──ルナフォール公国。
ヴァンパイアの頂点に君臨する「始祖」、ルナフォール一族が支配する闇の国。
その名を聞くだけで、世界中の種族が震え上がるという恐るべき存在。
今でも世界中の子供たちは、寝物語として語り継がれるルナフォールの恐怖に震えている。
人魚は深海に逃げ込み、ハーピィは更なる高みへと飛び去り、エルフは森の奥深くに姿を隠す。それほどまでに、世界はルナフォール一族を恐れていた。
公国には、朝日が昇ることはない。
これは詩的な表現でも、比喩でもない。文字通り、この国には太陽の光が射すことはないのだ。
大魔法使いとして名高いルナフォール大公・カルネヴァーレの魔法により、国全土が永遠の闇に包まれている。
世界中の魔法使いが「不可能」と断言した永久魔法陣を、彼女は悠々と展開してみせたのだ。
そう、ここは永遠の夜の国。
魔法によって創られた真紅の月が、公国の国土を不気味に照らし続ける。
昼も夜もない永劫の闇夜。
まさにここは、人の世とは隔絶された別世界。太陽の光を拒絶し、紅い月の輝きだけを纏う、狂気の楽園──。
そんな恐ろしき公国の中心に、ルナフォール一族の居城は建っていた。
真っ黒な岩山の頂に築かれたその城は、まるで月に向かって牙を剥くかのように天を突き刺していた。
空へと伸びる尖塔群は不気味な影を落とし、無数の彫像は血に飢えた野獣のように牙を剥いている。
エルミアが見れば、一目で『あれラスボスが住んでる城じゃん』と突っ込みそうな外見の城……。
その居城の一室……王族の私室で、何かがもぞもぞと動いていた。
それは、まるで生きた肉の塊のようで……不定形な肉塊は気味の悪い音を立てながら蠢き、次第に人の形へと変化を始める。
もぞもぞ……。
骨が形作られ、内臓が整列し、血管が張り巡らされていく。その様子は、逆回しの腐敗。
もぞもぞ……。
「うぅ~ん……」
……と、突如として人の声が漏れた。
もぞもぞと蠢く肉塊は、徐々に人型へと変貌を遂げていく。そうして姿を現したのは、息を呑むほどの美貌を持つ青年だった。
月光を固めたような白銀の髪は、真珠のように白い肌に映えて神々しささえ感じさせる。その整った顔立ちは、彫刻家が理想を追い求めて作り上げた芸術品すら及ばない。
彼は豪奢な装飾が施された『棺桶』の中で、一糸纏わぬ姿のまま背伸びをする。
「うっ……どれくらい『死んで』たのかな」
慵懶な声が漏れる。
──彼こそが、スピラーレ。
大公カルネヴァーレの息子にして、ルナフォールの始祖の血を最も色濃く受け継ぐ王子である。
彼は片手で長い白銀の髪をかき上げながら、大きな欠伸をする。その仕草は人間の寝起きそのものだが、棺の中で肉塊から再生する様子は、明らかに人ならざる者のそれだった。
「はぁ……母上に粉々にされて死ぬのも、もう何度目かな」
彼は溜め息まじりにそう呟きながら、ゆっくりと棺から身を起こす。
「お坊ちゃま。御召し物でございます」
突如として暗闇から声が響く。
その声の主は一人のメイド。艶やかな黒髪をボブカットに整え、真っ白な肌は陶器のように滑らかだ。
背中からは小さな蝙蝠の翼が生えているが、それすらも彼女の佇まいの一部として違和感なく調和している。
無表情な瞳には、幾星霜もの時を見つめてきた静謐さが宿っていた。
彼女の名は、ヴィオラ。
スピラーレの専属メイドにして、数千年の時を生きる古のヴァンパイア。見た目こそスピラーレと変わらぬ若さだが、実際の年齢は計り知れない。
その血には僅かだが始祖の血も流れており、ノーブルヴァンパイアの中でも特に気高い血統を持つ者の一人だ。
彼女は完璧な無表情を保ちながら、闇と同化したかのように静かに佇んでいた。
「ありがとう、ヴィオラ。そこに置いてくれるかな?僕はもう『子供じゃない』からさ、一人で服を着れるんだ」
スピラーレは「子供じゃない」という言葉に、妙に力を込めて発音した。
しかし、ヴィオラはその言葉など耳に入れなかったかのように、まるで赤子の世話をする母親のごとく無表情のままスピラーレへと近づいていく。
それを見たスピラーレの表情が、微かに歪んだ。
「どうやら僕の言葉が聞こえなかったようだね。では、もう少し分かりやすく言い直そうか。『そこに、置いて、くれる、かな?』」
ヴィオラは一瞬だけ足を止めた。そしてゆっくりと口を開く。
「しかし坊ちゃま。私にとっては千年も生きていらっしゃらない貴方様は、まだまだ可愛らしい赤子同然。ほら──」
その言葉が空気を切り裂いた瞬間──。
「!?」
ヴィオラの姿が、まるで霧が晴れるように消え去った。
まるで朝霧が晴れるように、ヴィオラの姿が霞んでいく。
これこそが高位のヴァンパイアのみが持つ特殊能力、霧化──。
