「お、お見合い──?」
写真の山に埋もれながら、スピラーレは間抜けな声を漏らす。
見合い?母は一体なにを言い出すのか?
彼の脳裏には先ほどまでの学園生活の楽しい思い出が残っていたというのに、今度は見合い写真の山に埋もれている。
何故?どうして?いきなりなぜそんな話を?
混乱する息子に、カルネヴァーレはギラリと鋭い視線を向けた。その眼差しは、まるで獲物を見つめる蛇のように冷たく、鋭い。
「えぇーっと、その……」
スピラーレは困惑気味に言葉を濁す。
突然の見合い話にどう反応すればいいのか、皆目見当もつかない。思わず母の顔を窺うが、そこには……。
「早くしろ。殺すぞ」
カルネヴァーレの指先からは不吉な魔力が漏れ出し、その赤い瞳は危険な光を帯びている。
まさに、邪悪な魔法使いの本領を発揮しようとしているかのような雰囲気だ。
(や、やばい!これは断ったら即座に爆発コースだ!)
スピラーレは生存本能のままに、慌てて背筋を正すと、足元に散らばる写真を拾い始めた。
イレネスでの楽しかった学園生活が、まるで遠い夢のように思えてきた。結局のところ、彼の人生は母によって好き勝手に翻弄されるのが運命なのかもしれない。
「……!」
ゆっくりと手の中の写真を開く。震える指先に力を込めると、そこには──。
漆黒の髪を背に流し、氷のように冴え冷えとした美しさを持つ女性が写っていた。彼女は獣人族……パンサーの耳と尾を持つ気高き令嬢のようだ。
黄金の瞳は鋭く、しかし凛とした佇まいには生まれながらの気品が漂う。写真の隅には「北方獣人国シュヴァルツ伯爵令嬢」という文字が記されている。
「ほぉ、獣人か。シュバルツの一族……懐かしい名前ね」
母の呟きに、スピラーレは思い出す。
シュバルツ家──獣人国きっての戦士の家系。その戦いの手腕は諸国に轟き、武門の誉れとして崇められている一族。
(あぁ、そういえば)
スピラーレは学園時代の記憶を辿る。
確かにその一族と出会ったことがある。シュバルツ家の若き青年が、イレネスの学園に留学していたのだ。
『お前、始祖だろ?ちょっと俺と戦ってみねぇか!?」
そう言って突然、剣を振りかざしてきた獣人の青年。
しかし、戦闘など経験したことのないスピラーレは、悲鳴を上げて逃げ回るだけ。結局、図書館の本棚に突っ込んで大惨事になり、二人して教師に叱られる羽目になった。
『まさか始祖が逃げるだなんて思ってなかったぜ……。噂じゃ、とんでもなく残酷極まりない奴って聞いてたんだが……』
『僕の場合、戦うというより粉々にされる方が得意なんだ。あと、その噂は多分僕の母かな』
そんな会話を交わしながら、罰として図書館の掃除をさせられた思い出が蘇る。
その後、彼とは親友になり、学園生活を謳歌した仲だった。
図書館の罰掃除をしながら意気投合し、やがては一緒に授業をサボって街に繰り出すほどの仲になったのだ。
もしかして、この令嬢は彼の妹か姉なのだろうか?
「どう?その女豹は」
母の不意の問いに、スピラーレは慌てて我に返る。
どう答えるべきか。母の真意も分からぬまま、彼は無難な返事を心がける。
「はぁ。その……なんというか、健康的で可愛らしい方ですね。特に耳と鋭い牙がパンサーっぽくて素敵です。まるで人を容易く食い千切りそうな、そんな愛らしさと言いますか……」
母の真意が掴めないまま、とりあえず褒めておこうとした結果が、こんな意味不明な賛辞になってしまった。
しかし、ここで黙り込むのも危険だ。スピラーレは冷や汗を流しながら、母の反応を窺う。
「……」
カルネヴァーレは言葉を聞くと、一瞬だけ何かを思案するように目を細めた。
その仕草は、普通の男性から見れば官能的とも言える妖艶な動作なのだろう。しかしスピラーレにとっては、「今から殺してやる」とばかりに刃物を研ぐ殺人鬼のように映る。
そして、永遠とも思える静寂の後──。
「う~ん……なんというか、『違う』のよね」
「……はい?」
違う?何が?
