ルナフォール城の謁見の間。
黒曜石で作られた巨大な柱が天を突き刺すように立ち並び、その間を血のように赤い絨毯が走る。
壁には過去の戦勝を描いた壁画が不気味に蠢き、天井からは無数の水晶が垂れ下がっている。
その奥に置かれた漆黒の玉座に座すのは、ルナフォール大公カルネヴァーレ。
全てのヴァンパイアにとって、彼女は神にも等しい存在。月光を編んだような白銀の髪は腰まで伸び、その妖艶な美貌は見る者の理性を奪う。
しかし同時に、その紅玉のような瞳の奥底には、誰も近寄れないほどの残虐性が潜んでいた。
そんな彼女は今、玉座から身を乗り出すようにして、床に気絶して転がる「息子」を見下ろしている。その表情には明らかな不快感が浮かんでいた。
不意に。
カルネヴァーレは優雅に右腕を上げ、スピラーレに向かって指を翳した。
その瞬間、大理石の床が華麗に爆散する。閃光と共に、大きな音を立てて床が跳ね上がり、衝撃波と共にスピラーレの身体が人形のように宙を舞った。
「うぎゃあ!?」
情けない悲鳴を上げながら、スピラーレは見事な放物線を描いて反対側の壁に激突。そして床に転がり落ちる。
彼の意識が爆発と衝撃で完全に覚醒する中、カルネヴァーレは実に退屈そうな表情で言った。
「目が覚めたか」
目が覚めたか、ね。
──もちろん目が覚めるさ。大好きな母上が爆発アラームで起こしてくれたんだから。
そんな皮肉めいた思考が頭をよぎったが、スピラーレはそれを口には出さない。そんなことを口にした日には、今度は自分が床と同じように木っ端微塵になるのは目に見えているからだ。
「母上の御前でこのような恥ずかしい姿をお見せし、誠に申し訳ございません。不肖、このスピラーレ、参上いたしま……がはぁっ!?」
丁寧な挨拶の言葉は、最後まで紡ぎきることができなかった。
それもそのはず。彼の首が、バターを切るかのように胴体から綺麗に分離されたのだから。
背後で、目に見えぬ魔力の斬撃が、空気を切り裂いて過ぎ去っていく……。
首のない胴体が、ピエロのように滑稽な動きで倒れ込んだ。
一方、宙を舞う頭部からは断面から血が噴水のように吹き出していた。これはまさに、母から息子への愛情表現……ではないだろう。おそらく。
人の世の常識からすれば、これはまさに惨劇以外の何物でもない。しかし、ここはルナフォール。こういった風景こそが、むしろ日常なのだ
鮮血を噴き上げながら宙を舞うスピラーレの頭部は、まるで投げ上げられたボールのように回転する。
そしてカルネヴァーレの優雅な指先が、スピラーレの頭部をキャッチし……。
「こ……こひゅっ……」
スピラーレは必死で声を絞り出そうとする。「いきなり何をするのですか」と抗議の言葉を投げかけたいのだが、肺との接続を断たれた喉からは、かすかな音しか漏れない。
首の切断面から伝わってくる激痛の中、彼は母の腕の中で無力に震えることしかできない。
カルネヴァーレは愛おしそうに……いや、実験材料を観察するような冷たさで、息子の頭部を抱き寄せる。
「……」
その紅玉のような瞳には、一片の温もりも宿っていない。
母と息子の視線が交差する中、そこにあったのは純粋な支配者の威圧感だけだった。
「スピラーレ。お前が生まれてから早や十数年……強さも、優雅さも、踊りも、全てにおいて期待外れな息子だったけれど、年齢だけは立派に重ねたものね」
突如として語り始める母の言葉に、スピラーレの切断された頭部は困惑する。
いや、もっと根本的な疑問としてなぜ首を切断したのかを説明して欲しい。それとも母にとって、息子の首を切り落とすのは挨拶程度の些細な行為なのだろうか?
