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第50話

──今、何と言った?

スピラーレの思考が凍りつく。

確かに遥か昔、自分には兄や姉がいたという話は聞いていた。それが、一人のハイエルフによって抹殺されたなどと──。


「そ、そんな馬鹿な話……僕の兄姉は皆、稀な病に倒れて死んでしまったって母上が……」

「坊ちゃま。超越種が病気で死ぬなどという御伽噺、どこの紙芝居から拾ってきたんです?」


ヴィオラの冷たい言葉が、スピラーレの心を切り裂く。

そう言えば……。

確かにおかしい。超越種は病など知らない。それも、始祖の純血を引く者たちが、病気で死ぬなど──。

スピラーレの中で、今まで信じていた「真実」が、砂の城のように崩れ始めていった。


「あぁ、大戦中に流行った吟遊詩人の詩を聞かせてあげましょう。恐らく、大戦を経験した者なら、誰もが知っている、その詩を──」


混乱するスピラーレの様子を見て、ヴィオラの無表情に僅かな歪みが生まれる。

そして彼女は、舞踏会場で踊るかのように優雅にスカートを翻し、古の詩を詠み始めた。


「紅き目の王子が通りし後には

血肉の道のみが残されて

その足跡には血の川が流れ

やがては血潮の海と化す


死体の山を築き上げては

その頂で狂い笑う姿

『狂気の深淵』と恐れられ

その前で天使も悪魔も震え慄く


黄金の髪に返り血を浴び

魔剣を手に舞い踊る御方

永遠を生きる者たちすら

その刃の前では塵と消える」


ヴィオラの歌声は、呪いの言葉のように庭園に響き渡る。

その優雅な舞いと共に紡がれる残虐な詩は、異様な不協和音となって夜空に溶けていった。

長い詩が終わり、ヴィオラの舞いが止まった。そして彼女はいつもの無表情に戻り、言った。


「この詩の面白いところは、他の詩人たちが大袈裟に脚色するのとは違って、むしろ遠慮がちに表現しているところですわ。実際はもっとずっと……あ、いえなんでもございません」

「え?今のなにが面白いの?ねぇ。ていうか何を言おうとしたの?実際はもっとずっと、の後は?そこまで言ってなんで止めるの?ねぇってば!」


スピラーレは背筋が凍るのを感じる。

今の詩ですら、十分すぎるほど恐ろしい内容だった。血の川が海になるほどの殺戮。死体の山の上で狂い笑う男。それだけでも、正気の沙汰とは思えない。


──なのに、それが控えめな表現だと?


じゃあ、実際の光景はどれほど凄惨なものだったのか。

想像しようとした瞬間、スピラーレの全身が震え始める。この詩以上の残虐性があるというのなら、それはもう人知を超えた狂気の領域だ。


(は、母上はそんな化け物の妹と、僕をお見合いさせようとしているのか!?)


その事実に気付いた時、スピラーレの恐怖は更なる高みへと達していた。


「アズルウッド一族のハイエルフは好戦的なエルフたちを束ねる武家の棟梁。彼らにとって平和など退屈極まりない代物で、今この瞬間も戦争の火種を探し求めている狂人の集まりなのです」

「開戦……!?な、何言ってるのさ!もう戦争は遥か昔に終わったのに!?」


スピラーレの声が震える。

彼にとって、大戦など歴史の教科書に書かれた遠い過去の出来事でしかない。イレネスで机を並べた留学生たちも、きっと同じ感覚のはずだ。


しかし──。

長命種族にとって、大戦はまだ「つい先日」の出来事なのだ。そして、その記憶は未だに鮮明に、戦場を知る者たちの心に刻まれている。

傷跡も、悲しみも、憎しみも──。


「彼らにとって、戦争は終わっていないのですよ。アズルウッド一族は、あの血で血を洗う大戦の亡霊を、今なお抱き続けている……」


ヴィオラの紅い瞳が、スピラーレの目を射抜くように見つめる。


「坊ちゃま。このままお見合いを進めれば、貴方の首が飛ぶのと同時に、新たな戦争の火蓋が切って落とされることでしょう。なにせ相手は『狂気の深淵』の妹君ですから」


その言葉が、まるで雷のようにスピラーレの意識を貫く。


(待て……待ってくれ。つまり、僕とエルフの姫のお見合い話は……戦争の引き金になりかねないと?


冗談じゃない。エルフの最凶の狂戦士の妹と見合いして、首を飛ばされるだけじゃなく、世界を戦火に巻き込むことになるって?)


スピラーレの顔から血の気が引いていく。

母の気まぐれな暴虐から、一気に世界規模の地獄絵図が見えてきた気がした。


(一体どんな化け物なんだ、アズルウッドの連中は……!?)


絶望に打ちひしがれるスピラーレを、ヴィオラは無表情のまま覗き込む。


「あら、怖がらせすぎてしまいましたかしら?でも、これでも随分と控えめな表現ですわ。実際はもっと恐ろしい……」

「あ、あのさ!お見合いって、なしにできないかな?僕、別に積極的に望んだわけじゃないし。ただ写真を見て『綺麗だな』って思っただけで……」


スピラーレは必死に取り繕おうとするが、彼の背中の小さな蝙蝠の羽が、恐怖に震えるように断続的に動いている。


(ああ、この反応……)


