漆黒の尖塔が月を突き刺すように聳えるルナフォール城。その庭園は、華やかさと不気味さが絶妙に調和した異様な美しさを湛えていた。
月明かりを浴びた庭園には、まるで生きているかのように動く影が這い、時折コウモリの群れが空を覆い尽くすように飛び交う。優美でありながら、同時に底知れぬ恐怖を感じさせる光景。
大公カルネヴァーレの大魔法によって、この国には永遠に太陽が昇ることはない。代わりに、不気味な輝きを放つ紅い月が空を支配している。
そんな永劫の夜に包まれた庭園の一角。
血のように紅い大理石で作られたテーブルとイスに、二人の吸血鬼が優雅に腰かけている。彼らは紅く染まった月明かりの下、静かに夜の茶会を楽しんでいた。
「う~ん、絶品ですわ。七百年物の処女の血をブレンドしたブラッドティー。舌の上で踊るような味わい。叔母様の秘蔵コレクションを拝借しちゃいましたの」
夜の闇に溶け込むような漆黒の長髪を優雅に靡かせながら、ジュリエッタは恍惚の表情を浮かべる。小さなコウモリの羽をピコピコと揺らしながら、上品に紅茶を口に運ぶその仕草は、まさにノーブルヴァンパイアの令嬢そのもの。
その対面には、白銀の髪を揺らすスピラーレの姿。始祖の血を引く王子は、赤く染まった紅茶をすすりながら、ふと首を傾げた。
「これって七百歳の処女から採取した血なのか、それとも処女の血を七百年熟成させたものなのか気になるね。あと、母上のコレクションから盗ってきたってマジ?」
「まぁ!スピラーレ殿下ったら、レディの秘密に首を突っ込むなんて!最近、殿下は少が色気づいてきてワタクシ、困っちゃうわ。あと、マジですわ~」
二人の、どこか気の抜けた……しかし同時に恐ろしさも漂う会話の傍らで、無表情のメイド、ヴィオラが新しい茶菓子をセッティングしていく。
銀のトレイの上には、真っ赤なジャムを塗った真っ黒なスコーン。その「ジャム」が何で作られているかは、考えない方が賢明だろう。
「お二人とも、先日大公様に存在ごと消し飛ばされたばかりというのに、随分とご機嫌ですね。特にジュリエッタ様、再生の際に拝見しましたが、貴女の内臓はボロボロです。質の悪い血液を摂取されすぎでは?」
ジュリエッタは頬を紅く染め、扇子で顔を隠しながら言った。
「レディの内臓を覗き見るなんて、随分と破廉恥なメイドさんね、ヴィオラ!……ところで、スピラーレ殿下の内臓はどんな感じだった?色とか、つやとか、全部教えて頂戴」
「殿下の内臓は実に清らかで、可愛らしいピンク色をしておりました。まるで恋を知らない乙女。これだけ純粋な内臓を持つ殿下は、きっと女性との深いお付き合いなど、ご経験ないのでしょうね」
「う、うるさいな!僕だって学園では……」
血の噴水が不気味に水音を立て、骨のような白薔薇が月光に照らされる庭園で、三人の賑やかな声が響き渡る。
この恐ろしい景色とは不釣り合いな、日常の一コマのように。
そんな和やかな茶会の最中、不意にジュリエッタが首を傾げて尋ねてきた。
「そういえば殿下。先日、叔母様に随分と写真を見せられてましたけど……殿下の趣味は女性の写真収集なの?それとも叔母様の新しい拷問方法?」
「なんでって……お見合いの相手を選べって言われたんだ」
「まぁ!お見合い!?でも殿下ったら、まだ生後100年も経ってない赤ちゃんヴァンパイアじゃないですの?お着替えだって自分でできないのに、結婚なんて早すぎますわ」
「いや着替えくらい出来るから」
スピラーレはヴァンパイアとしては若干20歳。人間の価値観では既に成人だが、悠久の時を生きるヴァンパイアにとっては、まさに生まれたての赤子も同然である。
