この世界には、数多の異なる種族が暮らしている。
常若の森を治め、自然と調和しながら生きるエルフ達。彼らは万物の理を知る賢者として崇められていた。
地下の王国で鍛冶の技を磨き続けるドワーフ達は、その堅牢な肉体と最先端の技術で幾多の戦場を踏みしめてきた。
深き海底に豪奢な宮殿を築き上げた人魚の一族は、その美しさと共に恐るべき戦術で知られ、海戦では無敗の伝説を築き上げていた。
天空の彼方に棲まうハーピー達は、高みから世界を見つめ続けていた。
そして地上では人間達が、この世界の大半を占める種族として、着実に歴史を紡ぎ続けていた。
他にも数え切れないほどの種族が、この世界には存在していた。
それぞれが独自の文化を持ち、独自の歴史を刻み、そして時には争い、時には手を取り合いながら生きているのだ。
そんな中で異質な存在として恐れられている種族がある。
ヴァンパイア───
遥か昔、世界を揺るがせた大戦の時代。ヴァンパイアたちは闇と共に舞い降り、生命を持つ全てのものから血を吸い尽くしていった。
彼らの前に立ちはだかった軍隊は次々と飲み込まれ、幾つもの国が一夜にして滅びへと追いやられた。
その性質は残虐非道そのもの。戦いに特化したその身体構造は、まさに「殺戮の為の種族」と呼ぶに相応しかった。
不死に限りなく近い生命力は、どのような傷をも癒やしてしまう。首を斬られようが、細切れにされようが……最上位種に近ければ近いほど、完全なる不死に近付く。
彼らは理性を持つ存在でありながら、その本質は人ならざる何かだったのだ。
そんなヴァンパイアの中でも特に恐れられた一族がいる。
『始祖』と呼ばれるヴァンパイアの最上位種。
根源の血筋として、全てのヴァンパイアの頂点に立つ存在。
彼らの筆頭は邪悪なる魔法の使い手であり、同時に比類なき軍事の指導者でもあった。
畏敬と畏怖の念を込めてその一族はこう呼ばれた。
月すら食らいつくし、地上に堕とす始祖──
───ルナフォール、と。
♢ ♢ ♢
「──優雅に、そして美しく」
艶やかしい声が、大広間に優雅に響き渡る。
目が眩むような豪奢な調度品が並ぶ巨大な大広間。シャンデリアの輝きは、星空を室内に閉じ込めたかのように辺りを照らし出す。
そこでは今、貴族たちによる華やかな舞踏会が催されていた。
ドレスのすそを翻し、ノーブルヴァンパイアと呼ばれる吸血鬼の貴族たちが艶やかに舞う。彼らの動きは何とも優美で、生きた芸術作品とでも言うべき美しさだ。
「さぁ、舞え。我が永遠の虚無を紛らわせるために」
まるで絵画のような優雅な光景──と、一見そう見えるこの舞踏会だが、よく見ると人間のそれとは大きく異なる点があった。
「おや、バートリー卿。今宵のお供は南方の領主の血でしょうか?」
「いえいえ、これは西の辺境伯爵家から頂いた高級ワインに、ちょっとばかり新鮮な処女の血を混ぜたものです。これがまた絶品でして」
シャンデリアの下を舞う貴族たちは、時として黒い翼を広げ、宙へと舞い上がる。
大広間の天井まで届きそうな高さを、ドレスの裾を翻して自在に舞う姿は、優雅な蝙蝠を思わせる。
「あら、ヴィヴァリエ様。その舞踏、素敵ですわ。狩りの時のように優雅ですこと」
「ふふ、お褒めに預かり光栄ですわ。先日仕留めた商人たちも、この踊りに見とれていましたの」
床を踊る者、宙を舞う者。
艶めかしい衣装に身を包んだ貴婦人たちは、コウモリの翼でバランスを取りながら、パートナーと共に複雑な空中舞踏を披露する。
グラスを片手に談笑する者たちの手にしているのは深紅の液体。香り立つ高級ワインに、ほんの少しばかりの生きた血液を混ぜるのが、彼らの間での粋な飲み方だった。
「今宵の月は素晴らしい。まさに狩りに最適な夜ですね」
「そうですね。このまま宴の後、近くの村にでも寄り道するのはいかがですか?」
「おや、それは素敵な提案ですわ。新鮮な血で締めくくるのも乙なものですもの」
キラキラと輝くシャンデリアの光を受けて、貴族たちの紅い瞳が妖しく光る。
優雅で美しい社交の場でありながら、彼らの会話の端々に垣間見える残虐性が、ここが人ならざる者たちの宴であることを如実に物語っていた。
