「…………」
翌日の朝、登校した慧は廊下を顰め面で歩いていた。ベッドに入ってから思い出したが、昨日は学校から帰った時も警察署へ行く時も、あの赤い髪の人形――ロザリアは窓前に置いてあった。慧自身は移動させていない筈だ。
(泥棒か? でも何も盗られてなかったし、人形を移動させる理由なんて……)
若干の疑いを抱きつつ、ただの記憶違いだろうという思いもある。考え込んでいると、前方から「神谷」と呼び止められた。
「氷室先生」
顰め面のままに応えると、C組担任の氷室大和が怪訝そうにこちらを見ている。三十代半ばで、比較的長めの黒髪に、細い目をしている。耳にはシンプルなピアスをしていて、今日は片方の耳に白い絆創膏をつけている。
「何て顔してるんだ。どうかしたのか?」
「いえ、どうかしたのかしてないのかも分からなくて……」
教師に話すことでもないと曖昧に答えると、大和は当然ながら意味が解らないという顔をした。
「定期テストの結果が悪かったからじゃないのか」
「あ、それはそれで勿論……気になっています」
完全に意識の隅に追いやられていた。担任は軽く苦笑する。
「その話も含めて、今日は二者面談だ。忘れてないだろうな」
「あ、はい、勿論……覚えています」
完全に忘れていた。大和はそうか、と頷く。
「また人のストレスを受けて悩んでいるのかと思ったよ」
え、と思った時にはもう、教室に入ろうとする担任の背中しか見えなかった。
****
放課後の教室で、慧と大和は将来についての話をした。この日最後の面談で、廊下で待つ他の保護者も生徒も居ない。六人分の机を合わせ、黒板を背にして座る担任が、進路調査票に書き込みをしていく。
「なるほど、美大を受けることにしたのか」
細い目を嬉しそうに弓なりにする彼に、慧は頷く。
「美大を第一志望に、別の大学も受験しようと考えています」
「そうだな。既に専門職に就いているとはいえ、美大を出たという肩書は更に信頼性を高めることになる。大変かもしれないが、悪い選択じゃない。しかし……」
リラックスした雰囲気を少し引き締め、大和はペンを置いた。
「進学には消極的だったと思うが、何故、考えを変えたんだ?」
「はい。最近、友人と関わる中で色々考えて……大学に行くというのがどれだけ大切か分かったんです」
「そうか。友人が増えたからの気付きか。それは……」
束の間だけ笑みを浮かべてから、担任はすぐに神妙な顔になって、多少言い難そうにしながら質問してきた。
「お前は、子供の頃に他人に近付くと痛い痛いと訴えていたそうだが……それが関係して、あえて人と関わらないようにしているのかと思っていた。もう、痛くなくなったのか?」
「え、ええと……」
どう答えるべきなのか判断がつかず、口ごもる。いつかの保健室で、唐突に『小学校の時に妙なことを言っていたらしいな』と聞こえたのは気のせいではなかったと確信すると共に、何を考えての問いなのかが全く読めない。
「あの、先生はどこでその話を聞いたんですか……?」
「え? ああ、そうだな……」
大和は困ったように、絆創膏を貼っていない方の耳たぶを触った。
「お前、クラスで誰とも馴染まなかっただろう? 馴染めないんじゃなくて、馴染まないと決めているようだった。それでいて、行事だったりグループ活動が必要な時は問題無く人と話す。クラスの連中も、お前が人嫌いじゃないと分かるから嫌悪は持たない。それなのに、何故友人を作ろうとしないのかが腑に落ちなかった」
「…………」
語られた慧の性格は、かなり的確で、殻に閉じこもることが出来ていると思っていたのは自分だけで、周囲には全てバレていたのかという驚きに包まれる。
「生徒についてはなるべく知っておきたいものだ。俺が担任する生徒なら尚更な。それで、去年の担任に話を聞いてみたが、お前が人を遠ざけようとする理由は分からなかった」
慧は、えびす顔で頭髪薄めの元担任を思い浮かべる。人当たりが良く穏やかで、無難に日々を過ごすタイプの人だった。そうして、天使の家庭について彼の元担任に訊いたという紗希の顔を思い出す。生徒について知ろうとする時の担任の行動は似通うのだろうか、と内心で苦笑する。
「次に連絡をしたのが内申書を書いていた中学の先生で、小学校の時に何かあったらしいですよと聞いた。それで小学校に……という順だ」
「そうですか……」
それだけ一人の生徒について向き合おうとする教師が担任なのは、頼りになると思うべきなのだろうが――慧は何となく迷惑だなと思ってしまう。
だが、キオク図書館の『本』を使って友人達の個人事情に関わってきた自分も大和と変わらない。
多少お節介でも、彼は悪い先生ではないのだろう。
「まあ、結局確証のある話は聞けなかったが、その痛み云々という話が本当で、最近友達を作るようになった理由が痛みを感じなくなったからというなら良いことだと思ってな」
「良いこと……」
慧は『痛み』が無くなった毎日を想像し、『痛み』を受けることで人の苦悩を知り、助けたいと思った毎日を振り返る。
確かに、この能力は迷惑極まりないものだ。だが、この能力が消えてしまったら――
「…………」
黙ってしまった慧を見て、大和は腕を組んで軽く息を吐いた。
「だからこそ今朝の考え込んだ様子が気になった。まだ誰かの『痛み』を感じることがあるのかと」
「……『痛み』については本当です。今まで、この能力が消えたことはありません。友人が増えたのは、むしろ『痛み』のおかげです。朝は、ちょっと、仕事について考えていて。人形について……」
人形について考えていたのは、嘘ではない。
「……そうだったのか」
担任は、細い目を若干見開いた。その後、気が抜けたように、笑う。
「俺が色々と考え過ぎていたみたいだな。『痛み』から人を避けていた神谷が、そのままでも人との交流を厭わなくなったのは良いことなんだろう。ところで……その能力は突然出るようになったのか? ご家族も同じ能力を持っていて、遺伝だったとか……いや、忘れてくれ」
バツが悪そうな顔をして、大和は視線を逸らした。幼少時に両親が亡くなっていると思い出したからだろう。
「好奇心で訊くことではないな」
「両親がこの能力を持っていたのか、俺は知りません。俺の記憶では、父も母もいつも笑っていて……でも、隠していただけかもしれないし」
「そうか……」
まあ頑張れ、と言われてこの日の面談は終了した。
帰り道、慧は大和の言葉が頭を離れなかった。
この『痛み』の能力は、遺伝なのだろうか。両親も――或いは、どちらかが能力を持っていたりしたのだろうか。
仮にそうだとして、能力とどう付き合ってきたのだろう。
二人に『痛み』があったとしても無かったとしても。
(俺は、父さんと母さんのことを何も知らないんだな……)
そう思うと、また、両親の『本』を読んでみたいという想いが膨らんだ。