「どこまで流されてしまったかな」
魔王の庭に、トオミ――否、魔王が立っている。魔王は、落ちてしまったベールを拾うこともせず、
しかも、魔王に迫っていたジェイドたちも姿がない。大波によって、押し流されたのだろう。魔王は愉快そうにクツクツと笑った。
「まぁ、いい。そのうち会える」
魔王はそう言うと、拾い上げた聖杯を愛おしそうに撫でた。まるで人間が飼っている猫を撫でるかのような、優雅な仕草だった。
魔王はたしかに聖杯を投げ上げた。ルウルウがそれをキャッチした。その瞬間、聖杯が反応してルウルウの姿が消えた。
ジェイドたちは殺してはいない。水で押し流してやっただけだ。本物の勇士たちであれば、態勢を立て直してふたたび向かってくるだろう。
「それでこそ、おもしろいというもの」
魔王はまるで座興を楽しむ貴人のようだ。道化師たちの一挙手一投足にコロコロと笑う、無邪気な貴人だ。だが彼は魔王であり、彼の心の奥底には常に悪意がある。悪意が
「ルウルウは、タージュが連れて行ったか」
聖杯の内側に、ルウルウとタージュがいる。魔王はそう理解している。タージュが化した聖杯のフタは強大だ。魔王とて手が出せない。
「ルウルウ。我が愛おしき眷属よ」
聖杯を掲げて、魔王は優しい声音でつぶやく。
眷属――つまり、ルウルウは強き縁のある者だ、と魔王も悟っている。悟っているからこそ、とぼけたふりで出会ったのだ。
「どうかタージュの心を和らげておくれ。そなたがいるのなら、タージュとてスキができよう」
魔王は聖杯を、四阿の中央にあるテーブルに置いた。ゆっくりと前へ進み出る。ぐちゃぐちゃになった庭に向かって、手をかざす。
「水よ、この世をあまねく濡らす慈雨となるものよ――」
魔王は、回復魔法を詠唱した。彼を中心として、魔力が放出される。庭を濡らす水が、魔力に反応する。水に濡れていた草木が、折れた枝を再生させていく。しおれた花々が上を向く。水を受けてえぐれた地面に、芝生が生えていく。
ほどなくして、魔王の見える範囲の庭が再生した。美しく、おだやかな光景だ。
「懐かしいな、タージュ?」
魔王は聖杯のほうを振り返り、語りかける。まるで恋人に対するかのような、優しい口調だ。
「そなたと出会った、神殿の庭を思い出す」
神殿の庭。聖杯を祀る神殿の庭――美しく花々が咲き誇る、第一の神に捧げられた庭のことだ。タージュと、巡礼者に化けた魔王はその庭で出会った。
「私は、一度もそなたをたばかったことはない。本気で巡礼として旅をして、本気でそなたを愛していた」
魔王の口調はどこか軽く、冗談めかしている。だが彼は本気で思っている。タージュを本当に愛しているのだと――。
「愛おしく、
魔王の淡青色の瞳が、聖杯を見る。
「それにしてもタージュよ。我らの娘は、私に似過ぎではないか? 髪も、目も。美しい容姿もそっくりではないか」
魔王がクスクスと笑う。
「もしかしたら、このドレスだってルウルウのほうが似合っているかもしれないな」
魔王はくるりと回った。漆黒のドレスのすそが広がる。
「こんな気持ちは久方ぶりだ。与えたいと思う、この気持ちは」
魔王は聖杯に語りかける。
「だからね、タージュ。私は我が娘――ルウルウに試練を与えたのだよ」
家を焼いたことも、道行きで魔族と出会わせたことも。すべては魔王の手のひらの上だと、魔王は言っている。
「タージュ、そなたはルウルウになにを与える?」
テーブルに戻り、魔王は聖杯を前にして椅子に座った。
「真実か? それとも魔法の真髄でも与えるか?」
魔王の淡青色の瞳には、まるで子供のような光が宿っている。ワクワクとなにかに心を躍らせる、人間の子供のような光だ。
「いずれでもよい。私は待とう。そなたが我が娘と出てくるのを――」
魔王の言葉が、おだやかな庭の中へと消えていった。
つづく