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第26話 エピローグ

「一体、どういうことなのか――」

 慧の『本』を閉じたアレクシスは、表紙を見詰めて黙考する。天使の『本』に関する謎が解けたというのに、ここに来て新たな不明点が出てきた形になる。

(蓋を開けてみれば大した理由ではないかもしれないが……)

 人の歴史が記録されているとはいえ、どの『本』にもプライベートな部分は書かれていない。入浴等の衛生関係であったり食事の内容だったりという細かいことは勿論、他人に共有すべきではない事項は省略されている。そして、その基準は個人によって変わってくる。夫妻の『本』は簡潔な書き方をされていて、元から私生活は見えにくい。

「ちょっと良く分かってないんだけど……」

 困惑した様子で、明日香が言う。

「そうだな。しかし、『本』には当人の性格が出る。記載する必要性が無いと考えられたなら……」

「いや、そっちじゃなくて、森さんのことで」

「……?」

 青い『本』の表紙から顔を上げると、彼女は片眉を僅かに寄せていた。

「森さんって、あの二人と同じ学校に通ってたの? そんなこと、初めて聞いたよ」

「ああ、なるほど。彼女についてはあまり重要視していなかったから、説明を省いていたな。その通りだ」

 個人的に若草色の『本』を読んだ時に、秘書と夫妻の関係も、馨が天使の味方であることは判っていた。だが、天使の件はあくまでも家族の問題であると考えていたから彼女の介入でどうにかなるとは思っていなかったし、介入してくるとも予想していなかった。

「彼女は天塚夫妻の高校時代の友人だ。同じ大学には入れず、別の私立大学を卒業後に就職したがリストラに遭い、その時に夫妻に秘書兼子守をしないかと誘われた」

「……ということは、高校卒業後も交流があったということだよね。それが、あんなに他人行儀な関係になるのかな?」

 直斗は不思議そうだが、それについても、馨側からは説明出来る。

「仕事に友人関係を持ち込まないというのもあるが、子供への態度が自分の考えと乖離していると気付いて心を閉じるようになったようだ」

「そうなんだ……。それも、寂しい話ですよね……」

 少し気落ちしたのか視線を落とす彼の隣で、雫が口を開く。

「大体、どうして盗聴器なんて持ってたんだろう。探偵だったりライバル会社のスパイなのかなとか思ったりしたんだけど」

「盗聴器か」

 アレクシスは若草色の『本』を引き寄せてページを捲った。

「ここに書いてある。彼女は、天塚家の慣習に染まらなかった唯一の存在だ。天塚君と一番近しい者として友人達の態度に疑問を持ち、本気で彼に勉学を強いているのか、家族としての情が無いのか――二人きりの時はもっと人間性があるのではないかと、それを探したかったらしい」

 高校、大学時代の二人とはあまりにも違っていたから、と記述がある。

「盗聴器は、彼女自身と天塚君の部屋以外の全てに仕掛けてあった。だからこそ、あの日にすぐに提供が可能だったということだ」

「森さんは、本当に天塚君を大事に思っていたんだね……」

 しんみりとした明日香に続き、元気を欠いた声で雫が言う。

「だったら、二人で暮らすのも一つの幸せなのかな……」

「うん。何が幸せなのかはそれぞれだし……」

 直斗もぽそりと同意したが、明るさは無い。揃って下を向いてしまった三人を前に、アレクシスは立ち上がった。

「とりあえず、天塚君達と合流するか。警察署には直通で行けるが……近くの喫茶店の出入口を利用しよう」


     □■□■


 天使達が警察署を出ると、駐車場の外には知っている四人の姿があった。こちらの姿を見て、駆け寄ってくる。

「あ、天塚君……」

 心配気に直斗が名を呼んできたが、それきり、高校生三人は黙ってしまう。

「……来てくれたんだ」

 皆、心許ない遠慮がちな表情をしていた。お互いに様子を伺っているような気配もある。手放しで祝福できる結果とは言い難いし、どうしようという感じだ。天使の起こした行動にも色々な感情があるだろう。

