「存在しない……!? そんなことが……」
「有り得ないとは言えないだろう」
反論しかけたところで、慧は二の句を失った。そうだ。そもそも、目の前に居る彼の『本』が無いのだ。
「そうだな。俺は結局、アレクシスの『本』探しの役には立たなかった。アレクシスも……それに……」
神妙な顔をしている天使に目を遣る。彼の『本』も、ずっと存在していなかったのだ。
「理由は? 判ってるのか?」
アレクシスは、静かに首を振った。
「……いや、何も判らない。黙っていたことは悪かった。伝えるのに抵抗があったというのと、慧に余計な心配をさせたくなかったというのもある。美咲夫婦が亡くなったのは、十年以上前のことだ。蒸し返すのも気が引けた」
「美咲夫婦……?」
その呼び方に何か違和感を覚えたが、どこがという答えが出る前に、天使が切迫した様子で口を開く。
「神谷君のご両親の『本』が存在しないって、大変なことだよね? それに、もしかして、アレクシスさんも? 僕は前、『本』が無いなら人間じゃないんじゃないかなって答えたよね。まさか……」
不安そうに慧を見る天使に、アレクシスは息を一つ吐いてから、言った。
「君は人間だっただろう」
「そうだけど……」
天使と慧、澪央を順番に見回し、管理者は踵を返して店のドアに足を向けた。
「立ち話も何だからな。図書館へ行くか。天塚君は、戻らないと森さんが心配するな。後日でもいいが……」
「あ、じゃあ僕、アレクシスさんの別宅に泊まるって言ってくるよ」
「私も、もう少し遅くなるって連絡するわね」
澪央がメールを打ち始め、天使は店に入って数分後に外に出てくる。
「では、行こう」
アレクシスが『月と金木犀』のドアを開ける。その先に広がるキオク図書館を見て、慧は今までにない緊張を感じた。
□■□■
キオク図書館に入ったところで、澪央が深刻さを含んだ声で管理者に訊ねた。
「……ねえ、図書館に関わった人が亡くなったって、まさか……」
先を歩いていた慧が振り返ると、天使も不審気に立ち止まる。
「そういえば、その話をしそびれていたな」
「……私が何でこの話を知ってるかは気にならないのね……」
恨めし気に睨む澪央に、アレクシスは冷静且つ無味乾燥に対応する。
「天塚君と初めて話し合いの時間を持った時、全員の心理状態をチェックしていたからな。あの時は、君もそれを知っていただろう」
「あ……」
澪央の表情から怒りが消える。勢いを失った彼女に対して――加えて慧と天使に、彼は言った。
「図書館に入ったことがある死者は、慧の両親のことではない。そして、その人物の死因に、図書館自体が関係しているかどうかは判っていない。だが、個人的な事情なのではと思っている」
淡々と説明し、アレクシスはまた歩き出した。慧は彼のすぐ後ろを追っていく。
「この件で私が知っているのは別の人物であり、君達に心配させてしまった、栞高校の友人達が危険に晒されることはない。安心していい」
「……でも、それは推測なんでしょ? 本当に安心出来るの?」
「ああ、出来る」
即答したアレクシスが、小さな声で「出来るようにする」と口にするのを慧は聞き逃さなかった。彼はテーブルの上にあった聖夜と真莉愛の『本』を見下ろし、「天塚君」と天使を招く。
「厚みが増えている。読み直してみるといい」
「厚み……?」
恐る恐る近付いてきた天使が、立ったまま二冊の『本』に触れる。僅かに目を見開き、椅子に座ってビリジアン色の『本』を開く。アレクシスはベッドに腰を下ろして足を組んだ。
「かつて、私が『本』にはプライバシーに関する情報は書かれていないと言ったのは覚えているか」
「? あ、ああ……」
確かに、どこかで聞いた気がする。記憶内を検索していると、澪央が先に答えを出した。
「公園で、雫さんに……」
――そうだ。雫にキオク図書館の存在を明かした時、人のプライベートが全部読める本なんて、と彼女は抵抗を示した。それに対してのアレクシスの言葉だ。
「つまり、『本』に記述される内容は個人が開示しても良い範囲に限られる……幻影を形作れる『本』の意志が内容を決められる。他人に読ませたくないプライバシーだと、もしくは、自分の歴史から消してしまいたいと思った出来事はカットされる」
アレクシスは一度言葉を切り、「……と思われる」と付け足した。
「何だ、推測なのか?」
真剣に聞いていた分、気が抜けてしまう。
「事実から導いた、極めて確実性の高い推測だ。天塚君の両親の『本』は、大量の追記により分厚くなった。彼等の心境が変わったからだろう。そして、天塚君自身の『本』が無かった理由についてだが……」
あの偽商談の日まで、天使の人生は両親のものだった。それが彼自身のものになったことで、『本』として独立した。本人の幻影曰く、同様の理由で存在しない『本』は他にもあるということだった。
「個人の『本』が無いのは珍しくないということ? それなら……」
澪央がこちらを向くが、慧はゆっくりと首を振るしか出来ない。仏壇に置いてある二枚の遺影を思い出し、次に思い浮かんだのはアルバムに保存されている子供の頃の写真の数々だった。そこに残っている両親の笑顔は――
「父さんも母さんも、誰かに決められた人生を送っているようには見えない」
「……?」
過去形ではなかったからか、澪央は怪訝そうにしてから、申し訳なさそうに俯いた。
「……そう、そうよね。知りもしないのにご両親に対して失礼よね。ごめんなさい。それに、同じような境遇の人がこんな間近に何人も集まるわけないわよね……」
「可能性はゼロではないが……慧、祖父母の名は分からないのか? 君の『本』には書かれていなかったが」
「いや……会ったこともないし、聞いたこともない」
両親の葬儀にも来ていなかった。亡くなっていたのだろうとは思うが、もしかしたら縁を切っていたのかもしれない。
アレクシスは溜息を吐き、分かりやすく落胆を露わにした。
「……そうか。まあ『本』が無い条件が一つとは限らない。引き続き手掛かりを探していくしかない」
「あのさ……」
そこで、聖夜と真莉愛の『本』を読んでいた天使が話に入ってきた。どこか、すっきりとした顔をしている。
「アレクシスさんは、自分の『本』が無いのと神谷君のご両親の『本』が無いのは同じ理由だと思ってるの?」
「……そうであってもそうでなくても、分かりそうな所から解明していくしかないと思っている」
「ふぅん……」
真面目な表情で答える管理者を、天使はなぞなぞを前にしたような顔をしてからにこりと笑った。
「じゃあ、僕も三人の『本』を探すのに協力するよ。良いよね?」