「パトリシア、新聞読んだ?」
火曜日の朝、お母様にそう声をかけられて私は首を横に振る。
私はたった今起きて、朝食を食べるために食堂へとやって来たのだから見ているわけがない。
新聞は大事な情報源だ。うちではいくつか新聞をとっていて両親もお兄様も必ず目を通している。
私も時々ではあるけれど新聞を読んで情報を仕入れることはある。
新しいお店の話題とか、イベントの情報を仕入れるには最適なのよね。
「ううん、何かあったの?」
言いながら私は食卓につく。
「あぁ、事件だよ事件」
そう言ってお父様が新聞の一面を私に見せてきた。
それは、殺人事件の記事だった。
数日前の夜、女性が殺されたらしい。
被害者は娼婦で、一週間前にも娼婦が殺された事件があったことから、連続殺人では、という見方があるとか。
娼婦が被害者かぁ……
そういう人たちと私が関わることなんてまずないだろうし、どこか遠い世界の出来事のように感じてしまうけれど、この事件がどうかしたのだろうか。
不思議に思っていると、お父様が重い口調で言った。
「事件は夕暮れ時に起きているそうだから、帰りに寄り道などしないように」
「しないわよ。そもそも昨日からお迎えが来るようになったからできないわ」
そう答えると、父はばっと、驚きの表情で私の方を見る。
そこに朝の食事が運ばれてきて、私たちの前にお皿が置かれていく。
朝食は軽く済ませるものだ。
ブレッドにベーコン、卵焼きにスープ。それにコーヒーだ。
「え、あ、あの、あ、もしかして伯爵家の?」
お父様の声が明らかに動揺しているけれど、そんなに驚く話でもないと思うんだけどなぁ。
そう思いつつ、私は頷く。
「はい、フレイレ伯爵家のアルフォンソ様が毎日迎えにくると申し出てくださって」
そう答えて私は食事の前の祈りを軽くして、コーヒーを飲む。
私が飲むのは牛乳たっぷりのカフェオレだ。甘くておいしい。
そしてパンをちぎり口に運ぶ。
「え、あ、え?」
お父様の驚く声が聞こえてくるけれど、気にせず食事を続けた。
「お父さん、よかったじゃないですか。このままいけばパティの婚約、決まるんじゃないの?」
笑いながら言う四つ上の兄、マルクの声が聞こえてくる。
そう、なるのかなぁ。どうなるんだろう。
婚約ってピンとこない。そもそも捨てられた者同士が婚約なんてありだろうか?
……あり、かな。だってきっと、あの時の話はもう忘れられているだろう。
クリスティの話だと、今、貴族の間では王子の婚約者決めが話題らしいし。
「そう、だけれど……大丈夫なのか、パトリシア」
「大丈夫って何が」
そこで私はフォークを片手にお父様を見る。
眉間にしわを寄せてとても心配げな顔でこちらを見ている。
「向こうに他の相手はいないんだろうな?」
「いないわよ。そもそもこの間まで任務でここを離れていたし」
っていうか見た目が珍しいから、何かあればすぐに噂が広まる事だろう。
でもアルフォンソさんの噂は聞いたことがない。
「もう、お父さんってば、あんなことはそうそうおこるものではないわよ」
呆れたような声でお母様が言う。
そうそう、たぶんあんな婚約破棄はそうそう起きない。起きてたまるものですか。
「でもなぁ、貴族は色んな噂を聞くぞ? どこの貴族の次男が令嬢に手を出して挙句の果てに妊娠させて大騒ぎとか」
そんなのあるんだ、本当に。
「確かに月に一度はそういう話を耳にしますけど、二度も続くことはないでしょう。それにそんなことは昔からよくある話でしょう」
お母様がとんでもないことを口にして、私は思わず手を止めた。
昔からあるのね……大丈夫なのかな、若者の貞操観念。少し心配になる。
「そうだが……まあ、慎重に決めるんだぞ、パトリシア」
「大丈夫よ。私だって同じ過ちは繰り返さないんだから」
そう言いながら自分の言葉にちょっと傷つく。
やっぱりダニエルとのことは過ち、よね。
深く考えずに決めるんじゃなかった。
「それならいいが……」
「もう、自由にさせるって決めたでしょう? そんなことよりマルク。貴方もそろそろ相手を決めてくれないかしら?」
水を向けられた兄はニコニコと笑い、
「そうですねぇ、いい人がいれば」
と答える。兄はいつもそう言って結婚の話から逃げていく。
「自分から探そうなんてしていないでしょう。少し前にパーティーに出かけていたけれどまたそれもなくなって。パトリシアの事もあるから私たちから紹介、っていうのは控えているけれど、貴方もう二十四歳なんだから、そろそろ考えてほしいのよ」
まあ、どの家も子供が二十歳超えたらそういう話になるだろうな。
人生は短いし。
でも兄はどこ吹く風でパンのおかわりを要求していた。
これはしばらく結婚なんてしないだろうなぁ。総じて男性の方が結婚年齢は遅めだし、お兄様は気楽に構えているのかもしれない。
そこからまた話題が移っていったので、私は黙々とスープを飲んだ。
そして何事もなくやってきた金曜日。
今日は春の合同イベントの会議の日だ。
会議は四時から王宮で行われるそうで、私は朝から緊張していた。
私は商人の娘なので、王宮に招待されたことなんてない。
仕事で出入りすることはあるものの奥までは行かないから、王宮はどこか近くて遠い存在だった。
それでも仕事をこなし、午後、私はロラン様に連れられて馬車で王宮へと向かった。
王宮に着き、馬車を下りて私は城を見上げた。
いつ見てもお城は大きくて広い。
そびえたつ塔に、複雑な作りをした内部。攻め入られた時のことを考えて、城内は迷路のようになっている、という噂を聞いたことがある。
本当かは知らないけれど。
「パトリシアさん、中は複雑な構造になっていますから、下手に動き回らないでくださいね」
ロラン様にそう忠告され、私は噂が本当であると確信する。
「わかりました」
まあ動き回りませんけど。だって、怖いもの。
「会議が行われる部屋は城内入ってすぐの所にありますから大丈夫ですけど、うろうろするとスパイと勘違いされて囚われかねませんからね」
あぁ、そういうことか。
今の世の中、表面上平和ではあるけれど国同士、いつ戦争が起きるかなんてわかったものじゃない。
だから常に警戒はしているのだろうな。
ロラン様に着き、手続きをして入場証の発行を受け、私たちは中に入る。
お城の中はいつ来てもなにかこう、重苦しい空気が流れているような気がする。
ロラン様のいう通り会議がある、という部屋は王宮内に入ってすぐの所にあった。
重そうな焦げ茶色の扉が目の前に大きくそびえたつ。
あぁ、手のひらに汗、かいてきた。
そこの前にはお城の人だろうか、黒いスーツを着た男性が立っていて、ロラン様を見るなり頭を下げて言った。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
そして彼は扉を開けた。