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第19話 怒りを知った少年

 怒りだった。

 そして、憤っているのは天使だけではなかった。慧達と別れて家に戻ると、彼は両親に呼び出された。馨も同席するリビングで、慧とは以前から友人だったのか、その慧は澪央達と繋がっていたようだがお前達はどういう関係なのかと詰問された。父がどれだけ恐ろしい形相になっても、天使はもう何も感じなかった。全てを告白する必要は無い。両親も薄々勘付いているだろう。

「皆、僕を心配してくれていただけだよ。今の成績じゃ志望校に受かるのは難しいって。話し合った方が良いって」

「だからって、こんな謀りが許されると思うの?」

 母は珍しく微笑まず、厳しい表情をしていた。だが、それは天使も同じだった。

「許されるとか許されないとか、そんなの考えてなかったと思うよ」

「他人事な言い方ね」

 吐き捨てるような口調で、侮蔑を感じるような目をしていた。笑っていることが多くても、母の本質は父と大して変わらない。

「他人事だったから」

「……?」

 母は片方の目尻を上げて怪訝そうにした。意味が解らなかったらしい。しかし、彼女さえ首を傾げるような考え方をするようになったのは――天使から思考能力を奪ったのは両親だ。

「馨に報告を偽るように言ったのは、本当にお前なんだな?」

「それは……」

「そうだよ」

 口を挟みかけた馨を遮って答えると、父は無感情な低い声で天使を突き放した。

「まあいい、話は終わりだ。成績の優れない者がこの家で認められることはない。もうお前の顔は見たくない」

「……分かりました」

 口角を上げ、挑発的に父を見返し、天使は腰を上げた。リビングの戸を閉め、すぐには歩き出さずに立ち止まる。だらりと下げた両手が震えていた。

 この場に慧が居たら、また苦しめてしまっていただろう。


 夕飯は自室で摂ることにした。膳をテーブルに置いた馨は、物問いたげに佇んで戻ろうとしない。

「馨さん、どうかした?」

 水を向けてみると、彼女は少しばかり迷うように視線を逃がしてから、口を開いた。

「何故、あんなことを? 二人に本当の成績を伝えなかったのは私の判断です」

「……でも、僕のお願いでもあるよ」

 その会話が成されたのは、五年程前のことだった。通っていた私立中学では進級時のクラスを成績順に決めることになっていた。小学校では成績が悪くても報告義務が無かったが、中学でテストの点が低いクラスになったら誤魔化しようがない。

『このままじゃA組になれないよ。なれなかったら……』

 豪華な自室で教科書と参考書、ノートを開き、中学一年の天使は困っていた。将来の進学先は『決まっていた』が、常に優秀でいることも『決まっている』のだ。その為には良い成績を取る必要があるが、自動的に取れるものではない。