スピラーレの背中の翼が、微かに震える。そして次の瞬間、彼の背後に物質として再構築されたヴィオラの姿があった。
彼女は血のように紅く研ぎ澄まされた爪を、スピラーレの首筋に優しく這わせていた。
「ひっ!?」
思わず情けない声を漏らすスピラーレ。始祖の威厳も何もあったものではない。
そしてヴィオラは、氷のように冷たい声で告げた。
「私のペットの蚊にすら負けるであろう、生後三日の蝙蝠以下の反応速度。これが高貴なる始祖様の実力とは……お世辞にも『子供』以外の言葉が見つかりません」
その無表情から紡ぎ出される言葉は、凍りつくような毒気を帯びていた。
震え上がるスピラーレを横目に、ヴィオラは光のような速さで下着と衣服を整えていく。その手さばきは数千年の経験を物語り、まるでスピラーレが人形のように扱われていく。
始祖の誇り高き王子は、今や赤子のように彼女の手に身を委ねるしかない。時折漏れる小さな悲鳴すら、彼女の耳には可愛らしい泣き声としか聞こえないようだ。
そうして、あっという間にスピラーレの姿は、ルナフォール一族に相応しい気品漂う王子の装いとなった。豪奢な衣装に身を包まれた彼は、まさに始祖の威厳を体現したかのようで──。
……もっとも、着替えの過程での惨めな姿を知るヴィオラにとっては、所詮着飾った赤子にしか見えないのだが。
「申し分のない着付けでございますが……残念ながら、坊ちゃまの根本的な存在価値の低さだけは、私にも直しようがございませんわ」
ヴィオラは完璧な無表情のまま、天気の話でもするかのように毒を吐く。
「きみ、本当に僕の従者?」
「ええ、もちろんでございます。この世で最も価値のない始祖様の、最高の従者にして保育士でございますから」
彼女の言葉には一片の感情も込められていないのに、その無機質な毒気だけは確かに心臓に突き刺さる。しかし、スピラーレにはそれに反論する術がない。
たとえ最上位種である始祖の血を引いていようと、彼にとって彼女は特別な存在なのだ。
スピラーレが初めて肉体を形成した時から、その成長を見守ってきた乳母のような存在。まさに第二の母と言っても過言ではない。
もっとも、普通の母親なら我が子を慈しみ育てるものだが、ヴィオラは容赦のない毒舌で彼を育て上げてきた。「これでもまだ甘い方です。坊ちゃまが自分で靴紐を結べるようになるまでは、もっと酷かったはずですが」などと本人は言うが、確かにそれを思い出すだけでスピラーレは震えが止まらない。
「ところで」
ヴィオラは、氷の彫像のような無表情のまま切り出した。
「大公様より言付かっております。『あの戦闘力も知能指数も蚊以下の出来損ない始祖が目を覚ましたら、即刻この私のところまで引きずってこい』とのことですが」
「う~ん。『戦闘力も知能指数も蚊以下の出来損ない始祖』って、完全にキミの脚色が入ってる気がするんだけど、どうかな?」
「なんと。たまには的確な思考ができるのですね。御見それしました、坊ちゃま」
「……」
スピラーレは深いため息をつく。これが彼の日常なのだ。
始祖という最上位種でありながら、赤子のように扱われ続ける生活。
しかも母親からも召喚がかかるというのだから、今日もまた地獄の一日が始まる。
「はぁ……それで?みんなはまだ再生してないの?」
スピラーレは髪を掻き上げながら、憂鬱そうに尋ねた。
彼の言う「みんな」とは、先日の舞踏会でカルネヴァーレによって派手に爆散させられた貴族たちのことである。
ヴァンパイアという種族は、その身体が粉々になろうと、塵と化そうと、簡単には死なない。それは始祖の血が濃くなるほどに顕著な特徴となる。
つまり、あの血しぶきと肉片が飛び散る無残な光景の中でも、死者は……なんと、一人も出ていないのだ。
通常であれば、あと三日もすれば貴族たちは普段通りに目を覚ますだろう。
「今回の爆発の仕方は少し地味だったかな」などと他愛もない会話をしながら、まるで昨夜の宴の二日酔いでも治すかのように、のんびりと起き出してくるはずだ。
そう、これがヴァンパイアの日常。派手に散り、優雅に再生する。それは彼らにとって、まるで着替えるようなものかもしれない。
「現時点では坊ちゃまお一人ですが……まもなくジュリエッタ様も目覚められるかと」
「なるほど。つまり母上の前に一番最初に引きずり出されて、また粉々にされるのは僕だけかぁ。……素晴らしい朝の始まりだ」
ジュリエッタは、スピラーレの従妹にして、先の舞踏会で共に舞った令嬢である。
彼女とは昔からの付き合い……というより、共に殺され続けてきた戦友とでも言うべき関係だ。二人とも母・カルネヴァーレの目から見れば「クソ雑魚蝙蝠」なので、よく一緒に粉々にされてしまう。
