部屋に戻るとアルの姿は見えなかった。
あれ、どうしたんだろう。と思ったけれど、かすかに水の音が聞こえてくるからお風呂かな。
室内は暖炉のお陰で温かくて、ぱちぱち、と炎が弾ける音がする。
窓の外に見える海には、ランプをともした帆船が浮いているのが見えた。あれは多分、港に停泊している船だろうな。
部屋にある時計を見ると、八時すぎだった。
私も彼が出てきたらお風呂、入ろう。
そのためにはここで待っていた方がいいよね。出たのがすぐわかるし。
そう思って私はソファーに腰かけて、借りてきた本を開いた。
読むのはもちろん、推理物。
異国の本を翻訳したもので、犬と猫が事件を解決していくという、ちょっと変わった小説だ。
それを読み進めていると、肩を叩かれ私はハッとして振り返る。
そこには、ゆったりとした部屋着に着替えたアルが立っていた。
その顔に私は思わず目を見開く。
いつもしている眼帯をしていない。
彼の目は黒いはずなのに、銀色のような色になっていて、瞼には生々しい傷痕がある。
ドラゴンの尾に攻撃されて、右目が治っていないとは聞いていたけれど実際目にするとけっこう衝撃を受ける。
人生の中で、こんな傷をみた経験がないからだ。
黙り込んで動かない私に、彼は特に気にする様子もなく、髪をかき上げ言った。
「遅かったので先に入りました」
「あ、はい、あの…わ、私も入ってきます」
寝室は二つに分かれているものの、浴室はひとつしかない。
私は気まずい思いを抱えながらテーブルに読んでいた本を置き、バタバタと立ち上がって浴室へと向かった。
部屋係の方が毎日洗濯してくれるから、着替えは脱衣所に用意されている。
私は鍵をかけ、気持ちを落ち着かせようと大きく息をつき、服を脱ごうとワンピースのボタンに手をかけた。
お風呂を出て、部屋着に着替えタオルで髪をわしゃわしゃと拭く。
髪の毛を乾かすの、面倒なのよね。タオルだけではなかなか乾かない。
だから私はタオルを被ったまま暖炉の前に行こうと、脱衣所を出た。
そしてソファーが置かれているリビングに向かうと、彼の姿はなかった。
私がお風呂から出るといつもいないのよね。たぶん寝室なんだろうな。
だから私はいつもひとり、暖炉の前で髪を乾かしていた。
私は暖炉の前の揺り椅子に座り、タオルで髪を拭く。この方が早く乾くのよね。
この後、お茶を飲んで本と読みつつ寝るだけだ。
明日はアルの誕生日なのよね。
うーん、何をしたらいいんだろう。
何か企んでいそうな気はするけれど、何にも聞いていない。
炎を見つめ、思わず大きく欠伸をする。
暖炉の火を見つめていると眠くなってくるのよね。暖かいし、炎の揺らぎと音が眠くさせるのかなぁ。
そう思いつつ私は欠伸をし、頭にタオルをのせたまま揺り椅子でゆらゆらと揺れた。
こんなゆったりとした時間を過ごしているけれど、私、事件に巻き込まれたのって先週の話なのよね。
落差が激しすぎる。
できればこんな時間が長く続いたらいいなぁ。
妖精が本当にいるのかわからないけれど、何も事件が起きませんように、私たちに幸せを運んできてほしいな。
『――幸せって手の届く所に転がっているものだよ』
そんな女の子の声が聞こえた気がして、私は辺りを見回そうとするけれど、瞼も身体も重くて何にもできない。
この声……さっきの赤いワンピースを着た少女のような気がする。
赤い……ワンピース……金色の、髪……だめだ、頭が働かない。
うとうととしていると、かすかに物音が聞こえた気がした。
足音が近づいてきて、後ろからふわり、と身体を抱きしめられ、名前を呼ぶ声がした。
「――パトリシア」
「う、ん……あ、る……?」
さっきまですごく重かった瞼はゆっくりと開き、身体も嘘のように軽く感じるようになる。
「あぁ、寝ていました?」
「う、ううん。大丈夫」
答えながらも私は思わず欠伸をしてしまい、慌てて口を押えた。
「あはは、だいぶ眠そうですね」
「何ていうか、炎を見つめていると眠くなってしまって」
「わかりますよ。確かに落ち着きますね」
なんて言いながら、抱きしめる腕に力がこもる。
「あの、ちょっと、どうしたんですか?」
ホテルに二泊しているけれど、夜、こんなふうに触れあったことがない。
夜はいつの間にかお風呂に入って、特に挨拶もせず寝ていたから。
正直ちょっと恥ずかしい。
「嫌ですか?」
いや、そんな耳の近くで言われると恥ずかしいんだけど。
私は顔が紅くなるのを感じながら、首を振った。
「え、あ、あの嫌じゃないですけど」
言いながら私は彼を顔を見上げる。
すると、眼帯のないアルの顔がそこにあった。
私はゆっくりと右手を上げて彼の頬に触れる。
「傷、残ってるんですね」
「えぇ。消えないみたいですよ。まあ、仕方ないですね。生きているだけで充分ですよ」
生きているだけで充分、か。
殺人事件のように突然命を奪われることもあるし、戦いの中で命を落とすこともある。
誰だって明日、自分が死ぬことを考えることはないだろう。私たちの世代ならなおさらだ。
アルだって、ドラゴンに殺されていたかもしれない。
私だって、あの殺人犯に殺されていたかもしれない。
それを思うと、生きているだけでも充分なのかも。
「そうですね。貴方が生きて帰ってきて本当に良かった」
「貴方が生贄にならなくて良かった」
そして彼は左手で私の頬を撫でる。手、温かいな。
「覚えていますか、初めて会った日のこと」
微笑み言われ、私は恥ずかしさに思わずばっと、顔を伏せた。
忘れるわけがない。
だってあの日、私……
「わ、忘れるわけないです。だって」
「目が覚めたら裸で寝ていたから、ですか?」
はい、その通りです。
でもその後、妊娠の兆候はないし安心してはいるんだけど。あの日のことは未だに思い出せない。
「あの日に何をしたのか再現しようか」
そう、彼は私の耳元で囁く。
さ、さ、再現て、何?
「え、あ……」
戸惑っていると、アルフォンソはすっと椅子の横に立つと私に手を差し出した。