スピラーレの眼差しに浮かぶ戦慄を余所に、カルネヴァーレは淡々と言葉を紡ぎ始める。その表情からは、息子の頭部を手に持っているという異常事態を気にも留めていない様子が窺えた。
「イレネス大連邦での留学はどうだった?公国の外では、さぞかし他種族と交わる楽しい思い出が作れたでしょうね」
──イレネス大連邦。
それは複数の種族が寄り集まって形成された、かつてない多種族共存国家。大戦末期、戦火の灰燼の中から産声を上げたこの国は、やがて世界の覇権を握る存在へと成長していった。
イレネスを中心として次々と周辺国を引き寄せ、連邦という形で纏め上げていく。その勢力は留まることを知らず、今や世界の大半がイレネス大連邦の影響下にあると言っても過言ではない。
数多の強大な魔法使いを擁するイレネス大連邦は、文化や学術においても世界の最先端を行く。世界中から様々な種族の王族や貴族が、かの地で学びを深めようと集まってくるのだ。
その中でも特に有名なのが、首都に設立された大学都市。そこでは種族の垣根を超えて、エルフもドワーフも人間も、共に机を並べて学んでいた。
それはまさに、大戦後の世界が目指した理想の具現化とも言えるだろう。
「(どうって言われても……そりゃ……そりゃあ……最高に決まってるじゃないか!)」
実は最近まで、スピラーレはイレネス大連邦の学園に留学していた。
親元を離れての留学というと、普通は寂しさや不安を感じるものだろう。しかしスピラーレにとって、それは人生最高の贈り物だった。
毎日のように首を飛ばされ、気分次第で木っ端微塵にされる日常から解放されるのだ。これ以上の幸せがあるだろうか。
イレネスでの生活は、まさに天国そのものだった。
誰も彼を爆発させず、首を切り落とさず、粉々に吹き飛ばさない。他の種族の学生たちは、まるで当たり前のように「死なない」日々を過ごしていた。
なんと数年に及ぶイレネスでの学園生活で、スピラーレの死亡回数は……0。たったのゼロである。
この事実は、スピラーレの価値観を根底から覆した。
なんと素晴らしい世界なのだろう。朝に目が覚めて、そのまま夜まで生きていられる。これこそが、他の種族たちにとっての「普通」なのだと知った時、スピラーレは心の底から感動したものだった。
まさに天地がひっくり返るような衝撃的な発見。それが彼にとってのイレネス留学だったのである。
だが、そんな正直な感想を口にすれば、間違いなく母の逆鱗に触れることになるだろう。
ここは上手く立ち回るべきだ。母上と離れて寂しくて、毎日帰りたいと思っていた──そんな嘘をつくのが賢明な選択に違いない。
もちろん、それは真っ赤な嘘だ。実際のところ、スピラーレは二度と帰りたくないと心の底から願っていた。いや、むしろイレネス大連邦への亡命申請書類を書き上げるところまでいっていたほどである。
(なお、その試みは「ルナフォール公国を敵に回したら我々の学園が丸ごと蒸発する」と悲鳴を上げた教職員たちによって必死に阻止された。彼らは寝る間も惜しんで亡命申請書類を探し回り、見つけては破り捨てたという)
「カ……カヒュウ……」
そう嘘をつこうとした瞬間、スピラーレは重要な事実を思い出した。
そうだった。母に首を切断されていたのだ。声が出ないのは当然である。
……ということは、嘘をつく必要もないということか。
むしろ今なら本音を声に出して、喋ったフリをしても問題ない。なんて素晴らしい機会なのだろう。
スピラーレは心の中で小さな勝利を噛みしめながら口を開き──
「あ~、そりゃもう最高だったに決まってんじゃん?なにせ狂ったクソババァに殺される心配もないし、連邦の人たちは『脳みそが正常に機能している』っていう、なんとも珍しい特徴を持ってるみたいでさ。僕びっくりしちゃったよ。
