夜空に浮かぶ月は、世界樹の実のように輝いていた。
いや、正確には「輝いているはず」と言うべきか。どこまでも理想を押し付けたがる、このエルフの国らしい表現である。
まぁ、世界樹の実なんて見たことないんですけどね。
「はぁ……。月を見ながら物思いに耽る姫様。安っぽい恋愛小説の一ページみたい」
私は自分で自分をからかうように呟く。
昼間の喧騒が嘘のように、庭園は深い静けさに包まれている。月の光を受けた花々は銀色に輝き、噴水から零れる水滴さえ、夜の宝石のように煌めいていた。
「エルフの姫様って、こういう時にもっと風雅な言葉を紡ぐべきかな。『月は満ちて、世界樹の恵みは永遠に』とか何とか」
ため息まじりの独り言に、長い耳が風を受けて揺れる。
この耳のせいで、夜の帳の中でさえ、不必要なまでに多くの音が聞こえてくる。木々のざわめき、小動物の気配、そして遠くで響く兄の独り言──。
「ちょっと待って。最後のは聞こえない方がいいよね」
満天の星空は、誰かが黒いキャンバスに無数の宝石を散りばめたかのようだった。
なんということだろう。エルフという種族は星空を見るだけでも、こんな風に詩的な表現を強要してくる。「きれいな星だな」の一言で済むものを……。
「はぁ~……いい気持ち」
私は大きく腕を広げ、わざとらしく伸びをする。
空気が美味しいのは確かだ。前世の記憶と比べると、まるで別世界──。
「あ、そうか。ここは本当に別世界だった」
思わず吹き出してしまう。
この世界には工場の煙突も、排気ガスも、PM2.5という概念すらない。
その代わり、狂った兄の愛情表現や、闇深き弟の可愛らしい威圧、父の政略結婚という名の拷問など、別種の汚染物質が蔓延している。
「そう考えると、この空気も実は毒か?狂気という名の環境汚染……」
月は私のシニカルな独り言を聞いて、なんだか呆れたように輝きを変える。
そうだ、あの月だってこの世界の住人なのだから、きっと狂っているに違いない。だって毎晩毎晩、あんな風に完璧に輝き続けるなんて、正気の沙汰じゃないし……。
私がそんなよく分からないことを考えていた、その時であった。
「綺麗な月だな」
突然、背後から声が聞こえた。私は思わずビクリと体を震わせる。
振り返れば、そこには──。
「あ……お兄様」
──兄、アイガイオンの姿があった。
月の光に照らされた彼の姿は、まさに神々しいとしか言いようがない。
長く流れる金髪は月光を反射して、まるで溶けた金のように煌めいている。まっすぐな鼻筋、引き締まった顎、そして紅玉のような深い瞳。
どこをとっても完璧な造形美は、神が最高傑作として彫り上げた彫刻だ。そして、その凛々しい姿は王族の威厳そのもの──。
もし彼が単なる優秀な兄であれば、私はきっと心からの尊敬を抱いただろう。
もし彼がただの美形で頭脳明晰な兄であれば、きっと多くの少女たちと共に「素敵な兄様♡」と憧れることができただろう。
──でも残念なことに、彼は「妹に求婚する狂人」という致命的なバグを抱えている。
料理で例えるなら、見た目は最高級フルコースなのに、全ての皿に猛毒が仕込まれているようなものだ。
そして私は彼が月を見て「綺麗」という感情を持つことに、心底驚いていた。
てっきり満月の夜はオオカミ男みたいに狂気が増幅されるタイプか、あるいは月を見て「あれはエルミアの肌のように白く美しい」などと例えるタイプだと思っていたのに。
「えっと……どうしました?いつもならこんな時間、妹への愛を語る詩をノートに書き終わって、寝転がってるんじゃないですか?」
私の皮肉に、兄は特に反応を示さなかった。むしろ、ふっと穏やかに微笑んでさえいる。
その表情は、まるで月明かりよりも優しい──って、ちょっと待て。優しい笑顔だと?狂った兄が?
これはもしや、月の魔力で精神が一時的に正常化したとか?それとも別人が変装しているとか?
