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第62話

王宮の長く、絢爛な廊下で私はスピラーレ王子に抱かれている。

魔法で作られた紅い月の光が窓から差し込み、私と彼の顔を照らしている。その赤い光は彼の白い肌をさらに妖しく照らし出し、彫像のような美しさを際立たせていた。


「超越種の血というのを、僕は吸ったことがないんです。どんな味なんだろうか、どんな喉越しなんだろうか。ハイエルフの姫の血は、通常のエルフとは違うのでしょうね。もしかしたら、永遠の力が宿っているかもしれない」


端麗な顔が、私の顔に近づく。

吐息すら感じられる距離で、彼は言った。


「大丈夫、始祖に血を吸われても……痛くはありません。ただ、死ぬだけ。ほんの一瞬の痛みで、それからは永遠の安らぎですよ。貴女の血も、魂も、全てをいただきます」


突然豹変した、スピラーレ王子。

生首の頃の情けなさは、何処へやら。


っていうか。


え?なに?なんでいきなりこんなことになってるの?


ストーリー展開の速さに、私の脳細胞が追いついていない。

お見合い相手はとってもシャイな人ね♡から明日の朝刊に載るのは私の訃報かぁ。へと、一瞬でシナリオが書き換わったような混乱。

一体この状況、どこで道を誤ったのか。もしかして、生首を抱きかかえた時点で既に負けが確定していたのだろうか。

まさか、この人、今までの全部演技?やっぱり狂人側の御人だったの?


「いや、そりゃそうだ」と突っ込みたくなるのを我慢する私。だって相手はヴァンパイアの始祖で、従者を意味もなく爆殺させる大公様の息子……。

怯えたような演技に騙されたのが敗因か。エルフ王族の狂った愛情表現に囲まれて生きてきたせいで、私の「正常」の判断基準がズレてしまったのかもしれない。

不意に、私の脳裏に、エスカテリーナの言葉が過る……。


『深海の底から這い上がってきた何かと会話をしているような。そう、人の形をしているけれど、時には知的生命体と対話しているのかすら、疑わしくなるような……』


突然のことに私の身体は硬直してしまった。

だって、ここには兄も、弟も、私を助けてくれる人は誰もいない。

王子の牙が、紅い月の光を反射している。その白い鋭さは、闇夜に浮かぶ月明かりのように美しくも不気味だ。


(ま、まさかこれバッドエンドルートか!?マジで!?「吸血鬼の餌食ルート」に突入とか、前世の行いが相当悪かったとしか思えないんだけど!お見合いで死亡エンドって何?婚活失敗の極地かなにか?)


ドワーフの王子カイナブルとは違う、妖艶な雰囲気を醸し出すヴァンパイアの王子に、私は見惚れるものの、それ以上に牙が恐ろしく見える。

死神の鎌のように、私の命を奪うための道具として輝いている。


(だ、誰か、助け……)


この際妖精さんでもなんでもいい!血を吸われて死ぬよりはマシだ、誰か、誰か……妖精防衛隊の出番だ!花の茎でできた槍でも構わない!

ああ、あの時彼女らを私の護衛に勧誘しておけば良かった。あのどんぐりの兜を被った隊長が今はどれほど頼もしく思えることか。


──その時である。


「──冗談です」


突如、スピラーレ王子がにこりと笑ってそう言った。

私は何を言っているか分からず、呆然としてしまう。


「……は?」


え?冗談?


さっきまで死の淵を覗いたような恐怖を味わったというのに、「冗談です」の一言?


不謹慎ジョークのレベルが「首筋に牙を立てて」とか「死ぬだけ」とか、想像を絶するレベルなんですけど。

ヴァンパイアのユーモアのセンスは死生観と同じく、常識では理解できないようだ。

まぁ、私も物騒な冗談を言ってしまったような気もするがそれはノーカンである。


「そ、その……?本当に……?」

「えぇ、本当に」


彼はクスリと笑って、優雅に身体を翻す。


「先ほど、貴女が冗談を言って脅かしてくれたお返しです。エルフに負けず劣らず、ヴァンパイアにも独自のユーモアがあるんですよ」


こ、この青年は……!

