『アナタにはこれからアナの精神に入ってもらうわ』
「精神に?」
突然身体から濃密な闇を溢れ出させながら、ジャニス様は俺にそう告げる。
『“憤怒の狼”は強大な力を持っていても根本はスキル。特殊な手段を用いなければ実体はなく、外からの干渉も出来なくはないけど難しい』
気体と液体の中間のような闇はそのままアナにまとわりつき、その表面を比較的優しく覆う。
『なら直接“憤怒の狼”が居るアナの精神世界に誰かを送り、制御出来るまで力を弱めてアナとの結びつきを抑えればいい。出来ればこのままアナ自身が耐えられるのが一番だったけど……限界を見誤ったワタシも気が逸っていた事もあるしね。少しは妥協しましょう』
『お待ちをっ!? 確かにヒトの心の闇を司るアナタなら、他者を精神世界に送り込む事は可能でしょう。ですが開斗様に行かせる必要はないのでは? それこそアナタ自身やアナタの手の者が入れば……なんならワタクシでも』
俺を心配しているのか、ヒヨリはそう提案するがジャニス様は薄く笑って首を横に振る。
『それはお勧めしないわねぇ。ヒトの精神に神族や超越者は下手に入れない。
「はい。心身共に健やかに導くのがトレーナーの仕事ですから」
俺がそうはっきり答えると、ジャニス様はクスクスと笑う。
『良いわぁ。こちらとしてもその方が良い。意志のない人形では大罪スキルは育たないし、復讐の甘美な味わいも得られないのでは興が削がれるもの。ああそれと、ワタシの
『何故です?』
『うふふ……内緒よ。でも送ると
敢えて最後を濁して最終確認をしてくるジャニス様に対し、俺はゆっくりと頷く。
『結構よ。じゃあこれはワタシからの贈り物』
ジャニス様が一度掌を握ってから開くと、先ほどから流れ出る闇とは別の妖しく光る何かが俺の懐に飛んでくる。
『道具の一つもなくては困りものでしょう? 使い方は中で自然と分かるから上手く役立てなさいな。……それでは』
そしてジャニス様は深く息を吸うと、目を閉じて祈るように自身の両手を重ねる。その姿は身に纏った闇さえ度外視すれば正しく女神か聖女のようで。
その瞬間、アナを覆っていた闇が二人に一部繋がったままどろりと床に広がる。まるで光を反射しない黒い池のように。ジャニス様が祈りを解いて指で触れると、床に指が着くどころかとぷんと沈み込んだ。
『……良いわ。あとはそこに飛び込むだけ。でもあまり長くは保たないわよ。アナの身体も心もね』
ジャニス様の声は、これまでのどこか投げやりさや危うさを前面に出した物とは違い、ほんの僅かの真剣さを含んでいた。考えはどうあれ、アナを救おうと尽力してくれる姿勢にそっと頭を下げ、俺はそのまま黒い鏡に飛び込もうとして、
「ヒヨリ。そろそろ出発するからいったん離れて……ヒヨリ?」
『ちょ~っとお待ちを。……ジャニス様。一応確認ですが、
肩に留まったままのヒヨリがそう尋ねると、ジャニス様は少し黙考して、
『そうねぇ。出力をその身体の特性のみに留めるなら構わないわ。もし中で本性を晒してアナを壊そうものなら……分かるわよねぇ?』
『分かっています。念の為ですよ…………お待たせしました開斗様! 早速アナちゃんを助けに行きましょうっ!』
そう妙な会話を交わし、ヒヨリは準備完了とばかりに一度大きく羽を広げて合図する。
「ああ。ヒヨリが一緒なら心強いよ。では……行くぞっ!」
俺は大きく息を吸い、えいやっと一気に黒い池に飛び込んだ。
足に来る筈の衝撃はなく、代わりにあるのは身体を包み込む水と霧の中間のような感触。そして少しずつ気が遠くなっていき、
“お父さんっ!? 行かないでっ!?”
”やめてっ!? お母さんっ!? ここから出ちゃだめだよっ!?”
ふと、そんな涙声が聞こえた気がした。やや幼さがあるが、それはここ数日で聞き慣れた声で、
『開斗様。今の声は』
「ああ。……アナだ!」
それと同時に俺の頭に妙な光景が流れ込んでくる。
それは静かな日々をおくる隠れ里。そこで穏やかな暮らしをする少女とその両親らしき誰かの姿。
「これは……アナの記憶か?」
『そうかもしれません』
そう話しながらも光景は次々に進んでいく。
突然の仮面の者達の襲撃。響く悲鳴と怒号。燃え盛る家々。
剣を持ち家族を守らんとし、力及ばず倒れる父親。
子供を家の隠し部屋に苦し、子供の目の前で斬り殺される母親。
一人震えて少女は隠し部屋で一夜を明かし、気が付けば音が止んだのを知って外に出て…………半身が燃え尽きて炭化した母の姿を目の当たりにする。
『これは……酷いですね』
「……ああ」
平和な現代ではまず起こりえない虐殺の記憶。それをまだ幼い少女が目の当たりにしてどんな心の傷を負ったことか。
半狂乱になった少女が外で目にしたのは、あちこちに残る無残な遺体と燃え残った家々。そしてそれらを覆いつくそうと降りしきる雪。
そしてその場に力なく崩れ落ちた少女を仮面の者達が取り囲み、
“……せない。許せない。許せないっ!”
最後に聞こえてきたのは、少女の放った怨嗟と怒りの混ざった声。それを最後に再び意識が遠くなり、
べしべし。べしべし。
『…………斗様。開斗様っ!? しっかり」
頬にはたかれる感触を覚え、俺は意識が覚醒する。どうやらはたいていたのはヒヨリの羽のようで、
『あっ! やっと起きてくれましたか。早速で申し訳ないのですが周囲をご覧ください』
「…………はっ!?」
ひゅーひゅー。ごうごう。
ヒヨリに促されて気が付けば、俺は雪と風の吹きすさぶ焼け残った廃村に立っていた。