病院には医療の倫理を審査する委員会が存在する。重大な医療過誤や倫理的問題が疑われる場合、ここを通じて正式に調査が行われる。その場に颯太、院長、藤井先生、木村先生が立ち会い、黒沢たちの過ちを告発する証拠として、ICUの看護記録を提出する。
委員たちがファイルをめくるたびに、室内の空気が重くなるのが分かった。
この記録が意味するものを、彼らも理解しているのだろう。
「これは……本当なのか?」
「証拠はそろっています。電子データの、カルテの改ざん、そして看護記録にはっきりと残された未報告の事実。」
委員たちは、互いに視線を交わしながら、厳しい表情を浮かべる。
「……正式な調査を行うべきだ。」
その言葉が出た瞬間、病院全体が揺れるのを感じた。もはや後戻りはできない。
調査が進むにつれ、黒沢と鷹野に対する疑惑が次々と浮上する。カルテの改ざんに関わった可能性が高いスタッフへの聞き取り。ICUの看護師たちの証言。
そして、電子データの消去履歴。すべてが黒沢と鷹野に繋がっていた。
病院の廊下を歩いていると、不意に視界の先に見慣れた姿があった。
黒沢先生。
この数週間、彼に関する話題は病院中に広がっていた。ICUの看護記録が発見され、黒沢と鷹野の術後管理における重大なミスが公にされ、調査が進行している。倫理委員会の決定が下されれば、彼らは病院から追放される可能性が高い。それでも黒沢は、あくまでもいつも通りの態度を崩さずに歩いていた。しかし、その歩き方には、かつての余裕はなかった。
やはり、彼も追い詰められているのだろう。颯太が立ち止まり、彼に向き合うと、黒沢もまた足を止めた。
「……君は、本当にここまでやるつもりかね?」
目を細めながら、淡々とした口調で言う。まるで、「そこまでしなくてもいいじゃないか」とでも言いたげな声だった。しかし、颯太の決意は揺るがない。
「ええ。父の名誉を汚したままにはできませんから。」
颯太の返答に、黒沢は短く息を吐いた。その仕草には、わずかに疲れの色が滲んでいた。
「……君の父親が潔白だったことは認めるよ。」
黒沢の言葉は、静かだった。しかし、それが心からの謝罪でないことは、表情を見れば分かった。
「だが……それで君は満足か?病院が…患者がどうなろうと関係ないというわけか」
「……それとこれは別ですから」
そう言い切ると、黒沢は少しだけ口角を上げた。しかし、それは皮肉めいた笑みだった。
「……正義か。」
「君の父親と、ことごとく同じだな。」
そう呟いた黒沢の目に、一瞬だけ何かがよぎった気がした。それは後悔か、あるいは疲労か。けれど、その感情はすぐに消え去り、彼はまるで何事もなかったかのように歩き出した。颯太は、その背中をじっと見つめる。以前の黒沢は、堂々としていた。この病院の権威を背負い、どこか泰然自若とした雰囲気をまとっていた。しかし、今の彼の背中は──どこか小さく見えた。
「……」
颯太の中にある感情が、わずかに揺らぐ。黒沢先生は、本当にただの悪人だったのか?
確かに彼は、父を陥れた。カルテの改ざんに関与し、病院の隠蔽体質に加担した。けれど、彼自身がこれを正しいと信じてやっていたのかどうか、それは分からない。
「……黒沢先生。」
颯太が、思わず声をかけた。黒沢の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
しかし、彼は振り返らなかった。彼の背中は、ゆっくりと遠ざかっていく。颯太は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。黒沢が去った後も、颯太はしばらくその場から動けずにいた。彼の言葉が、なぜか頭の中にこびりついて離れなかった。
「……」
ふと、黒沢について調査したときの記録が、頭をよぎる。
医療の現場に立ち、決して妥協を許さない完璧主義者。患者のために、最善の治療を選択することを信念とし、それを貫く強さを持っていた。
なのに、なぜ。彼は、いつの間にか権力側の医者になってしまったのか。
過去の記録の中で、彼がまだ純粋に医療を追求していた頃の姿を思い出す。何が、彼を変えてしまったのか。それを問いかけることは、もうできないのかもしれない。
けれど、確かなことがひとつだけあった。黒沢は、最後まで自分の正しさを貫いた。
それが、誤った道だったとしても。そして、もしかすると。
「……もしかすると、彼もまた守るために戦っていたのかもしれないな。」
そう呟いた言葉に、自分で驚く。父を陥れた黒沢。憎むべき相手だった。けれど、彼もまた、病院という組織の中で、何かを守ろうとしていたのかもしれない。
自分と、同じように。颯太は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも、俺は父の道を選ぶ。」
黒沢の選択とは違う道。それでも、彼が最後に言った「気をつけることだな」という言葉を、警告として胸に刻もう。病院の過去は清算された。けれど、それで終わりではない。
これから、自分がどう病院を変えていくかが問われる。
「……父の墓参りに行こう。」
颯太は、静かにそう決意しながら、その場を後にした。
──すべてが終わったわけではない。
──だが、ひとつの答えは出た。
これから先、何があろうとも、自分は正しさを選ぶ。そう誓いながら、颯太は、静かに前を向いた。
倫理委員会の調査が進む中、最終的に前院長(現院長の父)への聞き取りが行われることになった。
院長は、苦渋の表情を浮かべながらも、その場に立ち会う決断をした。父親の罪を、自らの手で明らかにするために。前院長は、すでに医師を引退しているが、その影響力は未だに病院の一部に残っていた。彼は、ゆっくりと椅子に腰掛けると、息子である院長をじっと見つめた。
「……私を裁くのか。」
「裁くのではありません。真実を明らかにするだけです。」
「それが、君の選んだ道か……。」
前院長は、ゆっくりと目を閉じた。しばらくの沈黙。そして、静かに口を開いた。
「……あの時、私は病院を守ることを優先した。」
「医療過誤の疑惑があれば、病院の信用は失墜する。だから、私は神崎航太郎に責任を押し付けるという選択をした。」
「だが、それが間違いだったことは、今になってよくわかるよ。」
その言葉を聞いた瞬間、院長の表情が苦しげに歪んだ。彼は、息子として、ずっと父の罪を知っていたのだろう。
「……病院を守るために、一人の医師を犠牲にすることが正しかったと、本当に思っていますか?」
颯太が、強い口調で問いかける。前院長は、しばらく黙っていた。そして、微かに震える声で言った。
「……私が間違っていた。」
その言葉を聞いた瞬間、すべてが決まった。
正式な調査の結果、黒沢と鷹野の責任が明らかになり、病院内の隠蔽体質が改善されることになった。
副院長と黒沢・鷹野は医師免許をはく奪された。彼らに救われた命は数えきれないだろう。しかし、これも彼らが選んだ道の結果だ。
また、航太郎が無実だったことが正式に証明され、彼の名誉は回復された。病院は、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
颯太は、院長室の窓から病院の風景を眺めていた。父が守ろうとしたものは、今、自分の手で守るべきものになった。
「神崎先生。」
後ろから、木村先生の声がした。
「これで、一つの答えが出ましたね。」
「……はい。ようやく、ですね。」
「これで終わりじゃないぞ。これから、お前がこの病院をどう守るか、そこが重要だからな。」
藤井先生が、少し笑いながら言う。
「ええ。そのつもりです。」
颯太は、静かに拳を握りしめた。父の意志を継ぎ、正しい医療を貫くために。彼は、ようやく答えを見つけることができたのだった。
すべてを乗り越え、新たな未来へ。