「ルウルウ」
ジェイドがなにか声をかけようとしたそのとき――。
「誰だ、ここはお前のような者が立ち入れる場所ではない!」
外から老夫の怒鳴り声がした。ただならぬ様子に、皆がハッと顔を上げる。ジェイドが声のした玄関へと向かう。ルウルウたちも続く。
「なんや、なんや、ケチくさいこと言うもんやないで」
老夫が相対していたのは、小汚い老婆だった。老婆はなまりのある大陸公用語を使い、杖をついている。ボサボサに伸びた白髪、ボロ布のような衣服、枯れ木のような手足――物乞いもかくや、という格好だが、耳が長く尖っているのはエルフの特徴だ。
「あ……!」
ルウルウは声を上げた。老婆に見覚えがあったからだ。
「アシャ様!」
「ようよう、ルウルウにジェイド。それに
老賢者アシャだった。「導きの賢者」とも評され、同時に魔神の信奉者でもある。彼女はかつてルウルウたちに助言を与えたことがある。
アシャはルウルウにずかずかと近づくと、その上腕をパシンと叩いた。
「やりおったな、魔王退治を!」
「わかるの……ですか?」
「この眼ぇと、魔族どもの気配がな。教えてくれたわ」
アシャがみずからの目元を押さえる。彼女の紫色の目は、ただの眼球ではない。西方大陸を見渡す千里眼だ。
ランダが目を丸くする。
「まさか……老賢者アシャ!? あのヨタ話はマジだったんだ……」
「ふふ、どのヨタ話かは知らんが、ちゃんとおるでぇ」
老賢者アシャは、冒険者のあいだで存在自体が真偽不明とされている。ランダはアシャを目の当たりにして、驚いたようだった。
「ええと、あの……」
老夫婦が困惑している。ジェイドが苦笑した。
「すまない、我々の客だ。心配はいらない」
「は、はぁ……」
老夫婦は怪訝そうに返事をする。
「立ち話もなんやな。茶ぁの一杯でも出してもらおか」
アシャがケラケラと笑う。
全員で食堂に移動して、話を続ける。老夫婦が、赤色の茶を出してくれた。馥郁とした香りの、品質がよい茶だ。アシャはジェイドから魔王退治の顛末を聞き、無遠慮に茶を楽しんだ。
「……なるほど、やはり。タージュは責任を果たしたんか」
「ああ」
アシャの言葉に、ジェイドはうなずいた。
「タージュはずっと悔いとったんやなぁ、聖杯を魔王に渡してしもたことを」
アシャのしみじみとした口調には、タージュの胸中を慮るような響きがあった。
「それにしても魔王の阿呆は力の前に滅したか! いやぁ愉快愉快!」
カッカッカ、とアシャは唾を飛ばして大きく笑う。あまり快活に笑うので、ほかの皆が顔を見合わせたほどだ。
「ああ、ああ、数百年ぶりに愉快や……」
アシャは笑うのをやめて、ルウルウの前に移動する。アシャはルウルウの顔をまっすぐに見た。
「しんどかったやろ」
「……っ!」
アシャの声音は、意外なまでに優しかった。
ルウルウはしばし逡巡し――やがて黙ってうなずいた。
「でも、それは……ジェイドも、カイルも、皆も一緒で……」
「いいや、ルウルウ。
アシャは枯れ果てた手で、ルウルウの手を取って撫でた。
ルウルウの胸がいっぱいになる。
「お師匠様……!」
タージュを思う心があふれてくる。考えないようにしていたことが、胸の中をいっぱいにする。胸中をいっぱいにした感情は目元を揺らし、涙となってあふれ出た。
「お師匠様……お師匠様……」
ルウルウは涙が止まらなかった。しゃくりあげながら、師匠タージュを想う。
「ルウルウ」
「ルウルウ……」
ルウルウの想いを目の当たりにして、皆が動いた。ルウルウの周囲に集まる。ジェイドがルウルウの肩に手を置く。ランダが寄り添って、ルウルウの背中を撫でる。カイルやハラズーンがそばにいてくれる。あたたかな仲間の想いに、ルウルウはいっそう涙をあふれさせた。しばらく、ルウルウは泣いていた。
「……落ち着いたか?」
ややあって、アシャが尋ねる。ルウルウはひとしきり泣いて、いまは泣き止んでいた。しかし泣き止むと同時に、目の前が暗くなるような思いにとらわれる。
「わたしは……いったいこれから、どうすれば……」
ルウルウの本音だった。どうすればいいか、まったくわからない。道の先を見失ったようだった。
「ジェイド、貴様の出番や」
アシャは杖でジェイドを指し示した。
「やりたいが、やれるかどうか迷うとることがあるやろ」
「……そうだな。さすがは千里眼を持つ賢者殿だ」
ジェイドがルウルウの前にやってくる。椅子に座ったルウルウの前に、ジェイドがひざまずいた。
「ルウルウ」
ジェイドは優しくも真剣な口調で、ルウルウに語りかけた。
「俺と、東方大陸へ渡らないか?」
「え……」
「東方大陸は言葉も違う。文化も、食べ物も、習慣も……なにもかも、西方とは違う」
東方大陸――西方大陸の東にある、大陸だ。大帝国を中心とした国々で構成される、異郷である。そしてジェイドの故郷でもある。
「もしついてきてくれるとしても、きっと苦労をかけると思う。だが、それでも……」
ジェイドの黒い瞳に、決意が宿っている。
「ルウルウ、君と一緒に行きたい場所だ」
「一緒、に……」
魔王の子だと知ったのちも、ジェイドはルウルウと一緒にいたいと言ってくれている。彼の言葉には嘘がない。
「こりゃ」
アシャが杖でいきなり、ジェイドの後頭部を小突いた。
「ルウルウが断ったらどないすんじゃい、
ジェイドの提案は、選択肢のないルウルウに道を示すものだが――同時に、ルウルウの希望できる道を狭める可能性がある。アシャが怒ったのは、その点に気づいたからだ。
「ルウルウ置いて、東方大陸へ行く気ぃか?」
ルウルウをひとり残し、ひとりで東方大陸へ渡る気があるか。アシャはそう聞いている。ジェイドは自身の後頭部をひとつさすり、首を横に振った。
「いいや。そのときは……どこにも行かない。ルウルウのそばにいる」
「さよか。それでええ」
アシャは腕組みをして、フンスと鼻息を吹いた。
「わたし……」
「ルウルウ、返事はいまでなくていい」
ジェイドは優しくルウルウに語りかける。
「よく考えてほしいんだ」
「……うん」
ルウルウはうなずいた。