ヴィオラは思わず微笑みを噛み殺す。

彼女は知っていた。スピラーレの羽がこんな風にピクピクと震えるのは、彼が極限の恐怖を感じている時だけ。まるで赤子が怯えているかのような、純粋な恐怖の表れ。

今にも気絶しそうな「坊ちゃま」を前に、ヴィオラの嗜虐心が刺激される。


しかし、これは良くない展開だ。


自分のせいでスピラーレがお見合いを拒否したとなれば……。

その時の大公カルネヴァーレの怒りの矛先は、間違いなく自分に向けられる。

死なないとはいえ、ヴァンパイアにとって「死」は決して楽しいものではない。むしろ、生きながら苦痛を味わうようなものだ。

それは、できれば避けたい。


「坊ちゃま、そんなにお怖がりになることはありませんわ。今回お会いになるのは狂戦士の王子ではなく、その妹君なのですから。妹様はもしかしたら、優しいお方かもしれませんよ」

「そ、そうだ!兄は兄、妹は妹!たとえ兄が狂気の化け物だとしても、妹は清らかなお姫様かもしれないじゃないか!」


スピラーレの表情が、わずかに明るさを取り戻す。

その様子を見て、ヴィオラは満足げに微笑んだ。なんと単純な「坊ちゃま」なのだろう。


しかし──。


「まぁ、私の知る限り、アズルウッド一族は代々狂人揃いなのでそれはないでしょうねぇ。王子の祖父も父も、みんな狂った化け物でしたから。血は争えませんわ」


──あれ?

自分の口が勝手に動いてしまった。

どうやら「坊ちゃま」の絶望する顔が見たくて、思わず本音が漏れてしまったようだ。


(いけない……しかしこれは私の過ちではありません。全て私の口が悪いのです)


言い訳がましく自分に言い聞かせるヴィオラの横で、スピラーレの羽が再び激しく震え始めていた。


「やっぱり絶対にイヤだ!死んでも行かない……ていうか死んだ方がマシかも!絶対に嫌だ、嫌だ、嫌だーっ!!」


一瞬の希望を持った自分が馬鹿らしくて仕方ないとばかりに、スピラーレは子供のように駄々をこねる。


(まったく、面倒な赤ちゃんコウモリですこと……)


ヴィオラは深いため息をつくと、なんとかフォローしようと口を開いた。


「まぁ坊ちゃま、貴方は腐っても一応始祖の血を引いていますから、そう簡単には死なな……あ、でもあの男の魔剣で斬られたら即座に消滅するか」


あぁ、また余計なことを言ってしまった。

スピラーレの羽は、もはや制御不能なほど震えている。


「ん……?」


ふと、ヴィオラは違和感を覚える。

いつもなら「坊ちゃま」の情けない様子を一緒に茶化すはずのジュリエッタが、妙に静かだ。

不思議に思って視線を向けると……。


「──」


そこには、椅子に座ったまま白目を剥いて気絶しているジュリエッタの姿があった。

彼女の背中のコウモリの羽は、止まった時計の針のように静止している。

どうやら、狂った王子の恐ろしさを語る途中で、既に気を失っていたらしい。


「はぁ……まったく、お二人とも」


ヴィオラは深いため息とともに、肩を竦める。


「これだから赤ちゃんコウモリは手がかかって。本当の恐怖なんて、まだ一つも話していないというのに」


月下の庭園で、情けない二人の若きヴァンパイアを前に、ヴィオラは呆れたように溜息を吐いたのであった。




♢   ♢   ♢




「ぶぁーっくしょん!!!」


アズルウッドの王城、食堂に響き渡る大きなくしゃみ。

豪奢な食堂で、ハイエルフの麗しき王子……アイガイオンは金色の髪を靡かせながら優雅に朝食を取っていた。

……その最中の突然のくしゃみである。


「おや、風邪かい?アイガイオン。おかしいねぇ、超越種のハイエルフが風邪を引くなんて」


テーブルの向かいで、父であるセーロス王が朗らかに笑う。

その言葉を聞いて、アイガイオンの端正な顔が不敵な笑みで歪んだ。


「いや……これは誰かが俺の噂をしてやがるに違いねぇ……」


アイガイオンはそう言うと、ナイフでヒュンヒュンとステーキを切り始める。

その手さばきは流麗で、瞬く間に分厚いステーキは均一な一口サイズにカットされていく。


「それは大変だ。君の噂をする者なんて、この世界に星の数ほどいるだろうからね。そのうち一日中くしゃみが止まらなくなるんじゃないか?」

「そうだな。俺を恨む奴の数なんて、数え切れないからな。どこの誰が俺の悪口を言ってるのか、まるで見当もつかねぇよ」


父と息子の会話は、天気の話でも交わすかのように軽やかだった。


「まぁ、噂する奴は殺せば良いだけだが……生憎今は、ステーキを食べてる途中だ。見逃してやるか」


アイガイオンは優雅にワインを口に運びながら言う。


「今でも時々暗殺者が城に忍び込んでくるのは、君の人望の証だねぇ。この前なんて一晩で十人もの暗殺者が来訪したじゃないか。あはははは!」


セーロス王は我が子の凶行を誇らしげに語る。


「本当に笑えるよなぁ?奴ら、どいつもこいつも『今度こそは』って顔して忍び込んできやがる。そして決まって最後には命乞いをして……くく……ははは!!」


──そんな親子の会話を横で聞きながら、エルミアは必死に目を合わせないようにして食事を続けていた。


(──え?今の話の笑うポイントって何処?つーか暗殺者なんて来てたの?ここお城だよな?処刑所とかじゃないよな?最後には命乞いをして……の後はなに?)


いや、正確には聞かないふりをして、ただひたすら目を皿の上に落としたまま、機械的にナイフとフォークを動かし続けていた。

彼女の頭の中では悲鳴のような突っ込みが渦巻いているが、それを口に出すことはできない。

だって出したら、きっと……いや、考えるのも恐ろしい。


「ふふふ」

「あはは」


父と兄の笑い声が食堂に響き渡る中、エルミアは人知れず震えていたのであった……。


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