時にはスピラーレが彼女の失態に巻き込まれて爆散し、またある時は彼女がスピラーレの不始末のせいで木っ端微塵になる。まさに運命共同体と言えるかもしれない。
「このルナフォール城で、母上に一番殺されているのは間違いなく僕とジュリエッタだよね」
「ええ。お二人の『クソ雑魚コンビ』としての絆は、爆散の度に深まる一方ですわ」
その皮肉めいた言葉に、スピラーレはため息しか出なかった。
「実は舞踏会の後、カルネヴァーレ様の『イライラ指数』が素晴らしいことに通常の10倍に達しまして。城内の様々な物たちが粉々になる栄誉に与りました」
ヴィオラは、珍しく無表情に僅かな歪みを見せながら言った。
「え、そうなの?」
「ええ、それはもう壮観。西翼の塔が吹き飛び、東の庭園が蒸発し、執務室の調度品が灰になり……城内を歩いていた貴族様方が次々と爆散の栄誉に浴され、私の飼育していた蚊の家族も、恐怖のあまり全匹逃亡してしまいました。おまけに執事長は『お前使えない、くたばれ』と言われて五回爆発させられ……ああ、思い出すだけで胃が痛くなりますわ」
「えぇ……?」
スピラーレは青ざめた。母の機嫌の悪さを図る目安は、城の崩壊具合と爆発する人数で測ることができる。そして今回の数値は、明らかに警戒レベルを突き抜けていた。
これはまさに、始祖級の災害と言っても過言ではない。
「坊ちゃま……大公様の前で一体どのような格別に無様なタコ踊りを披露なさったのですか?」
「い、いや……あれは全部ジュリエッタのせいなんだ。僕の舞踏は完璧……まぁ、60点くらいはあったはずなんだけど、彼女が羽と足を引っ張るもんだから……」
「なんと情けない言い訳。女性に責任転嫁するだなんて、坊ちゃまにしては珍しく創造性のある言い訳ですこと。しかし残念ながら、お二人の『史上最低の舞踏』は既に城中の噂になっておりますわ。コウモリたちの間では『見ると目が腐る死の舞踏』という新しい煽り文句が生まれたほどです」
「ぐっ……」
スピラーレは言葉に詰まった。確かに、ジュリエッタのせいにするのは卑怯だった。
しかし、それを指摘されたところで状況は何も変わらない。彼は今から、最高位の始祖でありながら、叱られる子供のように母の元へと連れて行かれるのだ。
「ぼ、僕たちの踊りが少しばかり……いや、ちょっとだけ?下手だったのは認めるけど……最近ずっと、母上の機嫌が悪いのは確かだろ?」
スピラーレが情けない言い訳を口にする。確かに、それは紛れもない事実だった。
カルネヴァーレは最近、特に荒れていた。
昨日は「空気の流れが気に入らない」と言って城の塔を吹き飛ばし、一昨日は「月の角度が気に障る」と言って使用人たちを魔法月まで吹き飛ばし爆発させ、先週に至っては「風が南から吹いている」という理由だけで、城の南側を全て消し飛ばしてしまったのだ。
元々、残虐の化身のような母ではあったが、最近はその暴虐性が倍増している。
一番酷かった時は、スピラーレが「おはようございます」と挨拶しただけで、「貴様の舌の動き方が、私の審美眼を著しく損なっている」と言って、その場で顔面を吹き飛ばされたのだ。
もはや城の住人たちは、「今日は何の理由で爆発させられるのか」を予想するのが日課となっていた。
「確かにカルネヴァーレ様のご機嫌は最悪ですわね。もしや、『出来損ない息子』の存在自体に胃もたれを起こしていらっしゃるのかもしれませんわ」
「……その『出来損ない息子』を育てた老婆メイドも一緒に粉々になれそうだね。母上も喜ぶと思うよ」
「……は?老婆?……今、なんと?」
無表情だったヴィオラの表情が、大きく歪む。
「そうじゃん。だってヴィオラは僕が産まれる前から……ぐはっ!?」
スピラーレの言葉が途切れたのは、ヴィオラの拳が彼の腹部に深々と突き刺さったからだ。
「あら、手が滑りましたわ。でも安心してください。このまま気を失って母上の元へ運ばれる方が、坊ちゃまにとっても楽でしょう?」
意識が遠のく中、スピラーレは満足げににんまりと微笑むヴィオラの表情を見た。
そして耳元で囁かれる最後の言葉。
「では、坊ちゃまの最愛の母上の元へ、この『老婆』がお連れいたしますわ。素敵な再会になることを……祈っております」
もう二度と目を覚まさなくていい永遠の眠りに就けたら、どれだけ素晴らしいだろう。
そんな儚い願いを胸に、スピラーレは意識を手放していく。
母・カルネヴァーレに粉々にされるのと、永遠の眠りと、どちらが幸せなのだろうか。
……まぁ、どちらにしても母上は自分を爆散させるのだろうけれど。
そんな諦観めいた思いを最後に、スピラーレは無意識の闇へと身を委ねた。
目覚める時には、きっとまた新たな地獄が待っているに違いない。
──まさにヴァンパイアらしい、終わりなき悪夢の一幕である。