 両親の方針は絶対的に正しく当然で、疑問を挟もうとは思いもしない。けれど、父に叱責されるのは避けたかった。

『これからは普段のテストの結果も全部報告するんでしょ? どうしよう……』

『確かに……それでは、トップの成績だと報告しておきましょう』

『えっ!? いいの!?』

『今までだって一夜漬けで何とかなったでしょう。定期テストだけ高得点を取ってA組になればいいのです。聖夜君にはまずバレません。私が保証します』

『本当!? じゃあお願いするよ!』

 ――と、言い出したのは馨だったが、正式に“依頼”したのは天使だった。

「だから、僕が頼んだのは嘘じゃないよ」

「ですが……」

「馨さんを嘘吐きにしちゃってごめんね」

 苦笑を浮かべて謝ると、馨の表情に陰が出来た。

「私は私の為にそうしただけですから……」

 一礼して出て行った彼女を目で追いながら、慧に言われたことを思い出す。

「これからどうしようかなあ……」


     □■□■


 休み明けの月曜日、明日香は前を行く友人を見つけて挨拶をした。

「おはよう、雫」

「あ、うん、おはよう」

 彼女は不景気な顔をしていて、前を向くと無言のまま押し黙る。昇降口で靴を履き替えている時に、ぼそりと話し掛けてきた。

「……なんかさ」

「うん」

 上履きに足を入れ、右へ左へと行き交う生徒の間を縫って歩き出す。

「私は、天塚君の直斗さんへの言い草が許せなくて、けちょんけちょんにしたかったんだけど」

「うん」

 けちょんけちょん……と言葉のチョイスに内心で突っ込みつつ、相槌を打つ。

「勝手にけちょんけちょんになっちゃったじゃない?」

「……そうだね」

「何か靄々しちゃって。すっきりしなくて、ざまあとも思えなくて。今だってあの時のことを思い出すと腹が立つのに、天塚君に同情してもいて」

 階段を上りながら、よく分からなくなっちゃったと雫は言った。

「正直、明日香の時みたいに上手くいくとは思ってなかったんだ。『本』の内容的にも無理だろうなって。この結果を望んでたような気すらするのにね」

「……うん」

 似たような思いを、明日香も抱いていた。けちょんけちょんに性根を叩き直してやりたいとまでは思っていなかったが、天使からの言葉は胸に刺さったままだ。謂れのない内容だったからではない。それとは逆で、自分が直視したくない、単純な本心を突き付けられたからだ。直斗を振った時に申し訳無さや罪深さや苛立ちがあったのは確かだ。けれど、根本はそうじゃない。彼を見下し、嫌悪していたからだ。事情を知った今こそ大切な友人になったとしても――

 こんなこと、彼の恋人である雫には言えない。

 偽の商談の日まで、天使にはまるで親近感を持てなかった。ただ、『異常』に感じる彼と――彼の家族の行く末を見届けたかった。天使に欠けている何かを知り、理解したかっただけだ。

 悪い言い方をすれば、『ただの好奇心』で。

 それが、彼を助けたいという気持ちに変化してしまっている。

「…………」

 何も言えず、二人は黙ったまま階段を上って二年生の教室が並ぶ廊下に出た。E組に向かう途中でB組の前を通る為、つい出入口を覗いてしまう。天使はクラスメイトに囲まれていた。

天使のえる君、何かあった?」

「雰囲気がかっこよくなってない?」

天使てんし君じゃなくて堕天使君みたいだよ!」

 上手いのか上手くないのか微妙な台詞が聞こえる。天使は「あはは」という乾いた笑いの後に皆に言う。

「堕天使の僕は嫌?」

「そんなことないよ!」

「可愛い天使のえる君も陰のある天使のえる君も私達のアイドルだよ!」

 何を言っているのか、と明日香は悩みを忘れてテンションを落とす。何となくだが『アイドル』が『人形』という意味に感じられて気持ち悪さがあった。

「あ、伊瀬さん」

 その時、天使がこちらに気付いた。席を立って、歩いてくる。

「伊瀬さんに話があったんだ。あ、告白とか告白の答えとかじゃないよ」

 後半は教室内を振り向き、彼の机を囲んでいた生徒達宛に言う。彼女達が、くすくす笑った。

「えっ、ちょっと……私のこと何て言って……」

「僕は何も言ってないよ。勝手に噂が流れているだけ。あんな連れ出し方をしたんだから、仕方ないよね」

 天使は以前のように、にこにこと笑っている。あの面談を経ても、以前の、どこか得体の知れなかった部分が残っているのか。それとも演技なのか。解らずに背筋が寒くなる。

「良いから、ちょっと来てよ。望月さんも来ていいよ」

「はあ!?」

 扱いの軽さに怒った雫が天使を追い、明日香は最後尾をついていく。廊下に出た天使は上への階段を進み、屋上に出る扉の前で立ち止まった。

「それで……話って……?」

 警戒しつつ訊くと、天使はお願いしたいことがあるんだと明るく言った。

「お願い……? 私に?」

「そう。伊瀬さんにしか出来ないことだよ」


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