だってほら、公国のヴァンパイアって、みーんな頭のネジが何本か吹っ飛んでるっしょ?毎日殺されすぎて正気を失ったんだと思ってるけど。でも連邦のヴァンパイアはなんていうか、理性的というか……。
多分さ~、『狂気の権化』みたいな存在が近くにいないから、浄化されてるんだと思うんだよね。なんていうか、同じ種族とは思えないくらい常識的で……それに、他の種族だってみんな優しくて……ん?……あ、あれ?」
スピラーレの顔から血の気が引いていく。
な、なんで声が出る!?常識的に考えて、首から切り離された頭部だけで喋れるわけがない。それどころか、自分は今、とんでもない暴言を……。
そこでようやくスピラーレは気付いた。カルネヴァーレの指先から魔力が溢れ出し、まるで生命維持装置のように彼の頭部を包み込んでいることに。
「は……母上、今のは誤解です!そう、これは、その、まだ脳味噌の機能が完全に回復していない状態で……つまり、理性を失った戯言っていうか?うん……」
スピラーレの慌てた言い訳に、カルネヴァーレは一切の反応を示さない。
ただ、氷河期すら温かく感じられるような絶対零度の瞳で、腕の中で震える息子の頭部を見つめている。
どうすれば……どんな言葉を紡げば、この修羅場を生き延びられるのか。
スピラーレの思考が悲鳴を上げながら回転する。しかし、もはや有効な打開策など思いつくはずもない。
もう終わりだ……おしまいだぁ。
そう絶望的な思いに包まれた、その瞬間──。
「そう」
次の瞬間、スピラーレの頭部は宙を舞っていた。
まるでパズルのピースがはめ込まれるように、いつの間にか立っていた自身の身体の断面に、その頭部がすっぽりと収まる。
「えっ……?」
完璧な切断面と始祖としての異常な再生能力が相まって、スピラーレの首は何事もなかったかのように元通りとなった。
しかし、彼の困惑は深まるばかりだ。
なぜ母は、こうして彼の頭を身体に戻してくれたのだろう。普通なら……いや、カルネヴァーレの「普通」であれば、この時点で既に彼の頭部は握りつぶされ、脳漿が広間の壁を彩っているはずなのだ。
この異常な慈悲とも取れる行動に、スピラーレは背筋が凍る。
まさか……わざわざ首を元に戻したのは、全身をまとめて粉々に吹き飛ばすためか?
いや、そうに違いない。この残虐非道の化身たる母は、きっと実の息子を心ゆくまでいたぶって、ほくそ笑んでいるに違いない。
スピラーレは覚悟を決めて、来るべき魔法の衝撃に備える。といっても、できることなど何もないのだが。
せいぜい、すぐに意識を手放せるよう体の力を抜いておくくらいだろうか。
しかし、そんなスピラーレの予想は、母の次の一言で木っ端微塵に砕け散った。
「イレネスの学園で……誰か気になる相手でもできたのかしら?そろそろお前も年頃だから」
──!?
スピラーレの思考回路が完全に停止する。今、母は何と言った?
気になる相手?な、なんだその質問は?まるで普通の母親が息子に投げかけるような質問ではないか。
……いやしかし、この血と暴力の権化たる母が、そんな常識的な言葉を口にするはずがない。
きっと「気になる相手」というのは、「殺してやりたいほど憎い奴」という意味に違いない。
そうだ、そうに違いない。
「あ、その……嫌な奴は多少いましたけど……特別殺意を覚えるほどの相手は、いませんでしたね。はは……」
スピラーレは冷や汗を流しながら、慎重に言葉を選ぶ。
どこかで爆弾が仕掛けられているような気がして、一言一言が命取りになりそうだった。
「何を言っているの?気になる相手というのは、異性のことを指すのよ。常識でしょう」
「え!?あ、あぁ~!そうですよね!僕は一体何を……申し訳ありません……あはは」
母の口から「常識」という言葉が発せられたことに、スピラーレは心底震撼する。
これは血の雨でも降ってくるのではないだろうか。いや、それなら彼らヴァンパイアにとってはむしろ祝福の雨になるが。
「き、気になる異性、ですか。う~ん、そうですね……」