「全部、知ってるんだよね。あそこの『本』を使ったの?」

「うん……」

 殊勝に、少々申し訳なさそうに雫が頷く。こんなに大人しい彼女は初めて見る。

「話すタイミングが無かったが、君の『本』は出現した。君は人だったということだな」

「……?」

 意味が判らなかったが、図書館で『その説明が本当なら、僕は人じゃないんじゃないかな』と言ったことを思い出す。あまり関心が無い故の発言であり、今の自分でもそこは変わらないみたいだった。

「まあそうだね。でも……」

 あの時に返した言葉をそのままなぞり、あの時には覚えなかった感情を付け加える。

「……『本』を読まれるのは、何か、恥ずかしいな……」

 照れ笑いをすると、曇った顔のままだった同級生達も、控えめながら笑みを浮かべる。

「心配しなくても、君が連行されてからは慧の『本』を使っている。慧の心情は駄々漏れだが、君のは漏れていない」

 慧が「うっ」と小さく声を上げ、嫌そうな顔をする。天使は、ふふっと笑った。そこで、雫が真面目な面持ちになって近付いてきた。

「あのね、電話でも言ったけど……放課後はごめん。私は自分の苛立ちを天使にぶつけたかっただけだったのかもしれない」

「うん。そういう所は直した方が良いと思うよ」

 間髪入れず笑顔で言うと、雫は「あんたねえ!」と怒り顔になる。こっちの方が、見慣れていて彼女らしい。

「でも、おかげで僕が何をしたのかが理解できたんだ」

 天使は直斗に向き直り、気持ちを改めた。

「過去を抉るようなことをして、ごめんね。誰にでも触れられたくないことがある。間違ったことを言われた時以外でも、感情を揺さぶられることはあるって、分かったんだ」

 教室の中で何か諍いが起きた時、その原因は相手に対する偏見や『思い込み』、根拠の無い中傷であることが多かった。それが、天使の『思い込み』の原因だった。しかし、雫に真実を突き付けられたことで、認識の間違いに気が付いた。

「……僕は、気にしてないから……」

 直斗ははにかみ笑いを浮かべた。あれだけの経験を気にしないなんてことは無いだろう。彼が以前に話していた通り、自身の問題だと考えていても――

「ありがとう。でも、本当に僕が悪かったから」

「しょうがないなあ、もう許してあげるわよ!」

 そこで、雫が割り込んできた。鼻から盛大に息を吐いて胸を張る彼女を見て、天使と直斗は同時に吹き出す。

「何があったのか分かりませんが、良かったですね」

 馨が目を細めて微笑む。天使には見慣れた笑顔だったが、皆は驚いた顔をしていた。

「あの……ずっと無表情だったのは……」

「私の感情を隠す為に訓練したんです。そうじゃないと、ずっと顰め面や呆れ顔になってしまいます」

 一度、あの無表情を作ってから再度微笑む。澪央が心配そうに彼女に訊いた。

「……今日からどうするんですか? 住み込みだったと思うんですが、泊まる場所は……」

「ホテルにしようと思います。探せば一部屋くらいは空いているでしょうから」

「そうか。うちを提供するのもやぶさかではなかったが……」

 アレクシスが言い、慧が慌てた様子でそれを止める。

「待て、流石に図書館は……!」

「誰も図書館とは言ってないだろう。うちの店だ。二階は使っていないからな」

「あ、ああ、店か……本当にあるんだな……」

 二人のやり取りにきょとんとしていた馨が、アレクシスに向き直る。

「大変ありがたいですが……たまにお話に出てくる図書館とか『本』というのは何のことなんでしょう……?」

「それは、機会があればお話ししましょう」

 含みのある笑みと共に、アレクシスは先行して歩き出した。


     ****


『月と金木犀』の二階を一通り案内すると、アレクシスは久しぶりに控室で寝ると言って一階へ降りていった。馨と二人きりになった天使は、食卓に着いてコンビニおにぎりのパッケージを開けた。途中で買い足してもらっておにぎりは二個に。更に売れ残っていたコロッケが増えていた。

