匂いがした。
煙のような、気持ちの悪い匂いだ。
「ん……んぅ……」
思わず目を開けた。
「知らない、天井だ……」
呟いた言葉。少し低い女声。
白い石膏のようなものが張られた天井。
「おはよう、ハルカゲおにい、ちゃ……ん?」
鈴の鳴るような少女の声。その声のした方を見る。
十歳くらいの女の子が、私を見ていた。私を、指さしていた。
「ねぇ、にぃ。わたしを……おぼえてる?」
少女の言葉に。
「失礼、ですが……」
私は首をかしげた。
「……どなたですか?」
少女は目を見開いた。
*
「……非科学的な現象だと結論づけなければいかないようです」
白衣を着た老人が言う。
どうやら、私は異常事態に巻き込まれているらしい、ということはわかった。
私の体は元々男性のそれだったと、目の前の「ダイガクキョウジュ」を名乗る男は言った。
何度も、様々な検査を受けた。結果としてわかったことは、自分は完全に女性の体になってしまっていたことくらいだった。
「よぉ、ハルカゲ。マジで女になってら」
「おい
「……友達のこと名字で呼ぶ癖、どうにかした方が良いぜ? マコト」
すっかり慣れた病室。私のことを見舞いに来た二人の男性。
片方は長身で金色の短髪、細い体つきだがしっかりと筋肉の付いたスポーツ青年といった風。もう片方は眼鏡に痩せこけた体躯、淡い黒の髪は男性にしては長め。
対照的な二人だが、その互いへの態度から気の置けない仲であることがうかがえる。
「えーっと……どなたでしたっけ」
遠慮しがちに告げると。
「あー……そいえば、記憶喪失になってたんだっけ」
忘れていたかのように、彼らは自己紹介をし始める。
「俺は御門
「……僕は
右手を差し出してきたマコト。
「おいおい、俺たちは『はじめまして』じゃないだろ?」
そう言ってくるヨータに対して、マコトは「僕たちにとってはね。けど彼女にとっては、違うだろう?」と諭す。
「そういうもんか?」
「そういうものさ。……すまない、見苦しいところを見せて」
「いや、構わないです。仲、よろしいんですね」
「……幼なじみ、だったから。あなた……記憶をなくす前の、男だったあなたとも」
目を伏せたマコト。そんな彼の様子を一瞥しつつ、ヨータは言った。
「よーし! 快気祝いだ! ピザでも食おうぜ!」
「ぴ、ざ?」
きょとんとする私。
「病院に宅配なんて頼めるか?」「近くにピザ屋があるから、買ってこようぜ!」「……荷物持ちは手伝うよ」と盛り上がる二人。
そこでふと、病室を覗く影に気づいた。
小さな女の子。年齢は十歳程度だろうか。
……初めてここで目覚めた日、見かけた女の子だ。
小さく手招きをすると、ささっと隠れてしまった。
「……あー、ルナちゃんか」
マコトが口にした。
「ルナちゃん……あの子のことですか?」尋ねると、彼は「そうだよ」と続ける。
「来てるのか。アイツ、あからさまにハルカゲのこと好きだったもんなー」
「落ち着け、御門」
「おーいルナ。愛しのハルカゲ兄に会えるぞー」
ヨータが呼ぶと、その少女は再びそっと病室を覗き。
「ヨー兄のばーか!」
べっと舌を出し、さっと隠れた。たたたっと聞こえたので多分走って逃げたのだろう。
「なんだとこのやろう!」
走って追いかけようとするヨータ。マコトは大きなため息を吐いて。
「落ち着けバカっ」
ごつんとげんこつを食らわしたのだった。
ピザとやらを買いに行った二人。静かになった病室にて、思いふけった。
――私は知っている。
彼らの知っている「ハルカゲ」はもう、この世界には居ないということを。
「――元気にしてるかな。
「いま、誰の名前を言ったの?」
声がした。
声がした方を見た。
少女がいた。十歳くらいの――「ルナちゃん、だっけ」
「あなた、ハル兄じゃないですよね」「え、私は」「『私』っていうのもおかしいです」「なんで」「ハル兄はそんな言葉遣いしない、です」「……私、記憶を失って、女の子で……ほぼ別人で」「言い訳。……ほぼじゃない、あなたは別人です」
睨み付けて、糾弾する少女。私はそれに言い返すように、叫んだ。
「なんで……なんでわかるの」
「記憶を失ったとして……彼は、わたしたちを『心配させない』。させようとしない。させるはずが、ない、です」
そんな人間居るはずがない。けれど、目の前の少女の目はまっすぐ私を見つめていた。
「すぐに跳ね起きて、病院飛び出して、俺は元気だーって叫んだりして。……嘘吐いてでも。そんな、ばかなひとなんです」
泣きそうになりながら、もういない『彼』の面影を探すように、見つめていた。
「きっと、その性質は変わらない。記憶を失ったとしても。だから」
そして。
「あなたは名実ともに……あの人とは、別人です。……あなたは、だれですか」
私を見つめながら、問いかけた。
問い詰められた私は、目を閉じ、大きく息を吸って、吐いて。
「わかった。……みんなには、まだ話さないで頂戴ね」
自分の正体を告げた。
「私は、『