——歩く。ふらふらと、ただ歩く。
手を引かれて、歩く。
街を。夜の中を。
どこをどう歩いたかなんて覚えてはいなかった。
ようやくたどり着いた場所は、この世界ではあまり見ないような建物だった。
「ついた! ここが私の家!」
あばら屋のような、掘っ立て小屋のような、まあまあ大きめの建物に、扉がいくつもついている。
軋む外階段を上がって、一番奥の扉を、彼女は開けた。
「ただいまー」
誰もいない狭い部屋に反響する声。どうやらここは、向こうの世界で言うアパートらしいということがわかった。
「ほら、ここに座って。——えーっと、何か食べるものあったかしら」
言いつつ、彼女は生活感のある——有り体に言ってしまえばほどほどに散らかった部屋の中を漁る。
俺はというと、言われたとおりに床に座って、ただぼうっと彼女を見る。
ここらじゃ少し珍しい——自分の身の回りにはまあまあいたが、街の中ではめったに見ることのない白っぽい金髪。それも地毛らしく、縮れたロングヘア。
見るからに西洋の人らしい彼女は、青い目をこちらに向けて。
「……あなたって美人さんだね」
唐突にそんなことを言った。
「でも、そんなに顔が曇ってたら折角のきれいな顔が台無しだわ」
わざとらしく明るい言葉に、さらに俯く俺。
けれど彼女はそんな俺を見て。
「……そうだっ」
一つ何かを思いついたようで、部屋の隅から何か、細長くて大きなものを持ってきた。
黒い革の用いられたそれを開けると、中から出てきたのは。
「……ギター」
口にすると、彼女は少しだけ目をしばたかせた後、「ザッツライッ」と言ってにっこり笑った。
それは、聞いたことのない音楽だった。
鼓膜に入ってくる六弦の響きは、不思議とどこか柔らかく、優しい印象を抱かせる。
弾き語り。彼女の透明感のある歌声と、調和するギター。
あまり長くないその一曲を聴き終えると、俺は自然に拍手していた。
「ありがと。……あまりうまくは出来てないけどね」
謙遜する彼女に、俺は首を横に、少しだけ振って。
「……すご、かった」
そう口にした。彼女はまたにっこり笑った。
「…………なんて呼べば良い?」
尋ねると彼女は。
「名乗るの忘れてたね。ごめんっ」
てへ、と舌を出してちゃらけた謝罪をして。
それから、名乗った。
「シレーヌ。……ただの、シレーヌ。あなたは?」
「……ハルカゲ」
咄嗟に名乗った偽名、もとい元の名前に。
「じゃあハルちゃんだねっ」
彼女――シレーヌは、愛称をつけた。
「ハルちゃんハルちゃん!」
「……なに?」
話しかけてくる彼女に、俺はにらむ。しかし、シレーヌはにっこりと笑って。
「あなたのこと、もっと聞かせてよ!」
そうせがんできた。
「……ごめん、話したくない」
告げると、彼女は「えー? なんで?」と聞いてくる。
話せない。話したらどうせ、笑われるだろうから。
口をつぐむ俺に、何かを察したような彼女。少しの沈黙の後に、彼女は。
「まあ、話したくないなら話さなくてもいいや」
あっけらかんと言い放つ。「え……」と戸惑う俺。
「話したくなったら話してくれると嬉しいな。……あなたのこと、もっと知りたいもん」
そう言って笑う彼女に、俺は少しだけ俯いた。
「照れてるの? かわいーっ」
「うっさい……」
目線をそらす俺の頬をうりうりと小突いてくるシレーヌ。
かわいいのはアンタの方だと伝えたら、きっと冗談だと思われるのだろう。
「あ、今度は少し笑った」
「……うっさい」
*
それから何日かが経った。
「ハルちゃんハルちゃん。調子はどう?」
そう尋ねられて、俺は真顔で目を伏せた。
「まずまず」
「そっか」
そんなやりとりが、朝の恒例になっていた。
俺はシレーヌの家、というか部屋でご厄介になることにした。
家事代行と自宅警備員という名目の引きこもりとして。
……後宮がどうなっているか、考えたくなかった。
けど、自分がいなくなったところでどうなるわけもない。
あの性悪の側近——吉谷里はきっと喜ぶのだろうけど、それ以上に良いことも悪いことも起こらないだろう。
起きがけにささっと作った朝食。味噌汁を飲んで、彼女はほうっと息を吐いた。
「ハルちゃんって料理上手だね。この……ミソスープ? どこの料理かわかんないけど、おいしい!」
「それはよかった」
極東の島国に伝わる伝統的な料理、と言ってもたぶんあまり伝わらないだろうか。というかそもそもこの世界にも日本はあるのだろうか。
いや、たぶんあるだろう。中国っぽい国やロシアっぽい国が存在するらしいし。「日本」という名前かどうかはさておいて。
そんなくだらないことを考えていたら、彼女は「そういえばさー」と何かの話を切り出す。
「宮廷にいる、廃妃様が逃げちゃったらしいね」
「!?」
俺はびくりと背筋を震わせた。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない。そうなんだ」
なるべく冷静を装って、話を聞く俺。
「ならいいや。でも、街の中は物騒だし、廃妃様が出てきたら殺されちゃうかも。あの人、すっごく嫌われてるから」
「……なんで?」
「なんでも、一度皇帝様からの寵愛をもらってて、皇妃様の特権である一生の衣食住も既に保証されてるのに、皇妃選抜にまた参加しようとしてるんだって。嫌われちゃうのも無理ないわ」
「……そっか。そうかもしれない」
俯く俺に、彼女は「でもでもっ、わたしはそうは思わないけど!」とフォローする。
「…………なんで?」
「だって、誰だって愛されたいもの。廃妃様って、一度結婚して、けど皇帝様から嫌われて離婚しちゃった人のことじゃない?」
「そう、そのはずだけど」
「だからさ、もう一度皇帝様に愛してもらうために、リベンジしたいんじゃないかなって。……ヘンかな」
えへへ、と笑う彼女に、俺は少しだけ呆れつつ。
「……いいんじゃないかな」
そう言って少しだけ微笑んでみた。