スピラーレが困惑する中、母は構わず持論を展開し始めた。
「なんていうか、毛がモサモサしすぎというか。それに細い瞳孔も気に入らないわ。まるでネズミを狙う野良猫みたいじゃない。あと、牙が目立ちすぎ。下品」
その酷評には、まるで虫を眺めるような冷たさが滲んでいた。
「次よ。この程度の写真に未練がましく見とれている暇なんてないでしょう?」
カルネヴァーレが指を一振りすると、スピラーレが手にしていた写真が青白い炎に包まれ、一瞬で灰となって散っていく。
(申し訳ない。君の写真を母が気に入らなかったばかりに、こんな最期に……。まぁ、誰だか知らないけど)
スピラーレが心の中で謝罪を送る間もなく、母の冷たい声が響く。
「いつまでぼんやりしているの?時間の無駄よ。さっさと次を選びなさい。それともその腕も一緒に焼き切ってあげましょうか?」
その威圧的な声に、スピラーレは慌てて写真の山に手を伸ばす。
震える指が次の犠牲者……いや、次の花嫁候補の写真を掴む。
母の機嫌次第で灰と消える運命にある写真の山を前に、スピラーレは深いため息を飲み込んだ。
「えっと、次は……」
次の写真に映っていたのは、一羽のハーピーの令嬢。
彼女の羽は真珠のような光沢を放ち、その瞳は深い蒼を湛えていた。
ハーピーという種族は、人間の上半身に鳥の特徴を併せ持つ高貴な種族。腕は美しい翼となっているが、その姿は決して不格好ではなく、むしろ神々しささえ感じさせる。
特に彼女たちの歌声は格別だった。イレネスの学園でも、ハーピーの歌姫たちのコンサートは常に満席。その歌声は人の心を癒し、翼を広げ、空高く舞い上がりながら歌う姿は、まさに天使そのものだ。
「えーっと。この方は確かに美しい方ですね。翼の輝きも優雅ですし」
スピラーレの言葉が途切れる。母の目が再び危険な光を放ち始めたからだ。
「ふぅん……鳥ね」
その一言には底知れぬ冷たさが滲んでいた。
「この前、城に迷い込んだ小鳥を粉々にしたところだったの。羽根が舞い散る様子は……なかなかの芸術作品だったわ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、スピラーレの手の中で写真が爆発した。
「ぎゃあ!?」
閃光と共に写真が弾け、その衝撃でスピラーレの腕が後ろに弾かれる。袖が焼け落ち、白い肌が露わになった腕には無数の細かな傷が刻まれていた。
狼狽える息子を冷ややかな目で見下ろしながら、カルネヴァーレは氷のような声で続ける。
「私ね、ハーピーが大嫌いなの。……お前は温室育ちのお嬢様ハーピーしか知らないでしょうけど」
その言葉と共に、カルネヴァーレの掌が玉座の肘掛けを握りしめる。メキメキという不気味な音と共に、分厚い石の装飾が粉々に砕けていく。
その光景は、まるで彼女の心の中の憎悪を具現化したかのようだった。
「想像できるかしら?空を舞うハーピーが、一瞬で地上の戦士たちを抹殺していく様を。気付いた時には既に手遅れ。体が両断され、内臓が散り散りになっている──。あぁ、私の軍勢を散々甚振ってくれて、不愉快極まりない」
カルネヴァーレの声には、まるで懐かしむような響きさえあった。
しかし──
「まぁ、私にとってはただの空飛ぶ射的の的程度だったけれど。ちょっと手を振れば粉々になる、実に脆い羽根つきの玩具だったわ」
そりゃそうでしょうね、とスピラーレは内心で呟く。
この化け物じみた母に挑むこと自体が、もはや壮大な自殺行為としか思えない。
しかし、かつてのハーピーの戦士たちは、死を覚悟でこの『悪魔』に立ち向かっていったのだろう。
(彼らの無謀な……いや、勇気ある魂に乾杯)
心の中で祈りを捧げながら、スピラーレは震える手を次の写真へと伸ばす。
だが、写真を開くたびに、カルネヴァーレの容赦ない評価が続く。
