魔王がルウルウに優しい視線をやる。
「場は整った。あとは聖杯に溜めた魔力を
「……聖杯は、お師匠様が守っています」
「そのことだ、ルウルウ」
魔王がなにか言葉を続けようとしたとき――。
隣の寝室の扉が開いた。ランダが頭を軽く掻きながら、出てくる。
「ふぁ……なんだい、ここは?」
眠そうな表情と足取りで、ランダは台所に入ってくる。そしてルウルウとジェイドを見る。その対角線上に座る、魔王も見る。ゆるんでいた表情が、驚きに引き締まる。
「魔王!?」
「座れ」
ランダがなにかをするより早く、魔王が指で床を指差す。ランダの腰から力が抜けて、いつのまにか出現した椅子に座ってしまう。
「おい! なんだこりゃ!? 貴様か、魔王!?」
「落ち着け、トーリアの義賊よ」
魔王がまた指を上げた。騒ぐランダの口が、一瞬で引き結ばれる。ランダはしばらくモガモガとうなっていたが、徐々に脱力して黙り込む。それを見て、魔王が指に入れた力を抜く。
「ぷはぁー、なんだってんだい……」
ランダが忌々しそうに息を吐く。彼女も魔王の力の前に、畏怖の心を呼び起こされたようだ。
そんな彼女を、魔王は淡青色の瞳で見る。そして軽く首をかしげて、言う。
「ランダ、貴様は罪深い女だ」
「あ?」
魔王の言葉に、ランダは不快感もあらわに応じた。ランダの眉間に、しわが寄っている。
「父親のことは知っているか?」
「いいや、興味もないね」
「そうだろうなぁ、貴様はなんの変哲もない女の私生児だからな」
私生児――つまり、女性が結婚せぬ仲の男性とのあいだになした子、ということだ。西方大陸では珍しいことでもないが、人聞きはよくない。
ランダの表情が曇る。じっとりと不満げな目で魔王を睨む。
「だからなんだってんだい、アタシの母さんは……」
「その女は、とある騎士の子を生んだのだよ」
「騎士の子、だって?」
ランダは怪訝そうに、魔王の言葉を繰り返した。
魔王が語る。
「その騎士は、まっこと好いた女に忠誠を誓うため、子までなした貴様の母親を捨てたのさ。哀れ、貴様の母親は苦労をしているうちに早死にしたわけだ」
ランダが黙り込む。彼女が「でたらめだ」と叫ばないあたり、魔王の語ることは真実らしい。魔王が続ける。
「ただ母親にも慰めがあったぞ。たったひとりの娘の世話をすることだ」
たったひとりの娘――ランダを育てることが、ランダの母親を慰撫したらしい。ランダがわずかに悲しそうな表情になる。母親のことを思い出したのだろう。
「だが、なぜ娘を育てることが慰めとなったか。ランダ、考えたことはあるか?」
「あ?」
魔王の問いかけに、ランダは意外そうな表情をした。母親がわが娘(こ)を育てた意味を、考えたことがなかったのだろう。
魔王は楽しそうな口調で続ける。
「それはね、娘がその父親に似ていたからだよ。愛した男の残した子だ、さぞ愛おしかっただろうよ」
「似ている、だぁ? アタシが、親父に?」
「そうだ、ランダ。貴様は父親によく似ている。焦茶色の髪も、青色の瞳も」
ランダの短く切った焦茶色の髪、深い青色の瞳。それは父親の騎士ゆずりなのだと、魔王は言った。魔王はクスクスと笑ってから、ランダに言葉を突きつけた。
「そういえば、トーリアの領主代理もおなじ髪と目の色だったな」
「な……!?」
魔王の言葉に、ランダが目を見開いた。
トーリアはランダが暮らしていた土地だ。そこの領主代理といえば、グレッグ・ドーンのことだ。グレッグは魔族にそそのかされ、魔獣を造り、最期は魔獣に成り果てた。非道に堕ちた彼に引導を渡したのは、ランダだった。
なぜここで魔王の口からグレッグの名が出るのか。ランダは察したようだ。
「あのグレッグの野郎が、アタシの父親だと!?」
「ご名答」
魔王は満足げにうなずいた。そして嬉しそうに笑う。
「貴様は、父親を殺してしまったのさ」
「嘘だ!」
「嘘ではない。この目で見た、真実だとも」
心底おもしろそうな表情で、魔王はランダを見つめる。魔王の表情から読み取れるのは、愉悦。胸の奥底から楽しみを見出しているかのように見える。
「嘘だ! あのクソ野郎が、アタシの父親だなんて!!」
「そういえば、貴様の母親は笑って言ったな。お前の父親は立派に生きている、と」
「ああ……っ!?」
ランダの表情が愕然としたものになった。彼女の顔色が青くなる。
魔王が追い打ちをかけた。
「貴様の母親は、
「嘘だ、嘘だ……! 母さん……!」
ランダは混乱している。魔王の言っていることに、心当たりがあるらしい。
ルウルウはたまらず、ランダの肩にすがりつく。
「ランダさん! 落ち着いて……」
「いつか、会えるって、会えるかもしれないって……母さん……!」
ランダは頭を抱えて、肩を震わせている。ルウルウの言葉も聞こえていない。
「アタシは……実の父親を……!」
「ランダさん……!」
ランダは顔を手で覆って、黙り込んだ。ルウルウの呼びかけにも反応しない。
ランダとルウルウの様子を、ジェイドも見ている。魔王によってジェイドの口は引き結ばれ、体は椅子から離れない。だがジェイドは厳しい表情で魔王を睨みつけた。まるでオオカミが噛みつかんばかりの表情だ。
魔王はその視線をなんでもないように受けて、笑った。
「父親殺しのランダ、かわいそうな女」
「――、――!!」
カッと、ジェイドの口が開いた。叫び声は出ない。だが腕が動いた。ショートソードの柄に手をやり、刃を抜き払う。そして剣の切っ先を、魔王に向かって投げつけた。
――ガチャン!
ショートソードは魔王に当たらなかった。魔王の姿が一瞬で消えて、投げられた剣は魔王の向こうにあった棚へと突き立つ。棚に置かれた小瓶がいくつか倒れ、中身があふれ出す。
「おや、暗示が解けたのか」
魔王が床に立っている。魔王は、うつむいたランダの肩を叩く。
「魔王、卑怯者め!」
ジェイドの口からやっと、魔王を罵る言葉が出る。ジェイドはそこまで言うと、荒く息を吐いて、激しく肩を上下させた。魔王の暗示を解くために、彼自身の全身全霊をかけたのだろう。
「貴様の悪意に、俺たちは決して折れたりしない」
うめくような低い声で、ジェイドは魔王に啖呵を切った。
魔王の目元が、おもしろそうなものを見つけた子供のように、輝いた。