スピラーレの手に持つティーカップが、微かに震えている。
深紅のブラッドティーが月光を受けて揺らめき、その表面に波紋を描く。
「な、なにを言ってるんだいヴィオラ。確かにイレネスで見たエルフたちは鼻につくほど高慢で、耳障りなほど上品ぶっていて、目障りなほど気取ってはいたけど……でも、みんな理性的で……」
その瞬間。
ヴィオラの視線が、刃物のようにスピラーレを射抜く。
彼女の表情は相変わらず無表情そのものだが、その瞳には底知れぬ圧迫感が宿っていた。スピラーレの言葉が、まるで氷が溶けるように消えていく。
「申し上げたはずです。イレネスの『お行儀良い』エルフたちと、アズルウッドの『化け物』たちを一緒くたにするのは、命取りになりますよ。坊ちゃま」
スピラーレは唾を飲み込むと、おずおずと口を開こうとするが……。それを遮るようにヴィオラは厳しい口調を放った。
「貴方には分からないでしょう。あの地獄のような大戦で、エルフたちが見せた本性を。狂った魔法で世界を焼き尽くし、数えきれない命を奪った惨劇を。それはもう、口にするのも憚られる残虐な行為の数々……」
スピラーレは大戦を直接は知らない。だが、イレネスの学園で学んだ歴史の断片は覚えていた。
数百年前、魔法使いたちの争いに端を発した世界大戦。ルナフォール一族もヴァンパイアの頭領として、その混沌に身を投じた。
そしてその軍を率いたのは、他ならぬ母、カルネヴァーレだった。
「いやいや、流石にそれは誇張じゃない?所詮エルフでしょ?耳が長くて、ちょっと高慢なだけの。まさか本当の悪魔ってわけじゃ……」
現実を理解していないスピラーレを見て、ヴィオラは深いため息をつく。
この若き王子は何も分かっていない。あの凄惨を極めた大戦を生き抜いた者と、平和な時代に生まれた者との間には、越えがたい深淵がある。
価値観も、常識も、全てが違うのだ。
「貴方は……否、貴方たち若い世代は、何も知らない。理解できていない。私たちヴァンパイアが持つ『不死』など、所詮は偽りの永遠に過ぎないということを。そして、その脆弱な永遠すら奪おうとした、狂気に満ちたエルフたちの恐ろしさを……」
ヴィオラは黒いスカートを優雅に翻しながら、過去の亡霊と対話するかのように語り始める。
その表情には、スピラーレもジュリエッタも見たことのない陰りが浮かんでいた。それは凄惨な戦場を生き延びた者だけが持つ、恐怖と……狂気であった。
♢ ♢ ♢
──遥か昔、大戦の荒野。
そこにヴィオラはいた。
漆黒の甲冑に身を包み、背中の翼を誇らしげに広げる。
「……」
彼女の視界には、荒野を覆い尽くす混沌の嵐。この戦略的要衝を巡って、数えきれない命が散っていった。
ここでどれほどの血が大地を染め、どれほどの魂が虚空へと消えていったのか。
この混沌の渦中で、ヴィオラは冷徹な視線で戦況を見つめていた。
──今宵は満月。
戦場がヴァンパイアたちの手に落ち、月下の殺戮劇が続く。
鮮血の雨が降り注ぐ中、彼らは勝利の美酒に酔いしれていた。
その時。
「──!?」
一瞬の閃光。
一人のヴァンパイアの首が、まるで花びらのように宙を舞う。
通常であれば、月の力で即座に再生するはずのヴァンパイア。しかし、この戦士は違った。
首を跳ねられた体が地面に崩れ落ち、そのまま銀色の粉となって、月明かりの中へと消えていく。
戦場を蹂躙していたヴァンパイアたちの動きが、一斉に止まる。
彼らの紅い瞳が、ある一点に釘付けになった。
そこには──。
月光の下、一人の長身の影が浮かび上がる。
黄金の長髪が夜風に靡き、その紅玉のような瞳は、ヴァンパイアのそれよりも鮮烈に輝いていた。漆黒の鎧に身を包み、血に濡れた魔剣を携えたその姿。
「──耳障りな羽音がすると思えば、こんな所に薄汚い蚊の群れが集まっていたとはな。退屈な夜になるかと思ったが、少しは楽しめそうだ」
狂気とも虚無とも取れる響きの声。
その男──ハイエルフの王子は優雅に、ワルツを踊るかのように血塗れの戦場を歩く。
「アイガイオンだ!」
「殺せ!あの狂った魔剣使いを殺せ!」
狂乱の宴が幕を開ける。
迫り来るヴァンパイアの群れを、ハイエルフの王子は舞うように薙ぎ払っていく。
