心臓が跳ねたような、気がした。
悲しくならないのは侯爵からの贈り物、だなんて、そんなの、そんな風に考えた事なんて、今まで一度もなかったから、だ。
オレは今まで、親に沢山愛されてきた人は親を喪った時に泣くものだと思っていた。オレの家族はともかく、ニュースだとか親戚の葬式だとかで見る光景は、大体にしてそんな感じだったからだ。
でも、泣かない事が贈り物だなんて。
そんなのは、そんなの、ありなのか?
困惑しているオレを見てジョンはティーカップを置くと、
「侯爵様が望んでるのはお前たちの笑顔だよ、とか、そういうのは俺には言えないけどな……でも、お前が泣かないのは、そうなるために準備されたものなのかも、とは思うよ」
「準備……」
「……もしもここで泣き崩れていたら、お前は本来の力を発揮できないかもしれない。それは、ノクト家の者として恥だろう?」
まぁ俺の父親は、俺が泣いて悲しんだら笑い転げると思うけどね、なんて、ジョンはなんでもない事のように言う。
ノクト侯爵は、エリスが【魔女】である事を知っていた。知った上で娘として愛し、大事に大事に育ててくれて……でもオレは、エリスではないから彼の死を悲しめていない。
でもそれが、オレが悲しみで潰れないためのものであるのなら……
かつてアレンシールとリリを喪い、何度もループする間に何人もの死を見てきたエリスが行った「準備」なのだとしたら、それは納得というか……受け入れるしかない、気がする。
だって、そもそもエリスがオレと入れ替わるのは「エリスの死の7日前」じゃなくても良かったはずじゃないか。
オレは死の瞬間で魂がどっかに飛んでいったのかもしれないけれど、「エリアスティール」には何の問題もない一日だったはず。そんな日になんでオレは入れ替わったんだろうかとは、いつも不思議ではあった。
でもそれが、エリスの用意した「準備期間」であって、この世界の人間に深く関わらないようにするための最低限の時間であったなら、それは大成功だったんじゃないかって、思ってしまう。
エリアスティールは、そういう事も考えてあの時間にオレと入れ替わったのか?
「……実はオレ、生身はエリスじゃないんだけど……」
「うん……………………うん?」
「ノクト侯爵と深く関われなかったのは、オレがエリスと入れ替わってから逃げるまで7日しかなかったからで……でも、家に居る間は侯爵はちゃんとオレに優しくしてくれたなって」
「ちょ、まっ……うんっ」
「辺境伯夫妻はあの時初めて顔を合わせたからまだギリだけど、もし今回の事でもうちょっと長く関わってた人が死んでたら、流石に我慢は出来なかったかもしれないな……これも薄情なのかな。人との付き合いって、日数で決まるものなのかな」
「うん……うーーーーん……」
ぽろっと溢れてしまったオレの言葉に、ジョンはカップを口に当てながら最早「うん」しか言えなくなっている。
それでもきちんと教育されている所作は綺麗で、あぁこいつ本当に皇子様なんだなって今更ながらに思うし、こんな事をぽろりしている今はなんというか、本当に疲れているのかもしれない。
あぁそうだ。オレは悲しいんじゃないんだ。
疲れる。とにかく、今は凄く疲れていて、なんか全部放り出して1時間くらいあっつーい風呂に入りたい。まぁこの世界では一人用の湯船っていうものは一般的じゃないみたいだから、あっつーーーい湯船なんてわざわざ用意してもらわないと入れないんだろうけども。
ジョンの方は、今オレがポロリしてしまった言葉を飲み込むのに必死なのか、物凄くちびちびと紅茶を飲んでいる。なんだか、出そうになる
「うーん……付き合いの長さで情の深さが変わる、っていうのは……まぁあるだろうとは、思うけど。だからって、その人の事を好きにならないから薄情っていうのも、違う気がする」
「ほーん?」
「だって、そうなると俺もここで死んだとしてもお前らに泣いてもらえないって事になる」
ぽとん、と、今度はジョンがあまりにも悲しい言葉を落とした。
でも、確かにだ。
ピースリッジで出会ってから、ジョンと一緒に旅をした時間は短い。ピースリッジからフローラまではほぼ【転移】だったし、フローラについてからもすぐに別れ別れになってしまって、再会までもちょっと時間が必要だった。
そんなジョンが死んだ時、オレがどういう反応をするかって考えたら、それは、そりゃあ……怒る、と、思う。誰がどう殺すのか、ジョンがどうやって死ぬのか、その違いはあるかもしれないけれど、もし誰かがジョンを殺したとしたらオレは地の果てまで追いかけてそいつを殺すと思う。
ノクト侯爵にはそこまで思えなかったのに、それは確実だ。
じゃあ、でも、その違いはなんでなんだろう。オレは、そんなにノクト侯爵や辺境伯夫妻が嫌いだったんだろうか?
