一瞬だけアレンシールから飛び出した日本語と、異世界の国の名前だとか神の名前だとか、そんなのこちらの世界の人間にとってしてみれば怖いというか異質なものでしかなかったのにうっかりしてしまった。
つぅか、この本の中に「邪神の名前が書いてあるのさ!」とか言ったらそれこそ怖がられるだけだろうに、本当にやらかした。
リリとジョンとフロイトはなぜか身を寄せ合うようにしてビビってるし、カイウス王子の臣下たちはザワザワと顔を寄せ合って何かを話している。
これは、下手なことを言ったらパニックになりかねないぞ。
「この本の中に書かれている事です、王子。ざっとしか見ていないのでわかりませんが、恐らくは重要そうな名前が何度も書かれておりまして」
「そ、そうなのか?」
にっこりと、アレンシールと同じように笑顔を浮かべながら適当な事を言ってみる。
実際にどのくらいクトゥルフという言葉が出てきているかは勿論知らないが、「オレたちだけがクトゥルフという神を知っていた」というよりも、「ちらっと見ただけでも引っかかるくらいには沢山その単語が本に書かれている」という事にしたほうがまだ安全、なはず。多分。
クトゥルフ。英語で書くならCthulhu。
勿論スペルはこの世界のものとはまるで違うから、王子たちがこの本を見たとしても読む事は出来ないだろうが、英語に親しんでいるオレやアレンシールだってパッと見でその単語を見つける事は難しい。
これが電子書籍とかだったら検索してそこだけ色をつけて……とか出来るんだろうが、流石に本に直接ペンを入れる度胸はオレにはまだない。参考書とかならともかく、これはちゃんとした本なのだ。
「エリアスティール。お前はその言語が読めるのか」
「はい。えぇと、古の【魔女】の言語だと思われますわ」
「えっ、わたしも読めるんですかぁ?」
「リリさんにはまだお教えしていないのですけれど、わたくしならばギリ読めます!」
あっぶねあっぶね。さっきからなんでこんな綱渡りみたいな言い訳を重ねているんだ。
アレンシールは真顔で本に目を落としたまま顔をあげないし、これじゃあ折角オレが
すでにジョンはあからさまにこっちを怪しんでいる顔をしているし、このまま誤魔化し続けるのには限界がありそうな、気が、しちゃうんだが……
そわそわしながらアレンシールの言葉を待っていると、ようやくオレの視線に気付いたアレンシールはにっこり笑うと、
「カイウス王子。この本は、エリスの言う通り古代の【魔女】の言語で書かれているようです」
「お前も読めるのか? アレンシール?」
「以前少し、エリスに言語を教わった事が。その頃はエリスが【魔女】である事を他に知る者も居りませんでしたので、誰にも言えませんでしたが」
「そ、そそそうなのです!」
流石、ホラ吹きレベルは妹より兄の方が上だった。
しれっと、本当にしれっと自分が【魔女】の言語を読める事をアピールした上でこっちも持ち上げてくるんだから、アレンシールは絶対これ、日本でもやり手だったに違いない。
イケメン怖い。何度思ったかわからないことを、また思う。
……それにしても、完全にスルーしていたけれどオレが【魔女】である事を、カイウス王子はいつ知ったんだろうか。
「……あの、カイウス殿下はわたくしが【魔女】であると聞いても驚かれませんでしたよね……というか、誰も何もおっしゃいませんでしたね?」
本当に今更だが、きょろりと周囲の家臣団を見つつそんな事を思ってしまう。
オレの言葉にリリとフロイトが反射的にか手を握り合い、ジョンも僅かに身体を緊張させる。
すっかり、もう完全にすっかり場の空気に流されてしまっていたけれど、ノクト侯爵もジークレインも、オレが魔術を使ったりするのを見ても驚きすらしていなかった。