魔剣が月光を受けて閃くたび、不死の存在が塵となって消え去る。蝶を追う子供のような無邪気さで、しかし同時に死神のような残虐さで。
本来なら月の力で再生するはずのヴァンパイアたちが、次々と消滅していく。
「くたばれ、蚊ども」
魔法使いですらない一人のエルフが、満月の夜に不死の軍団を屠っていく──その光景は、まさに悪夢。
血飛沫を舞わせながら、彼は優美に剣を振るう。
そして──。
「ば、馬鹿な……何故、再生しない……」
指揮官──ルナフォール一族の始祖が、アイガイオンの剣に胸を貫かれる。
月をも支配すると豪語した最高位のヴァンパイアが、狂った王子の剣の前に膝をついた。
「永遠の命を持つとほざいていた分際で、随分と脆かったな。所詮は紛い物の始祖か」
その冷たい言葉と共に、始祖の体が銀色の粉となって、夜風に消えていった。
月光を背に、アイガイオンが血に濡れた魔剣を肩に担ぐ。
「あっ……あぁっ……」
若き日のヴィオラは、ただその姿を呆然と見上げることしかできなかった。
戦場の支配者であったはずのヴァンパイアたちが、まるで夢幻のように消え去り、今や彼女の同胞は一人も残っていない。
「──俺を殺したいのなら、カルネヴァーレを連れて来い。あの女と戦っている時だけは、俺は自分の罪を忘れられる……」
その声には、どこか愉悦のような狂気が混ざっていた。
戦場には今や、血に染まった荒野に立つアイガイオンと、震えるヴィオラの二人だけが残されている。まるで、他の全ては幻だったかのように。
「──」
ヴィオラの全身が、制御できないほどの戦慄に包まれる。
彼が手にする魔剣──その禍々しい刃は、かつてドワーフの至宝と謳われた伝説の鍛冶姫が、己の血と魂を込めて打ち上げたという魔性の武器。
その悍ましい刃を直視するだけで、本能的な恐怖が背筋を這い上がってくる。
そして、その魔剣の真の持ち主であった姫を殺害し、剣を奪い取った男。
まさに、悪逆非道の化身とも呼ぶべき存在。
それが──。
──アイガイオン!
その名が脳裏を駆け抜けた瞬間、ヴィオラは思わず後ずさった。
「あぁ……?」
その瞬間、アイガイオンの紅い瞳が、逃げようとする彼女を射抜く。
その視線には、獲物を捕らえた猛獣のような冷酷さが宿っていた。彼女の魂そのものを切り裂くような鋭さで。
ヴィオラは、その場に凍りついたように動けなくなった。
気高きノーブルヴァンパイアの誇り高き戦士など、もはやそこにはいない。ただの怯える少女のように、全身を震わせることしかできない。
「ちっ、女か──」
アイガイオンが、月光を背に無表情で歩み寄ってくる。
闇夜に浮かぶ紅い瞳は獲物を見据え、返り血に染まった黄金の髪が不気味に靡いていた。
「あっ……」
ヴィオラの首筋に、冷たい魔剣が添えられ──。
♢ ♢ ♢
「うわぁーーーーーーーーっっっ!!!!!」
「うぎゃあああああああ!?!?!?」
突如として、ヴィオラが絶叫を上げながらスピラーレに飛びかかる。
その細い指が、鋼鉄の束縛具のようにスピラーレの首を締め上げていく。
「がっ……ぎ……!?」
スピラーレの顔色が見る見る変化していく。
真っ白な肌が青紫色に変わり、目が飛び出しそうになる。舌を出し、手足をバタバタとさせながら、まるで溺れる魚のように酸素を求めてもがいている。
「ヴ、ヴィオラ!?スピラーレ殿下が死にそうですわ!……まぁ、死んでも再生できますけど」
ジュリエッタが心配そうに、しかし若干の興味も含んだ目で二人を見つめる。
「や゛……や゛め゛ろ゛ぉ゛……!」
かろうじて絞り出されたスピラーレの声が、夜空に響く。
最上位種たる始祖の血を引く彼の命令が、ヴィオラの脳に直接叩き込まれる。
「はっ……私は……何を……?」
我に返ったヴィオラは、混乱したように周囲を見回す。
そして彼女の視界に映ったのは、泡を吹いて白目を剥きながら地面に転がるスピラーレの姿。
「まぁ、坊ちゃま。いつの間にか地面に転がって気を失うだなんて、さすがは私の育てた極上の雑魚ですね。せめてお棺の中で気絶なさいませ」
ヴィオラは完璧な無表情を取り戻し、何事もなかったかのように言う。