「ドワーフ?まぁ、背が低いのは可愛らしいけれど……いかにも地下の虫みたいで気持ち悪いわね。却下」
バチン!と写真が凍り付き、パリンと砕け散る。
「人魚?なんか……尾びれがくすんでるわ。それに生臭そう。はいダメ」
シュウウと写真が蒸発し、水蒸気となって消えていく。
「ケンタウロス?なんか無駄な筋肉付きすぎ、それに私の城は馬小屋じゃないの。獣臭いのはNG」
ボォン!と写真が青白い炎に包まれ、灰となって散る。
延々と続く母の皮肉な品評会に、スピラーレは既に疲れ果てていた。
写真の山は一向に減る気配がない。むしろ、母の魔力で粉々になった写真の破片が床に積もり、新たな小山を作り始めているほどだ。
こうして見ると、母は本当に他種族が嫌いなのだと改めて実感する。
……というか、ならば何故、異種族の写真を自分に見せているのだ?意味が分からない。
そして、無限に続く母の皮肉と恐ろしい魔法の応酬の中、スピラーレはある一枚の写真を手に取った。
「──」
その瞬間、彼の目が釘付けになる。
写真に写っていたのは、一人のエルフの姫だった。
太陽の光を紡いだかのような金色の髪は優雅で、その瞳は澄み切った碧空のような輝きを湛えている。長く尖った耳は気品を纏い、その白磁のような肌は真珠のような光沢を放つ。
それは最上位種であるハイエルフの姫として、この世界に存在する美の極致とも呼ぶべき存在。
「っ……!」
写真でさえこれほどの美しさなのだから、実物はさらに息を呑むような美貌の持ち主に違いない。
スピラーレは思わず、写真を握る手に力が入る。
これまで見てきた数々の美しい花嫁候補たちとは、明らかに次元の異なる存在感があった。
(う、美しい……)
これまで数多の異種族の女性を見てきたが、こんな存在は初めてだった。
まるで、世界の美を一身に集めたかのような姿。それは写真という媒体を通してさえ、見る者の心を奪うほどの輝きを放っている。
胸が高鳴り、まるで心臓を鷲掴みにされたような──。
「がはぁっ……!!」
(あ、あれ……?)
気が付くと、スピラーレは自分の口から大量の血が溢れ出ているのに気が付いた。
な、何が起きた……!?
震える視線で母を見上げると……そこには、スピラーレの脈打つ心臓を手に掲げるカルネヴァーレの姿があった。
彼女がいつ、どのように胸を貫いたのか、スピラーレには全く認識できていなかった。
「って、ど、どぼして……!?」
(あ、なるほど。心臓が鷲掴みにされてるってのは、比喩じゃなくてマジだったかぁ……)
血を吐きながら必死に声を絞り出すスピラーレ。
何が母の機嫌を損ねたのだろう?写真を見ていただけなのに……。
そんなスピラーレの困惑をよそに、カルネヴァーレの表情は明らかに険しさを増していた。
それは今日一番の不機嫌な……いや、スピラーレが今まで生きてきた中で最も恐ろしい形相だった。悪魔という言葉ですら生温くて、形容しがたいほどの憤怒が その瞳に宿っている。
「──ふぅん」
カルネヴァーレは掌の上でスピラーレの心臓を弄ぶように転がす。
本来なら激しい痛みを伴うはずの行為だが、既に体から引き抜かれた以上、それすら感じることはできない。
ただ、母が心臓を握りしめるたびに、スピラーレは反射的に苦悶の呻きを漏らす。
ぎゅっ。
「ぐはぁ!?」
ころころ……。
「ひぎぃ!?」
心臓を弄ぶ母の手に合わせ、スピラーレは断続的な悲鳴を上げる。
カルネヴァーレは掌の上でスピラーレの心臓を弄び、おもちゃで遊ぶ子供のように楽しげだ。
ころころと転がし、時にはキュッと握りしめ、また緩める。その度にスピラーレは情けない声を漏らす。
「ちっ……もういい」
そして、弄ぶことに飽きたのか、カルネヴァーレは突如として心臓を宙に放り投げた。
(あ、もしかして返してくれる……?)
