皇帝は目を見開いた。
街の姿は、薄暗かった。
——その日は、雨だった。
さーさーと降る雨の中、皇帝が闊歩する。
「……」
街はひどく静かだった。
雨音と夕闇に紛れ、彼らは静かに街を歩く。
傘もささずに。濡れながら。
——石が、飛んできた。
小石だ。しかし、尖っている。
静かな殺意を湛えたそれは、放物線を描いて彼を目指し——しかし、届かずに落ちる。
「……」
雨はなおも降り続く。
皇帝は、周りを見た。
——人影は見えない。けれど、確かに居た。
彼を睨む人影が。
幾多の影が、彼を睨む。
獣のような息遣いで、彼を睨む。
獰猛な獣のごとく、彼を睨む。
そして、狙い澄ます。——磨き上げた刃物のごとき殺意を以て。
諸悪の根源と信じて止まないその男を、この手で殺すために。
英雄と、なるために。
男は立ち止まる。
息を吐く。——吸って、吐く。吸って——吐いた。
瞬間、投石が始まった。
無数の小石が彼を目指して飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。
飛び交い、ぶつかり、砕けながら——しかし、彼に当たり、傷つける。
民衆が、叫ぶ。
それは意見だ。野次だ。罵詈雑言だ。有象無象の騒音が、刃のように彼へと飛ぶ。
しかし、彼は立ち尽くしていた。
それらを防がず、ただ立ち尽くしていた。
目を見開いて、それらを受け止めていた。
小石は次第に石になり、刃になり、家財道具になり、重く重く重く重く、殺意は増していく。
やがて、雨は止んだ。
辺りに散乱した小石や物品の山。その中に、男はいた。
息を切らし、立っていた。
傷だらけで、立ち尽くしていた。
「…………」
黄昏。雲間から光が差した。
誰かが、息を呑む。声なき声。
やがて、銀髪の青年が顔を出した。
青年は、皇帝の胸ぐらを掴んで——殴った。
「これで理解ったか。俺たち——民衆の痛みが」
「ああ。……充分さ」
「ならば、俺たちのために今すべきことも理解るだろう。——いますぐその身を国民に捧げろ」
懐から取り出した、ナイフ。青年は逆手で持ち、皇帝の首元に突きつける。
訪れた静寂。しかし、皇帝は。
「それだけは、出来ぬ」
「何故だッ!」
青年は叫ぶ。けれど、皇帝は青年を、国民を見据え、告げる。
「我が死んで、どうなるというのだ」
「——ッ、この国は、きっと」
「よもや、我が死んだということ一つで現状が良くなるなどと、甘えたことを抜かすわけではあるまいな」
「…………」
再び静寂が満ちた。
「我は皇帝だ。故、国が良い方向に向かうのであれば——国民のためになるならば、この首など簡単にくれてやる。……だが」
彼は、国民を見据えながら、告げた。
「いまは、助けねばならぬ人が居る。——許せ、とは言わぬ。今は——今だけは、先に進ませてくれないか」
青年は、目を見開いた。
「この期に、及んで」
「——頼む」
皇帝は、真っ直ぐに、青年の目を、見据えていた。
「行かせてあげてください、
青年の足下に、少女がいた。青年のシャツの裾を掴んでいた。
「……
「皇帝さま。……助けたいのって、きっと、せんせ……大事な人、なんですよね」
少女は、青年の向こうにいる人物を見上げ、尋ねる。
——皇帝は、息を呑む。そして、呑んだ息を絞り出すように。
「……ああ、そうだ」
応えた。
聞いた少女は、唾を飲んで、目を細め。
「知ってますか? 西洋の童話では、お姫様は必ず、王子様に救われるんですよ?」
青年のシャツを引いた。
「何を——」
「だから、行ってあげてください。——
皇帝はわずかに笑って。
「ああ。——承知した」
再び、前を向いて歩き出した。
沈みかけの夕陽が、街を照らす。
「……ラン。大丈夫か?」
少女の目から、頬に光が散った。
「大丈夫です。……わたしは、お姫様じゃないので。兄さんこそ」
「……僕も、大丈夫さ。——あの男に比べれば、ね」
青年は微笑み、男の背を見送る。
血まみれの背を。——一国を背負う、その背を。
*
「……大丈夫でしたの?」
立ち止まった時にすぐさま逃げていた朔月は、合流した皇帝の姿に戦慄していた。
「大丈夫に見えるか?」
皇帝は深呼吸をしながら、傷を手で拭い、赤い痰を地面に吐き捨てる。
「……見えませんわね」
「そうか」
「…………少し休みましょう?」
朔月の提案に、皇帝は。
「いいや、そういうわけにもいかぬだろう」
「自分の姿を顧みてから言ってくださる?」
首を横に振る皇帝に間髪入れずツッコミを入れる朔月。しかし皇帝は、全く笑わずに——空を見た。
「我は、身を以て国の姿を知った。そして、未来を変えねばならぬと知った。——故に、ここで止まるわけにはいかぬのだ」
皇帝の言葉に、朔月は少し笑って。
「……そう、ですわね」
「それには、様々な者の手助けが必要だ。奉景や吉谷里、灼苑も……そして、お前もだ。朔月」
「…………感謝いたしますわ」
目を背けて告げる朔月。
「だから、二人を助け出さねばな」
皇帝の言葉に、朔月は頷いた。