まさか、そんなはずがない。ノクト侯爵の優しさも、辺境伯夫妻の人柄も、ほんの一日一緒に居るだけでもハッキリと分かるくらいのものでとても好ましかったのだから。
それならその差は何だ? と言われても、いまいち分からない。
「話をしよう、エリス。ノクト侯爵と辺境伯夫妻の話を。クトゥルフを封じたら、きっと」
今度はオレの手から、コロンとペンが落ちた。オレやアレンシールに馴染みのあるボールペンやシャープペンとはまるで違う、大きな鳥の尾羽根から作られた豪華な羽根ペンは、インクの尾を引いてメモ用紙の上を転がった。
話をしよう。そうだ、それがいい。
この戦いが終わったら、この戦いのために散った人の話をする。それは、個人の葬式や告別式でも当たり前に行われている事だというのになんだか凄く特別なことのように感じられて、ちょっと胸の奥がグッときた。
「沢山沢山、話をしよう。アレンにも話を聞いて、リリの家族の話も聞こう」
「……あぁ、そうだ。そうだな。お前の家族の話も聞かなくちゃ」
「うっ、そこにも行くのか?」
「それはそうだよ。そうしたら……」
中身のオレの話も、沢山沢山聞いてくれ。
ジョンは、オレの言葉を一体どう受け取ったのだろうか。当たり前のように微笑んで、当たり前のように頷いたからその辺のことはよく分からない。
エリスの中身が「オレ」という事は、多分受け入れてくれたというか納得はしている、のかもしれないとは思う。だってオレはジョンの前では「
初対面から「変な女」呼ばわりしていたジョンにとっては、足りない情報のピースを一つ投げられたようなものかもしれないし、わけがわからない所にさらにわけがわからないものを投げられたというだけのことかもしれない。
でもオレは、ずっと思っていたんだ。
ジョンになら、バラしてもきっとアレンシールは怒りはしないだろう、と。
本当はリリとかにもバラした方がスムーズなのかもしれないけれど、正直オレはリリの「頼りになる先輩お嬢様」の立場を揺るがしたくなかった。
中身が異性となったら流石にこちらに対する対応も変わってくるだろうし、そういうのはなんか、あんまり、リリとは距離を作りたくないというか。うまく言えないが、今までの距離を壊したくなくって、リリに言う判断はつけられなかった。
それならジョンは距離感ぶっ壊していいのかって言われると、それも分からないんだけど。
「なぁ、お前の名前、なんつーんだ?」
「あー……ナオ」
「ナオか。じゃあこの本の中身は、ナオ
口走ったのは自分なのにどうにもモヤモヤとしたものを抱えていると、不意にそんな事をジョンが言ったのでオレは仰け反っていた身体を真っ直ぐに直した。
ナオだから読める内容。確かに、それはそうだ。英語だから、英語を知っているオレとアレンシールしか読めない。
じゃあ……なんで、この世界の人間は……あのバルハム大司教は、読めないはずのこの本でどうやってこれがルルイェの本だと知り、クトゥルフを信奉したんだ?
額から、つぅと汗が滲んで流れた。