ジョンだってオレが【魔女】だと知った時にはびっくりしていたのに……そもそもこの世界では【魔女】は唾棄すべき存在であったはずなのに、あまりにも当たり前にオレたちが【魔女】であるのをあっさり受け入れている、というか、なんかうまく言葉に出来ないけれど驚きもしないせいで今まで違和感になっていなかった。
この異本が向こうの世界の言語であるという事でようやく、自分が【魔女】である事とか、他の人はそうじゃない事とかが頭の中に戻ってきた感じがする。
なんで今まで気付かなかったのか分からないくらいだ。
今更な現実に、何だか失った腕から背筋までにジンとした痛みが流れる。
「まぁそれは……アレンシールやノクト侯爵から聞いていたからな」
「は……?」
「ノクト侯爵は最初から気付いていたよ、エリアスティール。私とお前の縁談が上がった時に王家にも報告がされていた」
「え、縁談?」
「そうだったのですか!」
驚いてアレンシールを見ると、アレンシールも目を丸くしてちょっとびっくりした顔をしている。
リリとジョンは「縁談」という言葉にびっくりしたようだったが、アレンシールはそうじゃない。それはそうだろう、オレもアレンシールも、今まで「エリアスティールは魔女である」という事実を知っているのは自分たちだけだと思っていた。
ジークレインも驚いている様子はないし、周囲の家臣たちのなかでも驚いている者と驚いていない者は半々だ。王子に近しい者ほど驚いていない、ような気がする。
なんだそれ、知らなかったぞ。
「アレンシールが病に倒れたばかりの頃だったかな。ノクト侯爵が、自分の娘が魔女かもしれないと国王陛下に報告をしているのを、一緒に聞いたんだ」
「なぜ……」
「あなたが、一生懸命練習をしていたからよ、エリス」
オレとアレンシールが何も言えないでいると、厳かにドアが開く音がして静かな、穏やかな声が緊迫した室内に入り込んできた。
お母様。アレンシールが言い、驚いたジークレインが慌てて侍女と共にやってきたノクト侯爵夫人を迎えに行く。
それを見てオレは、何も言えなかった。
ノクト侯爵夫人。つい半日前に夫を失ったノクト家の女主人。アレンシールにそっくりで、儚くも美しい女性。
オレは何も言えなくて、ノクト侯爵夫人を真正面から見ている事も出来なくて、思わず頭を下げるように顔を伏せてしまう。
ノクト侯爵だけじゃない。オレは彼女から末の娘も奪っているようなものだから、改めて顔を合わせるのがとても躊躇われた。ここに来る前に、ノクト侯爵と一緒だった時には何の躊躇もなかったのに、ノクト侯爵を喪った今となっては彼女を真っ直ぐ見るのが
エリスの命だけじゃなく、肉体だって損なった。オレは「腕の一本くらい」なんて思ってしまっているけれど、この世界の女性が片腕となったらきっと、【魔女】というだけじゃなく縁談に大きな影響を与えるのは間違いない。
オレが居なくなってエリスの意識が戻ってきたなら、エリスはきっとびっくりするんじゃないだろうか?
今更なのは分かっているけれど、エリスを産んだ母親という存在が目の前に現れると途端に怖くなってしまった。
母親という存在が、オレにはよくわからない。元の世界でも、ほとんど関わったことがない。
だからオレは彼女に、何と言っていいのか分からない。本当に、分からない。
【エリアスティール】の母親を、どんな目で見ればいいのかが、わからない。
「貴方は、アレンを救うために泣きながら魔術の練習をしていたのよ。覚えていない?」
そんなオレの頬を、ノクト侯爵夫人はそっと両手で包みこんで、優しく顔を上げさせた。思わず腕を隠そうと動く身体は、ほっそりしているのに有無を言わさぬその手だけで封じられて、何も言う事が出来ず失った腕を隠す事も出来ないままに正面から夫人を見るしかない。
それだけ。
たったそれだけだ。
なのに、鼻がツンとしてくるのは、一体なぜなんだろう。
「わたくしはいつも貴方を見ていたわ、エリアスティール」