そんな華やかな宴の最中──。
「……」
一人の青年が、広間の中央へと歩み出た。
白銀の髪が光を受けて煌めき、人形のような完璧な美しさを醸し出している。彫刻のように整った顔立ちは、見る者の息を呑ませるほどの気品に満ちていた。
それを見たノーブルヴァンパイアたちは、月を見上げる花々のように、一斉に恍惚の表情を浮かべた。
「あぁ、スピラーレ様がお出ましになられた。この舞踏会に相応しい、なんと麗しいお姿……」
「公国の誇り、白銀の髪……。月の光を纏っているかのようなお美しさ……私たちヴァンパイアの理想そのものですわ」
貴族たちの視線は、まるで蝋燭の炎に集まる蛾のように、自然と彼へと引き寄せられていく。
ヴァンパイアたちは皆、白磁のような白い肌を持つ種族として知られている。
しかしその青年──スピラーレと呼ばれる彼の肌は、さらに一段と白く美しかった。月の光を閉じ込めたかのような、神秘的な輝き。
それこそが、彼が『始祖』たる所以。
そんな彼に、一つの影が近づいていく。
漆黒のドレスに身を包んだ令嬢は、深紅の瞳と白磁のような肌を持ち、その美しさは見る者の息を呑ませるほど。
「──スピラーレ殿下」
黒檀のように艶やかな長い髪は、彼女の動きに合わせて優雅に揺れている。
ルナフォール一族ほどではないものの、始祖の血を色濃く受け継ぐ大貴族の令嬢。
彼女は妖艶な微笑みを浮かべながら、スピラーレへと歩み寄った。
「この美しき月夜に、私めにお一つお時間を頂戴くださいませ」
その言葉にスピラーレは、微笑みを浮かべて頷いた。彼の仕草の一つ一つが、芸術のように美しい。
二人は互いの手を取り、まずは床を滑るように踊り始める。
その動きは水面を渡る風のように優雅で、やがて二人は同時に黒い翼を広げ、大広間の空中へと舞い上がった。
漆黒と白銀の髪が空中で交わり、まるで闇夜に輝く月のような対比を描く。
シャンデリアの光を浴びながら、二人は複雑な軌道を描いて舞う。時に急降下し、また優雅に上昇する姿は、まさに夜空を支配する者たちの舞踏。
「まぁ、なんて素敵な光景でしょう」
「あの二人の姿、まるで月下の狩りを思わせますわね」
「スピラーレ様の気品に満ちた舞い、流石は始祖様でございます」
貴族たちは、艶やかな視線を二人に投げかけながら、羨望の声を漏らす。
それは純粋な賞賛であると同時に、スピラーレへの破滅的な憧れをも含んでいた。
夜の宴にふさわしい、優美なる舞踏。しかしその美しさの中にも、どこか人の世ならざる危うさが潜んでいた。まるで、獲物を魅了する蛇の舞のように……。
──しかし。
広間の最奥には、純金と宝石で贅を尽くして作られた玉座があった。
月そのものを模したかのような、まばゆいばかりの豪奢な椅子。
そこに一人の人影が座していた。
「何たる倦怠にまみれた夜宴。私の瞳には、虚飾の舞踏が映るのみ」
低く呟かれた言葉は重く、冷たかった。
次の瞬間──。
「あっ」
誰かが間の抜けた声を漏らした。それは恐らく、最後に発した言葉となった。
パンッ──と。乾いた音が響き、まるで紅い花が咲いたかのように、血沫が空中に舞う。
それはつい先ほどまで、ノーブルヴァンパイアの誇り高き貴族であった何か。
「──」
高価な衣装も、気位高い肉体も、一瞬のうちに木っ端微塵となって広間に飛び散った。
それは貴族というオブジェが、突如として内側から破裂したかのような光景だった。
周囲の貴族たちが理解するよりも早く、血の飛沫は床に落ち、高価な絨毯を赤く染め上げていった。
「無様。せめて散華の舞を私に捧げよ」
玉座に座す人物が交響楽の指揮者のように、優雅に指を振る。
その仕草に合わせ、貴族たちの肉体が次々と綺麗な花のように咲き誇る。
否、爆ぜ散る。血飛沫が描く軌跡は、狂った芸術作品のようでもあった。
「さあ、舞え。咲き誇れ。命の輝きだけが、私に虚無を忘却させる」
玉座からの言葉は、詩のように美しく響く。
次々と崩れ落ちていく貴族たち。彼らの最期は音楽に合わせた壮大な舞台劇であった。
そうして狂った殺戮の幕が下りた時、広間で舞い続けていたのは、スピラーレと令嬢のみとなっていた。