「何を言っているんだ。愛しい愛しいエルミアのお見合いが始まるんだ。兄の俺が寝ていてどうする」
──お見合い。
そう、これから私のお見合いが始まるのだ。
普通ならば、私もすやすや寝ている時間。真夜中と言っても差し支えない時間なのだが、この日ばかりは違う。
ヴァンパイアとのお見合いである以上、相手の生活リズムに合わせる必要があるのだ。彼らにとって、この時間帯はちょうど朝食後くらいのノリなのだろう。文化の違いとは恐ろしいものだ。
しかし、それよりも恐ろしいのは、この時に兄が現れたという事実。
「まさか、お兄様、お見合いに同席する気じゃ……」
言いかけて、私は思わず言葉を飲み込んだ。
セルシルの言葉が頭をよぎる──『アイガイオン様とルナフォール大公は……お会いになった瞬間、この素敵な城が戦場と化す可能性が極めて高い』
彼が同席すれば、もはや戦争確定。気の効いた遠回しな表現なんて期待できるはずもなく、おそらく「お前をぶっ殺してやる」と満面の笑みで言うに決まっている。
こんな美しい月夜の下で、いきなり城が吹き飛ぶような展開だけは避けたい。本当に避けたい。
私の言葉に、兄は反応しなかった。
──代わりに、月を見ながら、恍惚の表情を浮かべながら言う。
「昔な……」
兄の瞳に、懐かしさのような……哀愁のような色が宿ったのを見て、私は静かに彼の話を聞くことにした。
ここで歯切れよく彼の話を遮れば、被害を最小限に抑えられるかもしれない──という判断が頭をよぎったが、兄様が真面目な顔で語り始めるのは珍しいことだ。その希少性に免じて、もう少しだけ耳を傾けることにする。
「こんなに月が綺麗な夜に、俺はルナフォールの王族を何人もぶち殺したよ。大公の子共達を、この俺自ら、殺した」
私の身体がピクリと震えた。
──え?急に何言ってんのコイツ?
ていうか今言う事がそれなん?
いや、もっと具体的に言えば──この期に及んで「殺人自慢」かよ!?
さすがは我が兄。月を見て「殺人の美学」を語り出すとは。こんな素敵な月夜の下で思い出す美しい思い出が「ぶち殺した」って、彼の脳味噌は一体どんな組成なのだろか。
つーか正直こんな話題、聞きたくもない。「ぶち殺した」の部分を「会った」とか「踊った」とかに置き換えてくれれば、まだマシな思い出話になったのに。
ただ、このタイミングでこんな話を持ち出すということは、これは間接的な助言なのだろうか?
──「お前のお見合い相手の親族を殺したことがあるから気をつけろ」とか?
──それとも「俺は『ぶち殺す』のが得意だから、守ってやる」という優しさの表現なのか?
「は、はぁ……そうですか。なんて素敵な……青春の思い出なんでしょう」
私は精一杯の微笑みを浮かべながら、軽く会話をそらそうとした。
この期に及んで彼の殺人自慢に付き合っていると、私の精神衛生上よろしくない。
「あの時は俺も久しぶりに血が滾ったぜ……。奴等は強かった。強かったし、楽しかったんだァ……」
兄は目を細め、初恋の相手を思い出す乙女のような表情で過去の体験を語っている。
素敵な思い出話なら微笑ましく聞けるのだが、「ぶち殺す」という動詞が入ると途端に犯罪自慢になるのは言うまでもない。
「きっと奴等も俺と同じ思いだったんだろうと思う。俺と、奴等は仇敵同士だったが……その気持ちだけは、同じなんだ……」
これがもし「俺と奴らはその瞬間だけは、戦いの美学を共有していた」とか言われれば、まだ騎士道精神的な何かとして受け止められたかもしれない。
でも、この兄様の言葉からはそういう高尚な香りは一切しない。純粋に「殺し合いは楽しいなぁ」という愉悦だけが伝わってくる。
「あの、お兄様……?大丈夫ですか?月が頭に直撃して、残りわずかな理性が蒸発しちゃったとか?それとも星の光で脳みそが溶けてます?」
私の皮肉に満ちた質問など耳に入らなかったのか、兄は突然、感情の赴くままに叫んだ。
「そう……その時は……俺と奴らとの間に……愛が芽生えたんだ……!!」
兄はバッと両手を広げる。その瞳には星々の光よりも強い光が宿っていた。
宗教画に描かれた聖人のような姿勢で、彼は「愛」を語る。しかし内容が内容だけに、この崇高な姿勢がより一層気持ち悪さを増幅させている。
それを見て、私はドン引きした表情を隠さずに呟いた。
「な、何を言っているの?」
殺人の思い出から愛へと繋がる兄の独特の思考回路に、私の脳はついていけない。
これって「殺してから愛せよ」的な変態趣味の話なのか?それとも昔から狂っていた証拠なのか?
