ルウルウはハッと意識を戻した。
視界には天井が映っている。ルウルウは家屋の中で、ベッドに横になっていた。ぺったりとした敷布団、ふかふかとした掛け布をかぶっている。ルウルウが体を起こすと、木製のベッドがきしむ。ふかふかの掛け布をどけて、ルウルウは床に立つ。木の床がぎしりと音を立てた。
「これは……夢?」
ルウルウ一行は魔王城へ向かって、天へと昇る階段を上がっていたはずだ。かなり長い階段で、全員が体力を消耗していたのだけは覚えている。
ルウルウはあたりを見回す。部屋の中だ。部屋の様子は、見覚えしかない。だからルウルウは、見えているものを夢だと疑っている。
「わたしたちの……家……」
その部屋は――ルウルウが育った、レハームの森の庵だ。タージュとルウルウがひっそりと暮らし、ジェイドが時折訪ねてきた家だ。レハームの家の寝室に、そっくりな部屋の中にルウルウはいた。
「どうして……」
もしかして、いままで起こったことのほうが、すべて夢だったのだろうか。長い長い夢を見ていたのだろうか。家を焼かれて旅に出た――そのことが悪い夢だったようにも感じる。
ここは間違いなくレハームの庵で、きっとタージュもいるのだろう。寝室の扉を開ければ、タージュが帰ってきている。きっとジェイドもいるだろう。
「う、ううん」
ルウルウは首を横に振った。旅のことが夢だったとは思えない。混乱した思考を振り払う。
「あ!」
ベッドまわりの床に、ランダとハラズーンが横になっている。ふたりとも掛け布にくるまって、安らかに寝息を立てている。
それを見て、ルウルウはさらに現実に引き戻された。レハームより西で出会ったふたりが、レハームの庵にいるはずがない。庵は焼かれ、かくしてルウルウは旅に出たのだ。ランダとハラズーンは夢の中の住人ではない。現実にいる仲間だ。
ルウルウはあわてて、ふたりに近寄る。
「ランダさん、ハラズーンさん!」
ルウルウはふたりを揺り動かし、起こそうとした。しかしランダもハラズーンも、深い寝息を立て、寝相を変えただけだった。疲れ切った冒険者の仕草だった。
「どうしよう……」
床に寝ているのは、ランダとハラズーンだけだ。ジェイドの姿がない。
「ジェイド!」
ルウルウはベッドの部屋から、台所の部屋へと出る。かつてタージュの庵は、台所とベッドルームしかない簡素なつくりだった。果たしてそのとおりに、台所がある。かまどに水場、それに暖炉が設けられている。暖炉には火が小さく入っていた。
台所の中央に鎮座する、大きなテーブル。そこにジェイドが突っ伏している。彼の肩がわずかに上下しており、眠っているようだった。
「ジェイド、ジェイド……!」
ルウルウはジェイドの肩を揺らした。ジェイドが目を覚まし、頭をもたげる。ジェイドも眠そうに目を瞬かせる。
「ルウルウ……」
「ジェイド、わかる? ここ……」
「ここ?」
ジェイドが怪訝そうにあたりを見回す。そしてハッとした表情になる。
「まさか……タージュ殿の家か!?」
「隣の部屋に、ランダさんとハラズーンさんもいるの。起きないんだけど……」
「なら、過去の夢を見ているってわけでもなさそうだな」
ジェイドは椅子から立ち上がり、おのれの頬を叩いた。ジェイドは注意深くテーブルや壁の様子を見る。ルウルウもあたりを見るが、この庵は寸分たがわずタージュの家に似ている。置いてある家具や道具類も同じだ。壁に杖をかける場所があり、そこにタージュの御守りがついた杖がかかっている。
「いい家であろう」
突然、第三者の声がした。ジェイドとルウルウが視線をやると――テーブルの対角線上に、人影がある。真珠色の長髪を垂らした、淡青色の目の美しい男が座っている。あの庭で出会ったトオミと同じ容姿をしている。