一瞬の希望が生まれた、その刹那。
カルネヴァーレが指先を心臓に向けて突き出す。
ボン!と鮮血が飛沫となって空中に舞い、スピラーレの心臓が派手に爆散した。その様は、まるで小さな花火──。
「ぎょえーーー!?」
堪らず、床に転がり血まみれになって悶絶するスピラーレ。
その惨状を、カルネヴァーレは冷ややかな瞳で見下ろしていた。
「やはり……そのエルフを、気に入ったようね」
母の声は、氷河期の寒気よりも冷たかった。
しかし、心臓を爆散させられたスピラーレの意識は既に朦朧としている……。
「──仕方ないわ。では、お前の見合い相手は『当初』の予定通り、エルミア姫に……」
カルネヴァーレの言葉が途切れた。
バァン!と。謁見の間の扉が、爆弾でも仕掛けられていたかのような勢いで開け放たれる。
「叔母さまぁ~!遅れてしまって多変申し訳ございませーん!私ったら、どうにも腸が上手く再生できなくて……特に大腸がグチャグチャで、これじゃあ歩けないですわ~って感じでぇ」
黒檀のような艶やかな長髪を靡かせながら、一人のヴァンパイアの令嬢が現れた。
スピラーレの従妹、ジュリエッタである。
舞踏会で一緒に粉々にされた戦友が、完全な姿で颯爽と登場した……。
しかし、床に転がり血まみれで喘ぐスピラーレの姿を目にした途端、ジュリエッタは口元を手で覆い、大げさに驚きの声を上げる。
「まぁ!スピラーレ殿下、もう心臓を爆散させられてますの?さすが叔母様、夜食前の軽い運動にしては手厳しいですわ!」
優雅な身振りで言葉を紡ぐジュリエッタ。
しかし、その瞬間──。
カルネヴァーレの紅い瞳が、まるで獲物を捕らえた蛇のように鋭く彼女を射抜く。その殺気に満ちた視線を受け、ジュリエッタの動きが凍りついた。
「ジュリエッタ。お前のその甲高い声を聞くたびに、私の頭痛も再生が追いつかないほど悪化するのよ。──せっかく腸の再生に時間をかけたみたいだけど、もう一度やり直しになるわね。今度はもっと丁寧に内臓を整えて出直しなさい」
カルネヴァーレの掌から、紫紺の闇が渦を巻くように立ち昇る。
その邪悪な魔力は、まるで生きた闇のように蠢きながら、部屋中に広がっていく。
「ひぃっ!?」
ジュリエッタが逃げようと身を翻すが、既に遅かった。
カルネヴァーレの放った闇の波動が、まるで津波のように謁見の間を飲み込んでいく。豪奢な調度品も、分厚い壁も、砂糖菓子のように溶けていった。
「「ぎゃっ──」」
スピラーレとジュリエッタの悲鳴が重なり合う。
二人の体が闇の中で溶解し、まるでろうそくが溶けるように形を失っていく。
その最中、二人の視線が交差する。
紫紺の光の中で、既に腰から下が消滅しているジュリエッタが、存在しないはずの肩をすくめるような仕草で、呆れ気味に言った。
「もう、このドレス一着で執事のお給料一年分の値段なのに。どうせ叔母様に溶かされるなら、市場の安売りコーナーで買った服でも着てくれば良かったわ」
それに、既に頭部だけとなったスピラーレが言葉を返す。
「そうだね。でも、そもそも服なんて着てこなければ良かったのに。どうせすぐダメになるんだし」
「まぁ!殿下ったら私の裸が見たいだなんて……!?なんて破廉恥なの!でも残念ね、今じゃ私の肉すら存在してないわ」
「別に見たくないけど……というか、いつも内臓まで見せ合ってる仲だし、今更、裸くらいで……あ、もう口がなくなってきた──」
二人の会話が、紫紺の光の渦に飲み込まれていく。
最後まで他愛もない会話を交わしながら、二人の存在は闇の中へと消えていった。
ここはルナフォール公国。
命も、価値観も、道徳も、全てが歪んだ狂ったヴァンパイアの国──