「さて」
魔王がパン、と手を叩いた。
魔王を討つべく集まった勇士たちは、絶望を植え付けられた。もはや魔王にとって彼らは敵ではないのだろう。魔王が視線を、テーブルの上にある聖杯に向ける。
「もはや場は整った。あとはそなた――聖杯のフタを開けるだけだ」
魔王が語りかけているのは、聖杯のフタとなったタージュだ。魔王はしなやかな指で、聖杯の側面を撫でた。まるで男が女をなだめるような仕草だった。
「聖杯に魔力は溜まり、月と星は霊妙な位置に並んだ。もはやそなたの抵抗も意味はないぞ、タージュよ」
説得するような、脅すような口調。魔王の手がフタを撫でる。
「我は神となる。はや姿を隠せし第二の神と、同等の神へと」
聖杯は沈黙したままだ。フタも揺らぐ様子はない。タージュの抵抗があるのだろう。
魔王はつまらなさそうに目を細めた。
「やれやれ。その強情さ、もはや愛おしいよ」
魔王は「ふふふ」と笑った。呆れているような、愛おしむような、余裕のある笑みだ。魔王は頬杖をついてすこし考えるような仕草をした。そしてルウルウに視線を向ける。
「ルウルウ、我が愛おしき
魔王の矛先が、ルウルウに向かう。ルウルウはビクリと震えた。魔王に「むすめ」と呼ばれる嫌悪感が、全身を震わせていた。
「タージュに願え。フタであることをやめて、肉体に戻れ――と」
「肉体……に」
魔王はルウルウに命令した。
タージュの魂を肉体に戻す。この状況でそれが行われることは、ルウルウ一行の敗北を意味する。聖杯を封じたタージュがいなくなれば、魔王はたちまち悪意の神となってしまうだろう。
できない、とルウルウは感じた。
「そんなこと……願えません」
「魂があまり長く離れていると、タージュの肉体が死ぬぞ?」
「死……っ!」
魔王にハッキリと告げられ、ルウルウは青ざめた。
「お師匠様の肉体は、どこにあるのですか!?」
「あれの肉体か。そなたの隣に寝かせていたのに、気づかなかったか?」
「え……!?」
ルウルウの隣――つまり、先程の寝室のベッドに、タージュの肉体もあったということだ。ルウルウが気づかなかったのは、おそらく魔王の魔法によって、巧妙に隠蔽されていたからだろう。魔王が明かしたいま、タージュの肉体は隣室にあるに違いない。
「おや」
突然、魔王が意外そうな声を上げた。彼の淡青色の瞳が、複雑な色を帯びている。薄緑色や紫色の光が、淡青色の瞳に小さく浮かぶ。光はくるりくるりと回り、弱まる。
「ハラズーンが逃げたぞ」
「え……!?」
いつのまに、とルウルウは驚く。
「しかもタージュの肉体を負うているな?」
魔王は立ち上がり、
「――ッ!!」
そのスキを、ルウルウは突いた。聖杯に向かって手を伸ばし、しがみつくようにテーブルから奪い取る。
ルウルウの動きを見て、ジェイドが足を跳ね上げた。彼が強く床を蹴ると、座していた尻が椅子から離れる。ジェイドの体がテーブルを越えて、壁際の棚に突き刺さったショートソードへと向かう。ジェイドは棚からショートソードを引き抜くと、そのまま魔王に斬りかかった。
「ハァッ!!」
ショートソードの刃が、魔王に向かって振り下ろされる。魔王は避けなかった。魔王の左肩から右腹にかけての部分を、ショートソードが斬った。肉の裂ける音とともに、魔王の肉体が両断される。
魔王の肉体が黒く変色した。肉体は塵のようにモロモロと崩れて、空気中に舞う。
「おやおや、乱暴なことだ……」
どこからか、魔王の声がする。肉体は間違いなく斬ったはずだが、魔王は死んでいない。いや、いま目の前にいたのが魔王本体だったのかどうかもわからない。
「魔王! 俺たちは……いいや、俺は貴様を倒すぞ!!」
ジェイドが啖呵を切った。彼の怒鳴り声が響くと、ランダも顔を上げる。魔王からかけられた悪意が、ゆるゆると剥がれていくようだった。
「ふふ、ふふ。そうか。貴様らは……」
魔王の声が空気の中へ溶けていく。
「もはや言葉は意味もなき。来るがよい……」
魔王がそう告げると、庵の扉がゆっくりと開いていった。
第3話につづく