その態度は、主人の首を絞めていた狂気のメイドとは、まるで別人。
地面で七転八倒するスピラーレを見下ろしながら、ヴィオラはエプロンの皺を丁寧に伸ばしている。
「う~ん。主人の首を絞めておきながら、そんなに涼しい顔でいられるなんて。さすが大戦を生き抜いたヴァンパイアさん、私たち若い世代とは心の作りが違いますのね。ちょっと尊敬しちゃいそう」
ジュリエッタは優雅に扇子を広げながら、半ば呆れ、半ば感心したように言う。
「がほっ……げほっ……」
よろよろと立ち上がったスピラーレが、なんとか椅子に座り直す。
その横でヴィオラは、何事もなかったかのように優雅にブラッドティーを注ぎ始めた。
「坊ちゃま、お飲み物をお持ちしました」
「げぇっ……こほっ」
スピラーレが咳き込むたびに血沫が飛び、真っ赤なティーカップの中身が徐々に濃くなっていく。
「あら、坊ちゃま。わざわざご自身の血を混ぜていただかなくても、上質な血は十分に用意してございますのに」
「い、いや、それは……げほっ!違……ごぼっ!」
「まぁ、殿下ったら意外とお茶目さんね。自分の血でブラッドティーをアレンジするなんて」
スピラーレの惨状を尻目に、ヴィオラとジュリエッタは実に優雅な会話を続けるのだった。
そしてようやく呼吸も整い、吐血も止まったスピラーレ。
彼は喉を擦りながら、恨めしそうな目でヴィオラを見つめる。
「……それで?いきなり主人の首を絞めた理由を聞かせてもらえるかな?」
「はて……?」
ヴィオラは首を傾げ、しばし考え込む素振りを見せる。
と、突然思い出したように手を打った。
「あぁ、そうでした。エルフの残虐性についてお話ししていましたわね。先ほど私が戦場での光景を具体的にお話しした通り、エルフというのは実に残忍な種族で……」
「え?」
「はぁ?」
スピラーレとジュリエッタは顔を見合わせる。
具体的な話なんてしていただろうか?むしろ、具体的な説明の前に、突然奇声を発し、スピラーレの首を絞めた記憶しかないのだが。
「はぁ……エルフの残虐性はもういいよ。母上の気まぐれな殺戮に比べれば、大したことないんじゃないでしょ」
スピラーレは諦めたように言うと、ティーカップを手に取る。
その仕草には、すっかり母による暴虐に慣れきった息子の余裕すら漂っていた。
「ええ、その通りですわ。カルネヴァーレ叔母様ほど気分屋で残虐な御方なんて、この世界のどこを探しても見つかりっこありませんもの。夕方に『おはよう』と言っただけで爆散させられる叔母様の前では、エルフなんて可愛いものですわ」
ジュリエッタも同意するように頷きながら、優雅にブラッドティーを啜っていた。
「ふむ……」
──不意に。ヴィオラの唇が、意地の悪い弧を描く。
その表情には、獲物を前にした猫のような危険な色が宿っていた。
「そういえば坊ちゃま。アズルウッドの姫君には、とても……そう、とても個性的な兄上がいらっしゃるのですが、ご存知ですか?」
「え?ああ、あの写真の子のお兄さん?まぁ、王族なんだから、兄弟くらいいるでしょ。別に珍しくもないんじゃない」
スピラーレは余裕げに答える。ブラッドティーをすすりながら、どこか退屈そうな素振りさえ見せていた。
しかし、そんな彼の態度を見て、ヴィオラの薄笑いはより深みを増していく。
「彼女の兄、アイガイオンは……坊ちゃまの母上様も一目置くほどの狂人でございまして。カルネヴァーレ様の気まぐれな暴虐など、彼の前では子供の悪戯程度にしか見えないほど」
「──え?」
その言葉と同時に、スピラーレの動きが凍りついた。
しかし、ヴィオラの言葉は容赦なく続く。
「実は……カルネヴァーレ様の御子息、御息女手つまり、坊ちゃまには御兄姉が何人もいらっしゃったのですが……」
くるりと、ヴィオラは舞った。
そして、言った。
「皆様、アイガイオンに抹殺されてしまいまして。最後の一人が坊ちゃまなのですよ。カルネヴァーレ様の愛情を独り占め出来て、実に羨ましいですね」
カチャン──。
スピラーレの手からティーカップが滑り落ち、テーブルの上無残な音を立てて砕ける。
深紅の液体が月光に照らされ、血の花が咲いたかのように広がっていった。