 向かいの席で、馨も自分の分のおにぎりのビニールを剥がしている。

「夕ご飯、終わったんじゃないの?」

「たまには一日四食でも良いじゃないですか」

 さらりと答える彼女に対して、嬉しさが湧き上がる。笑顔で「そうだね」と言って、おにぎりを食べる。

 今までで一番、美味しく感じた。


     □■□■


 聖夜は、真莉愛と天塚家に戻るとリビングに入った。テーブルの上には、開いたままのノートパソコンが置いてある。

「何か飲むか」

「じゃあ、赤ワインを」

 コートを脱いで畳まずにソファに置き、冷蔵庫に向かう。蓋を開けると、ラップの掛かった一人分の夕食が目に入った。

「…………」

 中身の残ったワインの瓶と夕食の皿を出してテーブルに置くと、使用済のグラスを引き上げて新しいグラスを二脚用意する。それを酒で満たして乾杯すると、一口飲んだ。

「新しい秘書と家政婦を探さないとな」

 フォークとナイフを使い、ミートローフを切り分けていく。他のメニューは野菜のグラッセにマッシュポテト、ナチュラルチーズが少々だ。

 静かな部屋で、本来食す者を失った食事を見ていると、何かが足りないような気になった。それを無視し、聖夜はミートローフを口に入れる。

「……ねえ、馨が言ってたことなんだけど……」

「俺が馨に付き合いを求めていた話か? お前も承知の上だっただろう」

 後ろめたさはあったが、事実でもある。そう言うしかない。『森さん』ではなく『馨』という呼称を使ったということは、真莉愛は何も取り繕わずに話すつもりなのだろう。

「そうじゃなくて……あの頃って私達、家の方針に対して一番反発してたじゃない?」

「そんな時もあったな。だが、諦め、受け入れていた。名のある家に生まれた宿命だ」

 そうだ。自分達はその宿命に従い、努力し、天塚家と彼女の家の理想を現実にしてきた。それが出来ない天使には心底失望したし、怒りを感じた。

「反発してたし、苦痛でもあった。成績だって常にトップじゃなかった。でも、あなたは、そのことを覚えていた? 無かったことにしていなかった?」

「俺は……」

 そんなことはないと答えようとしたが、言葉に出来なかった。

「少なくとも、私は忘れていたわ」

 真莉愛はチーズにマッシュポテトを載せて食べる。結婚前の彼女は、こうして複数の食材を合わせるのが好きだった。

「忘れて、私達は完璧だったと……天塚家の『決まり』は絶対なのだと……」

「何が言いたいんだ?」

 ワインを飲み干し、二杯目を注ぐ。それも半分程飲んだ時、彼とは違って殆ど酒を飲んでいない真莉愛は言う。

「私達は、自分が強いられてきたことを天使に強制してきただけじゃないかしら。まるで、親に復讐するように。そして……」

「俺達の苦痛を子にも実感させる為に、か」

 聖夜はソファから立ち上がり、窓際に立ってカーテンを開けた。整えられた日本庭園で、家族三人の象徴として誂えた洋風のイルミネーションが光っている。

 ふと、生まれたばかりの天使の可愛らしい顔を思い出す。俺は何を思ったか。あの時に俺は――

「今更気付いたところで、もう遅い」

 ――嬉しかった。

「俺達は天塚家を守ると、親の意志ではなく自分の意志で決めた。天使が戻ってきたら、また成績を求めるだろう」

「そうね……」

 隣に立った真莉愛が、寄り添ってくる。物心つく前から一緒だったのだ。お互いに情が無い相手ではない。

「私達は成績だけを求め、育児を放棄していた。馨と暮らした方が、天使は幸せになれるわ」


 ――キオク図書館のテーブルの上に、複数の『本』が置かれている。

 ビリジアン色と金色、鮮やかな赤の順で並んだ『本』の、両端の二冊の厚みが増している。開いてみれば、その内容に日々の経験と情緒が加わったことに気付いただろう。

 今はまだ誰も、それを知らない。

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