一見同じような年頃に見える従妹のジュリエッタですら、実は87歳。スピラーレからすれば「お姉さん」と呼んでも差し支えない年齢だ。
もっとも、彼女もヴァンパイアとしてはまだまだ若く、二人して「子供部屋」から抜け出せていない年齢なのだが。
「私だってまだまだ若輩者ですけど、殿下と比べたら大人のレディですもの。殿下なんて、つい最近までおしめが取れたばかり……」
「やめてくれよ!人の赤ちゃん時代のことを言うのは!つーか、十数年前は全然最近じゃ……まぁ、最近か?うーん……」
スピラーレが少し苛立たしげに言うと、ジュリエッタは扇子で口元を隠しながら、より一層からかうように続ける。
「十数年前は全然最近じゃないって?私は殿下のおしめ姿を昨日のことのように鮮明に覚えていますわ。特にあの、お尻をプリプリさせながらハイハイしてた姿といったら……」
「やめて!!」
彼女はいつもこうしてスピラーレをからかう。
……もっとも、本当に彼のおむつを替えていた記憶があるせいか、未だにスピラーレのことを赤ちゃんとしか認識できていない可能性も否めないが。
「でも不思議ね。叔母様がどうして突然お見合いなんて話を?」
「僕にも分からないよ。自分から見せておいて、見たら心臓を抜き取るだなんて。母上の考えることは、本当に理解できない」
そう、本当に理解できない。
しかし……。
「そういえば」
スピラーレは思い出すように目を細める。
「写真を見せられた時、途中までは母上も普通というか……まぁ、他種族の写真を次々と粉々にしていただけで。でも、あるエルフの女性の写真を見た瞬間に、これまでにないくらい機嫌が悪くなったような……?」
「エルフの女性ですって?もしかしてハイエルフかしら?」
ジュリエッタが身を乗り出して尋ねる。血のような……いや、血の紅茶が微かにこぼれる。
「たぶんね。あの気品ある雰囲気からして、間違いなく最上位種だと思う。金髪碧眼で、すごく綺麗な人で……」
スピラーレの言葉が途切れる。
不意に、母の恐ろしい形相が蘇ってきたからだ。今まで見たことのないほどの憤怒に満ちた表情。それを思い出しただけで、背筋が凍りつく。
「綺麗な人ですって?殿下ったら女性の経験皆無なんだから、道端の石ころだって『綺麗な女性』に見えそうですけど……でも、そんなにお美しかったの?」
「う、うるさいな。女性の経験は……まぁ、手を繋いだことくらいはあるけど……うん、なんていうか、胸が高鳴って心臓を掴まれたような感覚だったんだ。
──まぁ、その直後に母上に本当に心臓を握りつぶされたんだけどね、とスピラーレは続けた。
ヴァンパイアジョークである。だが、誰も笑わない。
「母親に心臓を握られて物理的にドキドキさせられるなんて……ちょっと倫理的にどうかと思いますわね。……って、それは冗談として、なるほど、これで全て理解できましたわ」
ジュリエッタは何かを悟ったかのように、満足げに頷く。
その様子にスピラーレは首を傾げた。
「え?どういうこと?」
ジュリエッタの口元に浮かぶ不敵な笑みに、スピラーレは何か恐ろしい真実を知らされそうな予感がした。
それは彼の直感が告げている。この従姉妹の笑顔は、決して良いことの前触れではないと。
「カルネヴァーレ叔母様ったら、可愛い我が子が他の女に心を奪われそうになって、母性本能が暴走しちゃったのね。あぁ、なんて健気な御方……!スピラーレ殿下が写真一枚で目移りしただけで心臓を握りつぶすなんて……母性愛の極みですわ!」
スピラーレは思わず椅子から転げ落ちそうになる。
──健気だって!?心臓を抜き取って爆散させる母親のどこが健気なんだ!?