まぁどっちでもいいか。
「その時だけは種族も、性別も、思想も関係なく、俺と奴等は同じだった。俺達は一個の生命体だったんだ……」
私は頭の中に大量の「?」マークが乱舞するのを感じた。
この兄の思考回路について行くには、私の脳みそはまだまだ未熟すぎるようだ。もしくは正常すぎるか。
「お兄様……?もしかしてその時戦った人と結婚したいとか思ってました?」
私はとりあえず、彼の頭の中を理解しようと必死の推測を投げかけた。もしかして敵を愛するようになったとか?なんて青臭い展開を期待してみる。
「あ?何言ってるんだ?そんな訳ないだろ。大丈夫かお前」
兄は突然、我に返ったように私を見つめた。その表情には純粋な心配の色が浮かんでいる。
いやなんで私が心配されてんだよ!?
今まさに「月夜の下で殺人自慢&謎の精神的一体化経験」を語っていた人物が、まるで私が意味不明なことを言ったかのように首を傾げている。現実が歪む感覚に襲われる。
私はその場に蹲って頭を抱えた。
兄は「殺して一体化する」という謎の境地に達したらしいが、私は単純に「会話が成立しない」という境地に達している。これもある種の一体化なのだろうか。いや、違うな。これは完全に理解不能という名の断絶だ。
ため息をつきながら思う。
今日のお見合いがどんなに恐ろしいものだとしても、少なくとも兄よりはマシな相手だろう……。
ある意味、安心……なのか……?
「セルシル様、こちらの椅子はどちらに置けば良いでしょうか?」
「それはそちらへお願いいたしますぞ。ヴァンパイアの方々には少し小さいかもしれませんので、もう少し大きめの椅子も用意しておきましょう」
ふと、横を見るとセルシルや、使用人のエルフたちが皆せっせと、しかし優雅に月下の庭園にお見合いの準備をしている様子が目に入った。
月光の下、白い食卓布を掛けられたテーブルが静かに輝き、食器や水晶のグラスが星々の光を反射している。幻想的な晩餐会のような光景だ。
普通のお見合いなら、真昼間の明るい部屋で行われるはずなのに、ヴァンパイアとなると夜の庭園。しかも、使用人たちは皆緊張した面持ちで、ときおり不安げな視線を交わしている。
「……んん?」
そして奇妙なことに、メイド服を着た妖精さんがお見合いの準備を手伝っているのが見える……。
小さな手で器用にナプキンを折り畳み、花瓶にバラを活ける妖精さん。翅をパタパタさせながら宙に浮かび、蝋燭の灯りを調整する妖精さん。
そして複数の妖精さんが力を合わせて、自分たちよりも大きなグラスを運んでいる。
「んしょ……んしょ……」
「この花瓶は何処に運ぶ?その位置だと、なんか微妙だよね~」
妖精さんなのに、お仕事を手伝っている……だと?しかもあの手際、中々の手練れ……。
もしかして、あれが噂に聞く『上位種』の妖精さんだろうか?そこはかとなく目付きもキリッとしているような気もするが……。
普段見かける妖精さんといえば、「三つ葉のクローバーを数えよう」などと言い出す脳みそ空っぽの可愛い存在。でも彼女たちは違う。その動きには無駄がなく、時折交わす会話にも知性が感じられる。
私が、妖精さんらしからぬ妖精さんに目を奪われていると……。
「おぉーい、もう一杯だぁ!」
この優雅な月下の庭園には似合わぬ、酔っぱらいの声が、響いてきた──