血に染まった大広間を、二人のヴァンパイアは今なお優雅に舞い続けていた。
まるで周囲の惨劇など存在しないかのように、あるいはそれを舞台装飾の一部として受け入れているかのように。
「……」
その光景を見上げていた玉座の人物が、ゆっくりと立ち上がった。
──ルナフォール大公、カルネヴァーレ。
始祖の証たる白銀の髪は、月の輝きよりも煌めき、その長い髪が動くたびに幻想的な輝きを放つ。
かつて多くの男たちの心を狂わせたという類い稀なる美貌は、悠久の時を経た今もなお、その輝きを失っていない。
神々しいとさえ言えるその美貌。しかし、その紅玉のような瞳の奥底には、形容しがたい何かが潜んでいた。
それは数千年の時を生きた者だけが持つ老獪さか、あるいは狂気か。
広間に散りばめられた血の海が、カルネヴァーレの足下で静かに波打つ……。
彼女は無言で、踊り続ける二人の真下まで歩を進めた。
そして、その場で翼を広げた。他のヴァンパイアの翼とは明らかに異なる、夜空そのものを切り取ったかのような漆黒の翼。
優雅に舞い上がり、二人と同じ高度に達したカルネヴァーレは、芸術作品を鑑賞するように腕を組んで首を傾げた。
「うーん」
不意に漏れた彼女の声は、先ほどまでの気高さを微塵も感じさせない、なんとも気だるげな響き。
「あー、なんか微妙。ステップが単調だし、翼の使い方もイマイチだし。空中での回転も子供みたいだし。足の角度がダメダメだし。二人の呼吸も合ってないし」
その言葉に、二人の動きが氷結したかのように止まった。
そして──。
「18点。あ、もちろん1000点満点中ね。さっき爆散したゴミ共の最期の痙攣の方が、よほど優美だったわ」
カルネヴァーレは、ワルツの終わりを告げるように、パチンと指を鳴らす。
その音が鳴り響いた瞬間、スピラーレと令嬢の身体が、まるで花火のように華々しく爆散した。
「うぐっ!?」
「ぎゃあ!!」
その光景はある意味芸術的とも言えるほどの美しさで、高価なドレスの切れ端や、キラキラと輝くアクセサリーの破片が、血飛沫と共に舞い散る。
そして、爆発の余波に乗って、二人の頭部だけが宙を舞う。
ボールのように、ゆらゆらと。
そして、その頭部の口がゆっくりと開き──
「あの、母上。1000点満点中18点って、ちょっと厳しすぎない?せめて100点満点中なら諦めもついたんだけど」
スピラーレの頭部が、どこか呆れたような口調で呟く。
「本当ですわよねぇ~。カルネヴァーレ叔母様ったら、いつもより厳しいですわ~。もしかして、ご機嫌ナ・ナ・メ?」
令嬢の頭部も同意するように相槌を打った。自分たちの体が粉々になった事実など、どうでも良いとでも言うように。
そして、二人の頭部がそう会話を交わした直後……。
「では、これにて本日の舞踏会は終了。お前たちの見るに堪えないタコ踊り、存分に堪能させて貰ったわ。あぁ、不眠症の特効薬として考えるなら、今宵の舞踏会は完璧な出来栄えだったけど」
カルネヴァーレは、まるで蝶を追い払うかのような、優雅な手の仕草を見せる。
その瞬間、宙を舞っていた二つの頭部が、ボンッ!と派手な音と共に弾けた。
その直前にスピラーレの口から「せめてキリのいい20点に……」という言葉が漏れかけたが──それは既に誰の耳にも届かない。
血に染まり、肉片が散らばった広間に、カルネヴァーレだけが残される。
豪奢な調度品は台無しになり、高価な絨毯は血の海と化していたが、彼女の姿だけは一切の汚れを寄せ付けないかのように、美しく輝いていた。
「ああ、なんという倦怠感。退屈という言葉すら生ぬるいわ。この世界の全てが虚無そのもの。正直、死んでしまった方がましね。死ねたらの話だけど」
彼女は血染めとなった広間で、ただ一人月光を浴びながら佇む。その姿は美しく、そして寂寞としていた。
──ここはルナフォール公国。
「誰か私を、殺してくれないかしら」
命も、価値観も、道徳も、全てが歪んだ狂ったヴァンパイアの国。
月の光だけが、永遠に続く狂気の夜を照らし続ける。
その月の下で、始祖たる吸血鬼は、果てしない退屈との戦いを続けるのだ。
それはきっと、永遠に──。