夜は寒い。
硬い床に今日も倒れるようにして寝ると、冷たくて思わず身震いがした。
布団なんてものはない。あるにはあるけど出ずっぱりだ。執筆の邪魔だし、出すのが面倒なのでないものだと思っている。
執筆、執筆かぁ。
なんで、俺、書いてんだろ。
*
気が付くと、廊下にいた。
何の変哲もない、学校の校舎同士を結ぶ渡り廊下だ。
なぜかそこに、俺はジャンパースカートの制服姿でたたずんでいた。
近くから電車の音がした。
窓から外をのぞくと、誰もいない。電車はもう通り過ぎた後だったようで、ごうごうとどこか不気味に残響するのみ。
ただの呼吸音すら反響する誰もいない中学校で、俺は身震いした。
何でここにいるんだろう。わからないまま、ただ足を進める。
足元がすーすーして落ち着かない。なんだか変だ。下着も薄いし胸の締め付け方もさらしのそれじゃないので、いつにもまして女装している感が強い。
……女装も何も、そもそも今は女子じゃないか。何を考えてるんだ、俺は。
渡り廊下から校舎内に入る。幸い夜目は効くので、どこへ行く当てもなくただ淡々と歩みを進める。
突如、足が止まった。
目の前に、男がいた。
男には顔がなかった。
笑っていた。
顔はどうやっても失認する。けれど、笑っていることはなんとなくわかった。
たいそうな大笑いだった。
「……何をそんなに笑ってるの」
俺の口から洩れた少し高い声は、少しの残響を響かせながら彼の耳に入る。
「ひひひひひ」
彼は笑いながら口にした。
「お前だよ」
別に怖くはなかった。
でも、前には進めなかった。
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
「お前だよ」
響く声。
「わたしの、なんなの」
尋ねると、彼は言う。
「そのドアを開けろよ」
横にあった引き戸を開けた。理科室の入り口だった。
中に入ると、そこは病室だった。
包帯でぐるぐる巻きになった――「俺」がいた。
男の姿の「俺」がいた。
「俺」は何かを見ていた。ジィ――と、映写機で映された何かを。
ショートフィルムの内容は、見なくても分かった。
俺のみじめな人生と、未来だ。
奉景は腕が衰えた、と聞いた。
間違いなく、調子に乗った俺のせいだ。
凡人の俺が天才の人生を乗っ取ろうなど、無理な話だったのだ。
人生なんてあきらめてしまえば楽だったのに。
未来はとうにわかりきっていた。現実なんてどうせこんなもんなのだ。
淡々とした暗い現実がこの先続くのならば、もう、いっそ――
*
うっすらと光が差した。
ああ、もう朝か。
……なんで、書いてんだろ。
重たい体を立ち上げ、消えたろうそくの灯をともそうとする。
ギィ、と木の床がきしんだ。
「だれか居るのか」
垣根越しに声が聞こえた。
「……なんでもねぇよ」
「奉景か」
「なんでわかった。……お前さんが、皇帝だからか」
声の主は、見ずともわかる。忘れるはずもなかった。
垣根越しに煙が立ち上った。
「タバコ、吸うんだ」
「香りが好きで、な。わざわざ隣国から仕入れた上物だ」
「……あっそ」
何の気もなく自慢する皇帝。さすが、何度も離婚した男。女性に嫌われるムーブを自然にかましよる。
特に縁側などはないけれど、ガラスも特にない窓。そこから外の小さな庭と垣根を隔てて、彼がいる。
その窓にゆったりともたれて外を見ているだけでどこかほっとした気持ちになる。
理由なんて、あってたまるか。もし、つけるとするならば――
「なんで、こんな時間に起きているのだ」
「お前がいるから!」
問いかけに冗談めかして答えると、彼は笑いながら「皇帝に向かってお前呼ばわりとは。公の場だったら処刑だぞ」とシャレにならないことを言ってくる。
「なら今やっちまうか?」
「冗句に決まっているだろう。『俺』だって、公私の区別くらいつくさ」
「そ。ならいいけど」
終始穏やかな口調。どこか彼に似つかわしくない口調。――しかしきっと、これがあの男の本性なのだと、そう思わされてしまうほどに自然体で。
それにほだされるようにして、俺は自然と口元がほころんでいた。
息をついた。紫煙が夜空に上っていく中。
「おれさ」
ほころんだ口から
「書くことが怖いんだ」
弱音が零れだした。
「おれはさ、天才でも何でもないんだよ」
「凡人ごときが、変にもてはやされて」
「だれでも書けるようなものを、ひけらかして大げさに売ってる」
「滑稽だろ?」
「俺だってさ、凡人なりには頑張ってんだ」
「でも、逆立ちしたって、天才たちにはかないやしない」
「どれだけ書いても、批判しかされない」
「そんな気がするんだ。無様だろ?」
「……笑えよ」
しかし、彼は笑わなかった。
笑わず、ただ一言
「そうか」
それだけ口にした。
「どうした、笑えよ。……嗤ってくれなきゃ、俺はもう」
自分を騙しきれやしないよ。
言おうとして、けれど。
「笑わぬさ」
そんな一言に、遮られた。
「我が国は、芸術によって成り立っている。芸術に生かされている。――芸術に生かされる者が、どうしてその命綱を笑えると言うのだ」
「命綱なんて、そんな大層なものじゃないよ」
「いいや、我にとっては――『俺』にとっては、すべてが尊いのだ」
「……それは」
「たとえ廃妃でなくても、たとえそれが覚えたての小さなものであったとしても――そのすべてが、愛おしい」
「…………」
「その小さな努力の一端でさえ、美しい。綺麗事にしか聞こえないだろうが、『俺』はそういう人間なのだ。――我は、そういう
息をついた。
「語りすぎてしまった。……あまり、夜更かしはするものではないな」
彼はわざとらしく咳払いをして。
「では、また会おう。今度は――」
別れようとする彼に「待って」なんて口にしてみたりして。
「……どうした、我が愛しき――」
「名前で呼んでよ」
「…………奉景よ、どうした」
少しうつむいて、白い息を吐きながら、俺は告げた。
「あり、がと」
「……新作も、期待している」
彼はもう、皇帝に戻っていた。
なにラブコメヒロインみたいなことしてんだよ、俺。
腕を伸ばして、背筋を伸ばして、あくびを一つ。
「……疲れた」
寝るか。もう、今日はあんな悪夢見ない……と思うし。
そんなことを思いながら、俺は大きく息をついて、床に伏したのだった。