『あなたは、もう元の世界には戻れない』
そう告げられた日から、筆を執れていない。
……なんでだ。書かないといけないのに。
そこで俺は気づいてしまった。
「…………なんで書いているんだっけ」
俺がものを書いていたのは、ひとえに元の世界に帰るためで。
皇妃選抜もそのために参加を決意したようなもので。
――つまり、元の世界に帰るという理由がなくなれば、書く理由もなくなるわけで。
「ああ、もう」
考えることが嫌になって、思考を切り替えようとした。
筆を手に取って、プロットを作ろうとする。
けど。
「動けよ、手ッ!」
怒鳴っても、手は動いてくれない。
インクが垂れた跡が、紙にぽつぽつと落ちていくばかりで。
形を成さないぐちゃぐちゃの思考が、滴になって墨を溶かしていく。
いつの間にか、過呼吸になっていた。
震えるばかりで動かない手。今日も何も出来ずに日が暮れていく。
また、筆を執れずに終わる。
終わりのない焦燥感が、続く――。
*
「――
皇帝は怒りに震えていた。
――宮廷に出入りする人間は、大方把握している。
ことを起こしたのは、吉谷里が雇い入れた給仕だったと聞く。
それだけだったならまだ偶然で済むかもしれないが――吉谷里には『前科』がある。
「紙の事件の時、あからさまに不自然な反応をしていたことを、気づかないわけがなかろう」
あの事件は、明らかに吉谷里が起こした騒動であった。
「大方、廃妃が目障りだったのだろう。だが――」
今回は、やりすぎだ。
皇帝は怒っていた。
「離婚したとはいえ、愛が消えたわけでもないのだ。――我を舐め腐るでないわ」
低い声でうなる皇帝。
――彼は、まだ何も知りやしないのだ。
若き王は、自らの無知すら知らぬままに、ただ義憤に燃える。
*
「愚かですねェ。――若さというものは」
男が笑った。
暗い部屋の中。
ひげ面の男が、笑っていた。
「ねェ、評議会の皆さン」
円卓で、笑っていた。
十二人の男が、笑っていた。
「一番の新参のチミが言うかね、斑鳩くゥん?」
「ナハハ、失敬、野迫川殿」
ひげ面の男――もっとも、この場の男たちの大半は立派に白い髭を生やした者ばかりだったが、その中でも唯一まだ髭が黒い男、斑鳩。
彼は自分に小言を言ってきた老人に対して軽く謝る。その老人――野迫川は「ンン、まあ良いでしょう。議題はこのことではアーリマセン」と唾を飛ばす。
「さあーて、本日の議題は――」
円卓の一番偉そうな席に座っている男はにたりと笑った。
「――愚かな皇帝の座を、賢い我々がどういただくかと言うことじゃ」
*
「クソ! クソ、クソ、クソッ! 評議会の老人めッ! やりおったな……俺の計画を乗っ取りよってッ!」
吉谷里は怒りに叫んでいた。
地下牢の中。声は反響し、しかし罪人たちの許しを請う叫び声にかき消される。
――テロリズムを目論んでいたことに間違いは無かった。
皇帝の暗殺。そして――貴族たちによる「評議会」の壊滅。
斑鳩はそのための腹心、だった。
「あの野郎、裏切りやがって! ――評議会の手のものだったとは」
こうなった経緯を思い出す。
*
――昨日のことだ。
「…………どういうことだ」
眉をひそめた斑鳩の様子を、吉谷里は隣で本を読みながら窺う。
待てど暮らせど、廃妃の訃報が届かない。それどころか、ピンピンしている。
いつものアジトにて。給仕の女を呼び出した斑鳩。
――彼女は廃妃たちに毒を盛った張本人であった。
「すみません。――きちんと規定量、入れたはずなのですが……」
彼女に非はないはずだった。
むしろ、死んでくれなくて良かった。彼女たちが生きていようが死んでいようが、計画に支障は無いが――無駄に人が死んで怪しまれるのも怖い。そう結論づけていた。
胸をなで下ろしていた吉谷里。
――しかし、次の斑鳩の言葉に、彼は目を疑った。
「であれば、給仕よ。――ここでその毒を致死量飲んで、その効力を証明せよ」
空気が凍り付いた。
「……ま、待ってください! それは――」
「効かぬのであれば、問題はあるまい」
冷酷に告げる斑鳩。
「おい、待て斑鳩。それは――」
吉谷里は止めようとするが。
「――さあ、早く」
男は聞かなかった。
「おい、給仕。飲まなくても――」
「おやぁ? ――リーダー、毒の効き目を見たくはないのですかい?」
「人の死に目を見る趣味はない! さっさとやめさせろ。さもなくば――」
「さもなくば、なんだ? 吉谷里クン」
その言葉から発せられるプレッシャーに、吉谷里は息を呑んだ。
「――さあ、早く毒を飲め、給仕の女」
カタカタと固まって動かなくなっていた給仕。
「さあ、早く!」
斑鳩は怒鳴った。――そのプレッシャーに耐えかねたのだろう。
給仕は部屋の隅に積んであった毒の薬包を掴んで、口の中に放り入れた。
そして逃げようとする女。しかし、まもなくして顔色が青くなって――。
「…………毒の効き目は確かなようだ。よかったな、吉谷里」
倒れた女。息のないことを確かめた斑鳩に、吉谷里は戦慄する。
「……貴様、何者だ」
「何者、とは――」
言うが早いか斑鳩は、次の言葉を紡ごうとした吉谷里を――殴り飛ばした。
「――目上の者に対して、失礼じゃないか」
吉谷里は悟った。
皇帝の側近よりも位が高いのは、皇帝と――評議会の議員。
「反逆罪だ。――誠に残念だよ。吉谷里クン」
下卑たひげ面に、吉谷里は絶望した。
*
地下牢の中、吉谷里は思考する。
――この国は、腐っている。
評議会の連中は自分に都合の良い法律を作って、税金で贅沢に暮らしている。
おかげで国民の貧困化は加速し、今や住居地域はスラムも同然だ。
皇帝はそのことを知らない。評議会は皇帝に報告しないし、皇帝は現実から隔絶された宮廷しか見ることが出来ない。
この国に『真の平等』をもたらすには、評議会という癌の排除が必要だ。
国家制度の根本を破壊して、全てをやり直さなくてはならない。
だから彼は、皇帝を殺したかった。この国を、国民にとって住みよい国にするために。
いま彼は怒りに燃えていた。
だが、怒りだけでは何も出来やしない。
ただ、大きな舌打ちをして、夜明けがくるのを待つことしか出来なかった。
*
俺は――奉景は、憔悴しきっていた。
深夜。ぐちゃぐちゃになった紙を前にして、頭を抱える。
喉の奥から低い声が出る。
もうだめだ。書けない。
先が見えなくなっていた。
そこで、天恵が舞い降りた。
――そうだ。ここからいなくなれば、書かなくて済む。
笑い声が漏れ出た。
絶望に舞い降りた、一筋の光だった。
即ち、死という選択肢は。
「あは、あははは。はははっ」
脳内は既に、死と消滅という決定だけが支配していて。
俺は着の身着のまま駆けだした。
裸足のまま門を抜けて、街の中へ。
少しだけ、自由になった気がした。
さあ、どこで死のうか。
第二部・胎動編