どう答えるべきか慎重に言葉を選びながら、スピラーレは思いを巡らせる。
……イレネスの学園での異性との関わり。実を言えば、それなりにあった。
各国の王族や貴族の子女が集う学び舎だけに、目を奪われるような美しい女学生は少なくなかったのだ。
不意に、スピラーレの脳裏に彼女たちとの交流の日々が蘇ってきた……。
『スピラーレ様、今日の魔法学の課題、一緒に勉強させていただけませんか?』
森の精のように優雅なエルフの女学生たち。その長い耳は感情に合わせて微かに揺れ、緑の瞳は知性に満ちていた。
『あたしの作った秘伝のお菓子、味見してくれない?家伝のレシピなんです』
小柄ながらも凛とした佇まいのドワーフの令嬢たち。その真摯な瞳と気品ある立ち居振る舞いは、地下の宮殿で育まれた高貴さを感じさせる。
『今度の休暇に、私たちの海底宮殿にいらっしゃいませんか?』
人魚の姫君は水晶のような透明感を湛え、その瞳には深い海の神秘が宿っていた。
『スピラーレ殿、今度の競馬大会、私と組んでくれないか?』
半人半馬のケンタウロスの貴族の令嬢は、まるで風を纏うかのような颯爽とした美しさで、誰もが振り返るほどの存在感を放つ。
『私の歌、聴いてくださいました?特別にあなたのために歌ったの』
大空の歌姫と呼ばれるハーピーの乙女たちは、その羽根が陽光を受けて虹色に輝き、歌声は誰の心をも魅了した。
皆、各国の誇る気高き血筋の持ち主だけあって、その佇まいには生まれながらの気品が漂う。
こうして振り返れば、スピラーレにとってイレネスでの学園生活は、至福の日々の連続だった。
死の恐怖も、爆発の心配もない。ただ純粋に、異種族の乙女たちとの優雅な交流を楽しむことができた。
「へへ……」
甘酸っぱい思い出に浸るスピラーレ。しかし、その瞬間、彼の右耳が華麗に爆散した。
「うぎゃーっ!?」
「質問が聞こえなかったようね。もう一度聞くわ。さもないと今度は左耳を粉々にして、耳なし芸術品に仕立て上げてあげる」
カルネヴァーレの手の中で、不吉な魔力の塊が蠢いている。スピラーレは慌てて背筋を正し、震える声で答える。
「は、はい!イレネスでは私も、死なない青春という素晴らしい体験をさせていただき、様々な種族の女性との交流を通じて見識を深めることができました!特に印象的だったのは、彼女たちが一度死んだら二度と蘇らないという、なんとも非効率的な生き方をしていることでして……!」
恐怖のあまり自分が何を口走っているか分からない。
その返答にカルネヴァーレが目を細める様子を見て、スピラーレの背筋が凍る。
また粉々にされる……そう覚悟を決めて目を閉じ、震える彼に──。
「へぇ……。まぁ、お前みたいなクソ雑魚蝙蝠が、普通に青春とやらを楽しめたのなら、それはそれで素晴らしい成長ね。期待値マイナスだったから、ゼロでも上出来よ」
「え?」
今の言葉、褒め言葉として聞いていいのだろうか。何を褒められているのかは皆目見当もつかないが……。
とにかく、これは悪い流れではないはずだ。
母カルネヴァーレの口から褒め言葉らしきものが出たこと自体が、奇跡と言っていい。いつもなら既に三回は爆発しているはずの展開なのだから。
そんな時。
突如として、スピラーレの足元にピラリと一枚の写真が落ちる。
……いや、ピラリどころか、次々とドサドサと降り注ぎ始めた。
「え……は……!?」
まるで血の雨のように、虚空から写真が降り続ける。
母の魔法で出現させたであろうそれらは、瞬く間にスピラーレの足元一面を覆い尽くしていく。やがてそれは小山のような高さにまで積み上がった。
「えーっと、あの。母上?これは一体……?」
困惑に満ちたスピラーレの声に、カルネヴァーレは一片の感情も込めずに告げる。
「お前の見合い相手の写真よ。その中から選びなさい」
──その瞬間、スピラーレの世界が凍り付いた。