――魔王だ。
ジェイドとルウルウの背筋を、悪寒が駆け抜けていく。いつからそこに魔王がいたのか、ふたりにはまったくわからなかった。
魔王の座る席の前には、華麗な装飾の器――聖杯がある。魔王が手を伸ばせば、届く位置に置かれている。魔王が聖杯に語りかける。
「タージュ。そなたはこのような庵で、ルウルウを育てたか」
「魔王!?」
弾かれたようにジェイドが腰のショートソードに手をやった。立ち上がり、剣を抜き払い、テーブルを越えて、魔王に斬りつけようとした――はずだった。
「座っておれ」
魔王がひとことそう言うと、ジェイドの体が動かなくなる。まるで重しをされたかのように、席から立ち上がれない。腕も上がらず、ショートソードを抜くことすらできなくなったようだ。魔王の得体の知れなさに、ルウルウもジェイドも恐怖心を抱いた。
「すこし、話をしようではないか」
魔王がうっすらと笑う。
ジェイドが魔王を睨みながらも、尋ねる。
「ここは、どこだ?」
「タージュの庵だ」
「ふざけるな!」
ジェイドが怒鳴り、次の言葉を吐き出そうとする。その瞬間、魔王がピッと人差し指を上げた。ジェイドの唇がひとりでに引き結ばれる。
「~~~~!!」
「静かにせよ、仲間が起きるであろ? 疲れているのに、かわいそうだ」
魔王がクスクスと笑う。ジェイドは叫ぶこともできず、喉元を押さえ、荒く鼻息を吐く。
ルウルウはその様子を見ながら、必死で恐怖心を抑え込んでいた。怖い。怖いが、逃げることは許されない。涙があふれそうになる目で、魔王を睨みつける。
悪意の魔族王――魔王。
真珠色の長髪。先ほどは結い上げてあった髪は、ほどいて長く垂らしてある。開いた目は淡青色。容姿はルウルウを大人びさせたような雰囲気がある。もし魔王でなければ、その美しさに目を奪われていただろう。
「
魔王が軽く首をかしげ、ルウルウに語りかけてくる。深い優しさを帯びた声だ。しかし同時に、得体の知れなさも含んでいる。魔王はそれを自覚しているのかいないのか――それすらも悟らせぬ様子で、ルウルウに話しかけてくる。
「お前の口は結ばないよ。言いたいことがあるなら、言えばよい」
魔王は鷹揚な態度でルウルウに言う。魔王の口調には、気安ささえある。
「……どうして」
ルウルウは疑問をぶつけた。
「あなたは……どうして魔神になりたいのですか?」
「我はもはや、退屈に耐えられぬ」
魔王はわずかに目を細めた。淡青色の瞳に、憂いが見えた。
「我が眼は、望めばなんでも見える。大陸の多くを統べる王の
千里眼――すべてを見通す瞳を、魔王もまた持っている。
「我は望めばなにもかも手に入る。土地も、黄金も、宝石も、忠誠も――ひとの愛ですらも」
ひとの愛――タージュのことを言っているのだろうか。だが魔王はなんでもないことのように言ってのける。
「それの、なんと退屈であることか」
「そんな……」
タージュの愛情を受け取ることすら、退屈だったと魔王は言っている。ルウルウはそう感じ取った。ルウルウの胸の中がチクリと痛む。
愛されることの尊さ、愛されることのあたたかさ。なにものにも代えがたいことなのに、魔王は退屈だったという。魔王の穏やかな口調の底にある傲慢さに、ルウルウは腹立たしさを覚えた。
魔王が続ける。
「しかし魔神になる道だけは、困難に満ちておる。我が望んでも、簡単には手に入らぬことだ。我が退屈して三千年、ようやく場が整うまでになった」
苦難を語る魔王は、嬉しそうだった。神を目指すことは、魔王にとって生まれ落ちて初めての困難だ。困難に直面したことを、魔王は喜んでいた。