警察署の前からそれぞれ解散することになった時、天使と馨はキオク図書館を経由せずに『月と金木犀』に行くことになった。アレクシスは場所を把握する為と言っていたが、馨が図書館に入ったことが無いからだろう。
案内をするアレクシスが図書館を使わない以上、基本的には慧達も自力で帰ることになる。
時間も遅く、コートの下はラフな格好をしている者が多かった。タクシーを利用することになったが、一台に全員乗るのは難しい。この時点で大人は三人であり、三組に分かれることになった。『月と金木犀』の場所は馨も把握している。ナビに住所を入力すれば、タクシーは問題無く送り届けてくれるということで、天使と馨、途中のルートで降りる明日香が一台に、雫と直斗が紗希と一緒に、そして、慧と澪央、アレクシスが一台に乗ることになった。
「今日は……大変だったな」
後部座席に並んで座った澪央に、慧は話し掛けた。明らかに元気が無さそうな彼女を励ましたかったのだが、どうにも具体性の無い言葉になってしまった。
「私は……ただあそこにいただけだから。全然、役に立てなかったし」
視線を斜め下に向けて、澪央は言った。声も表情も沈んでいて、明らかに落ち込んでいる。
「あの怖いお父さんに、本当は何をやったのか、はっきりと指摘したのは椎名だ。椎名があの人の虚勢の仮面を崩したんだ」
励ましではなく、本当にそう思っていた。
聖夜が交際したがっていたという髪を下ろした馨の印象が澪央に似ていたことから、『好みの女性からの指摘』だったから動揺したというのもあるだろう。だが、あの場で彼女が発言しなかったら、流れはどうなっていたか分からない。
「……そうね。でも私はあの時、許せないという気持ちしか、糾弾したいという気持ちしかなくて……結局、家族三人の仲直りも……叶わなかった。でも、彼は救われたようにも見えて…………何が正解なんだろうって。家族って……何なんだろうって……」
タクシーの中に重い沈黙が落ちる。体全体にチクチクとした痛みがあり、澪央の後悔や無力感が紛れもない本心なのだと伝えてくる。バックミラーに映る運転手は真顔だったが、どことなく気まずい空気が流れてくる。
「血は繋がっていても心までは読めないし、考えや性格が合わないこともある。長く一人で暮らしてるからかもしれないけど……俺は、両親と離れて暮らすのも一つの選択だと思うよ」
「……そうね。そうかもしれない……」
澪央は僅かに微笑んだが、すぐに視線を落としてしまった。
「天塚はすっきりした顔をしてたし、きっと大丈夫だ。何かあったら、俺達が相談に乗ればいい」
「うん……そうね。友達だものね」
もう一度笑みを浮かべた彼女から、痛みを感じなくなっていく。安堵すると、車内の空気も気にならなくなった。運転手の表情も心なしか和らいだように感じる。
そこで、助手席からおもむろに声が掛かった。
「中には、他人同士でも家族として暮らしている者達も居る。どんな形であれ、本人達が納得するかどうかだ」
「他人同士でも、家族として? そういえば、夫婦は確かに……」
澪央が眉を寄せる。助手席の――アレクシスの話について考えているようだった。
「夫婦に限ったことではないが……」
「お客さん、着きましたよ」
綺麗な一軒家の前で車が止まり、澪央は降車して家に入っていった。
「天塚君のことだが、言い忘れていたんだが」
アレクシスが、また話し出す。口ぶりから重要なことなのかと感じ、「何だ?」と促す。
「彼は親から愛されていなかったわけではない。両親の『本』を読めたのがその証拠だ」
「何だって?」
驚いて、声が跳ね上がる。
「でも、親子なんだから……」
「親子でも、相手に心を許していないと『本』は読めない。無条件に読めるわけではない」
慧は口をぽかんと開けたい気分になった。そんな大事なことを、どうして今言うのか。
「だったら、さっき椎名にそう言ってやれば……天塚にだって」
「今まで忘れていた。伝えておいてくれ」
「はあ?」
責めるよりも呆れが勝った。力が抜けて座席に背を預ける。運転手が口をぽかんと開けている。
「あの、何のお話をしているのでしょう?」
「今度やる劇の脚本の話ですよ。今日もその練習で遅くなってしまって」
アレクシスはさらりと嘘を吐き、運転手は得心したようだった。
「そうなんですか。実は私も昔演劇をやっていましてね。役柄の性格もしっかり伝えないといけませんよね……」
そこから始まった彼の演劇話を聞いているうちに、『神谷ドール』に着いた。車を降り、入口の鍵を開けて中に入る。
「家族か……」
真っ暗で、迎える者が誰も居ない店の中で、慧は呟く。ここ数か月、様々な家族の形に触れた。
家でも理想の自分を見せ続けないといけないと思っていた娘に、ありのままで良いのだと温かく伝えた親。学校に行かなくなった息子を心配しつつ、登校を強制しなかった親。娘の将来を考える余りに進学先を指定しようとした親。そして、家柄の為に優秀な成績以外は認められず、上手く心を通わせられなかった親――
これまでは、両親のプライベートを覗く行為に抵抗があった。二人に愛されていたという確信もあった。だが、どんなことを考えて接してもらっていたのか、実際はどう思われていたのか。本人達が消えてしまった以上、『本』を読むことでしか知る方法は無いのだ。
闇に慣れてきた目で店の中を見回す。慧が作った沢山の人形が、壁が見えない程に、店の空間を圧迫する程に飾られている。“彼女”達もある意味家族だが、孤独を埋められる存在ではない。
「ん……?」
革張りのソファの上に、赤髪の人形が座っている。こんな場所に座らせただろうか。店番代わりと人形見本を兼ねて、表の窓から見える場所に置いているのに。
アンティーク調のテーブルの上には、底に紅茶汚れがついたカップが置いてある。
「…………?」
気分転換で、ここで人形を作ったり勉強や休憩をすることもある。しかし、最近このテーブルで紅茶を飲んだ覚えが無い。
「凄く眠い日に使ったのか?」
その時に、気まぐれに移動させたのかもしれない。幼稚園児くらいのサイズの人形を抱き上げ、元に戻す。カップを持ち、障子の先の和室に片足を上げた時に女性の声が聞こえた。
「おかえり」
中途半端な姿勢のまま、動きを止める。
「……母さん?」
――自然に出たのは、母への問い掛けだった。
答えは返ってこない。耳が音に飢える程の静かさが続くだけだ。
「…………」
気のせいかと思い、和室に両足をつける。
「ちがうよ」
カップを台所に持っていこうとしたところで――また声がした気がした。