しかも、やきもちだって?あの殺意の塊みたいな形相は、明らかにやきもちではない。というか息子の内臓を毎日のように粉々にする母が、突然母性本能を発揮するわけがないだろ──!
しかしジュリエッタは、世紀の大発見でもしたかのように、ふんすと胸を張る。そして、傍らで無表情を貫くヴィオラに同意を求めるように言った。
「そうでしょう?ヴィオラ」
ジュリエッタの問いかけに、ヴィオラは深いため息をついた。
そして、完璧な無表情を保ったまま、氷のような声で言った。
「なんと……ジュリエッタ様の腐敗しきったご慧眼には、いつも目を見張らされます。見当違いの極みとはこのことかと。吸血ヒルと知能テストをしたら、きっとヒルの方が圧勝すると思わせるほどの、素晴らしい推理。流石は大公様に何度も脳を粉々にされているだけあって、思考回路がお見事です」
「ふふ……そんなに褒めても何も出ないわよ?」
ジュリエッタは扇子で口元を隠しながら、初恋をした乙女のように頬を染める。
この従姉妹とメイドの会話が噛み合わないのは、いつものことだとスピラーレは知っている。だからこそ、普段なら黙って血の紅茶を啜るだけなのだが……。
「あー、ヴィオラ。もしかして知ってるの?色々と……」
その言葉に、ヴィオラの瞳が一瞬だけ危険な光を帯びた。
獲物を捕らえた蛇のような、冷たく鋭い眼差し。思わずスピラーレは背筋を正し、全身に悪寒が走る。
「ええ、色々と存じ上げております。──本当に、色々とね」
ヴィオラは意味ありげな言葉を紡ぎながら、優雅にブラッドティーを注いでいく。
深紅の液体から立ち上る蒸気が、月光に照らされて妖しく揺らめく。血の豊潤な香りが、庭園の夜気に溶け込んでいった。
「スピラーレ様が心を奪われたというハイエルフの女性……恐らく、アズルウッドの姫君でしょう」
「アズルウッド?」
スピラーレは首を傾げる。その国名には聞き覚えがある。確か学園の授業で……歴史の講義だったか?それとも種族学の時間だったか?
彼が記憶の糸を手繰り寄せようとする中、ヴィオラは意味深な微笑みを浮かべながら続けた。
「アズルウッド──その国は、忌まわしき『門』である世界樹を擁する国。禍々しき存在の巣窟とでも申しましょうか」
ヴィオラは優雅にスカートを翻し、ワルツを踊るかのように、くるりと一回転する。
その動きは完璧な円を描き、見る者の目を釘付けにする。スピラーレとジュリエッタは思わずその姿に見入ってしまう。
「そして、大戦の時代。狂王エルグレイスが率いる悪魔のようなエルフたちが、この世界を血で染め上げた。彼らの残虐性は、私たちヴァンパイアでさえ戦慄を覚えるほど。まさに邪悪という言葉の権化そのものでしたわ」
「──え?」
スピラーレの声が震える。優雅な舞を披露しながら語られる言葉に彼は戸惑いを隠せない。
そんな彼の反応を見て、ヴィオラの目が危険な光を宿した。
「坊ちゃま。イレネスの学園でお会いになった、お行儀の良いエルフたちと、アズルウッドの『化け物』たちを、同列に扱うのは賢明ではございません」
ヴィオラの言葉に、スピラーレの体が赤子のように震え始める。背中のコウモリの羽までもが、恐怖に震えている。
そして、ヴィオラは意味ありげな笑みを浮かべながら、恐ろしい真実を告げるように口を開いた。
「アズルウッドのエルフたちは……彼らは世界の破滅を望む、真の邪悪そのもの。大公様でさえ、その名を聞くと眉をひそめる存在なのですから──」