘇生試みるも、反応なし。死亡確認。」
そして、最後に──
「高橋(看護師) 記録:黒沢医師、経過観察指示。鷹野医師、鎮静薬指示。航太郎医師には、状態悪化の報告なし。」
これが、決定的な証拠だった。
「……高橋さんが、これを書いていたのか。」
かすれた字で綴られた看護記録。この一文が、何よりも真実を語っていた。父は、この時点で西浦君の状態悪化を知らされていなかった。父は、最初から術後の責任者にさせられていただけで、実際の術後管理には関与していなかった。
そして、それを隠蔽するために、カルテの記録は改ざんされ、電子データはされていた。
「……これが、すべてか。」
颯太は、ファイルを閉じて、ゆっくりと院長の顔を見た。院長もまた、ファイルの記録をじっと見つめていた。彼は、何を思っているのか。
「……父は、潔白だったんですね。」
颯太の声が、静かに響いた。
「そうだな。君の父は、何も知らなかった。だからこそ、黒沢たちは彼に責任を押し付けることができた。」
院長はそう言いながら、ファイルをそっと閉じた。
「これが、公表されれば……病院は大きく揺れることになる。」
「……わかっています。」
颯太は、拳を強く握りしめた。だが、もう迷いはない。
「僕は、この事実を公表します。」
その言葉に、院長はしばらく沈黙した後、静かに微笑んだ。
「いいだろう。君がその覚悟なら、私は止めない。」
院長は、すでにこちらの味方だったのだ。
「ただし……この事実を明らかにするためには、病院の正当な手順を踏まねばならない。」
「正当な手順……?」
「まずは、院内の倫理委員会に報告し、カルテの改ざんや隠蔽の事実を正式に調査することだ。それから、外部の監査機関にも協力を要請する。」
「つまり、慎重に進めなければならないということですね。」
「ああ。感情だけで突き進むのは、黒沢や前院長の思う壺になる。」
院長の言葉には、確かな重みがあった。
「わかりました。……すべて、手順通りに進めます。」
「よし。それでいい。」
颯太は、最後にもう一度、ファイルを手にした。この一冊が、すべての証拠になる。
「さあ、行こうか。過去を清算するために。」
院長の言葉を背に、颯太はゆっくりと、しかし力強く歩き出した。
父の無実を証明する、その瞬間が迫っている。