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第2-4話 聖杯の内(4)

「どこまで流されてしまったかな」


 魔王の庭に、トオミ――否、魔王が立っている。魔王は、落ちてしまったベールを拾うこともせず、四阿あずまやからあたりをながめる。魔王の起こした水魔法によって、庭はぐちゃぐちゃになってしまっている。見事なバラ園は水と泥をかぶってしまっている。


 しかも、魔王に迫っていたジェイドたちも姿がない。大波によって、押し流されたのだろう。魔王は愉快そうにクツクツと笑った。


「まぁ、いい。そのうち会える」


 魔王はそう言うと、拾い上げた聖杯を愛おしそうに撫でた。まるで人間が飼っている猫を撫でるかのような、優雅な仕草だった。


 魔王はたしかに聖杯を投げ上げた。ルウルウがそれをキャッチした。その瞬間、聖杯が反応してルウルウの姿が消えた。


 ジェイドたちは殺してはいない。水で押し流してやっただけだ。本物の勇士たちであれば、態勢を立て直してふたたび向かってくるだろう。


「それでこそ、おもしろいというもの」


魔王はまるで座興を楽しむ貴人のようだ。道化師たちの一挙手一投足にコロコロと笑う、無邪気な貴人だ。だが彼は魔王であり、彼の心の奥底には常に悪意がある。悪意が熾火おきびのようにくすぶっているのだ。


「ルウルウは、タージュが連れて行ったか」


 聖杯の内側に、ルウルウとタージュがいる。魔王はそう理解している。タージュが化した聖杯のフタは強大だ。魔王とて手が出せない。


「ルウルウ。我が愛おしき眷属よ」


 聖杯を掲げて、魔王は優しい声音でつぶやく。

 眷属――つまり、ルウルウは強き縁のある者だ、と魔王も悟っている。悟っているからこそ、とぼけたふりで出会ったのだ。


「どうかタージュの心を和らげておくれ。そなたがいるのなら、タージュとてスキができよう」


 魔王は聖杯を、四阿の中央にあるテーブルに置いた。ゆっくりと前へ進み出る。ぐちゃぐちゃになった庭に向かって、手をかざす。


「水よ、この世をあまねく濡らす慈雨となるものよ――」


 魔王は、回復魔法を詠唱した。彼を中心として、魔力が放出される。庭を濡らす水が、魔力に反応する。水に濡れていた草木が、折れた枝を再生させていく。しおれた花々が上を向く。水を受けてえぐれた地面に、芝生が生えていく。


 ほどなくして、魔王の見える範囲の庭が再生した。美しく、おだやかな光景だ。


「懐かしいな、タージュ?」


 魔王は聖杯のほうを振り返り、語りかける。まるで恋人に対するかのような、優しい口調だ。


「そなたと出会った、神殿の庭を思い出す」


 神殿の庭。聖杯を祀る神殿の庭――美しく花々が咲き誇る、第一の神に捧げられた庭のことだ。タージュと、巡礼者に化けた魔王はその庭で出会った。


「私は、一度もそなたをたばかったことはない。本気で巡礼として旅をして、本気でそなたを愛していた」


 魔王の口調はどこか軽く、冗談めかしている。だが彼は本気で思っている。タージュを本当に愛しているのだと――。


「愛おしく、小憎こにくらしい我がタージュよ。そなたはどうして、私の道を阻むのか」


 魔王の淡青色の瞳が、聖杯を見る。


「それにしてもタージュよ。我らの娘は、私に似過ぎではないか? 髪も、目も。美しい容姿もそっくりではないか」


 魔王がクスクスと笑う。


「もしかしたら、このドレスだってルウルウのほうが似合っているかもしれないな」


 魔王はくるりと回った。漆黒のドレスのすそが広がる。


「こんな気持ちは久方ぶりだ。与えたいと思う、この気持ちは」


 魔王は聖杯に語りかける。


「だからね、タージュ。私は我が娘――ルウルウに試練を与えたのだよ」


 家を焼いたことも、道行きで魔族と出会わせたことも。すべては魔王の手のひらの上だと、魔王は言っている。


「タージュ、そなたはルウルウになにを与える?」


 テーブルに戻り、魔王は聖杯を前にして椅子に座った。


「真実か? それとも魔法の真髄でも与えるか?」


 魔王の淡青色の瞳には、まるで子供のような光が宿っている。ワクワクとなにかに心を躍らせる、人間の子供のような光だ。


「いずれでもよい。私は待とう。そなたが我が娘と出てくるのを――」


 魔王の言葉が、おだやかな庭の中へと消えていった。


 つづく

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