返せ、私の恐怖と絶望を返せ!いや、それは返さなくていいか。今さら恐怖や絶望を返されても、収納する場所がない。

私の心の棚には既に「兄の妹愛」「弟の邪悪さ」「父の酔っ払い」など、様々な恐怖体験がひしめき合っているのだから。

しかし、それ以上に安堵の気持ちが沸いてくる。死ぬことなく、血も吸われずに済むなら、多少のジョークなど大目に見てもいいだろう。


「お、脅かさないでください!私、本当に貴方に吸い殺されると思ったんですからね!心臓が飛び出るかと思いました……!」


というか、生首からいきなり全身が再生するってどういうこと?もしかしていつでも戻れたんじゃないだろうか?

よく考えたら、従者のヴァンパイアたちはすぐに復活していた。もしかしたら、肉塊の状態が長かったり、全身を再生しなかったのは彼がわざとそうしていたのかもしれない。


「ごめんなさい、エルミア姫が可愛くて、つい」


──え?


──可愛い?


可愛いと言われて、私は一瞬頭が真っ白になる。いきなりそんなことを言われて、照れと恥ずかしさと焦りが一気に襲ってくる。

兄や弟には日常的に迫られているが、他種族にこうもストレートに言われると、私も照れてしまうというか、美しいはよく聞いたが、可愛いというのはあんまり慣れていないというか……。

「世界樹の至宝」とか「美の象徴」とかいう抽象的な褒め言葉はよく聞くけれど、こんな直接的な「可愛い」という言葉には弱い。

それに、この状況で「可愛い」だなんて。血まみれのドレスに、恐怖で硬直した表情。これのどこが「可愛い」と映るのだろう?ヴァンパイアの美的感覚は、やはり私たちとは根本的に違うのかもしれない。


「……もう!」


しかし、私は照れを隠すためにプイッと王子から顔を背ける。

決してブリっ子をしているわけではない。私は本当に怒っているのだ。ぷんぷん。しかし、抱かれながらそんな素振りを見せる私は、確かにぶりっ子に見えても仕方がない。

怒ったふりでも血まみれドレスで頬を膨らませるという光景は、威厳ある怒りというより、不機嫌な猫のぬいぐるみレベルの迫力しかないだろう。

でも、プライドがある以上、「照れた」なんて絶対に認められないのだ。


「そ、そんなことを言っても、私は──」


その時である。


「ピィ」


化け物ことヴァスカリスくん(ちゃん)がスピラーレ王子のゆっくりと近づいていく。

そして、おもむろにスピラーレ王子の首に口吻を突き刺す。


「ぎゃあ!?」


王子の悲鳴が響き渡る。私を抱いていた王子は、痛みで私を解放した。電気ショックを受けたかのように、彼の腕から力が抜け、私の身体は自由になった。


「な、なにを……?」


王子は信じられないものを見るかのように、全身を震わせながら自らの首を刺すヴァスカリスを見る。

その表情には「まさか僕の生きる運命が虫に終わらされるなんて」という絶望が浮かんでいた。ヴァンパイアの気高き始祖が、犬サイズの吸血昆虫に倒されるという、食物連鎖の皮肉な逆転劇である。

しかし、そんな視線をものともせずに、ヴァスカリスは太い口吻を引き抜くと、そのまま王子に体当たりして王子が吹っ飛ばされる。

ピンボールのボールのように、王子の身体は廊下の壁に激突し、高価そうな花瓶を粉々にする。「ヴァンパイアの始祖VS巨大蚊」という前代未聞のバトルは、あっけなく蚊の圧勝に終わった。


「ぐぇ!?」


そのまま王子は廊下の床にひれ伏し、びくんと痙攣した後動かなくなってしまった。


「……」


私はというと、巨大な蚊による一連の殺人事件を呆然と見ているだけであった。


──「私の身を守ってくれた?」

──「単なる偶然?」

──「吸血競争相手の排除?」


など、様々な可能性が頭をよぎるが、事実としては「デカい蚊が王子を刺した」という非常にシンプルな事件が起きただけ。

もしかして、これが「ロイヤルモスキート」とやらの本来の役割か?それとも単に血の匂いに誘われただけか。


「ピィ……ピィ……」


鳴き声(多分)だけは可愛らしい蚊は、王子の動きが止まったことを確認すると、「ミッション完了」と言わんばかりに、私の頭上で円を描くように飛んでいる。

一瞬、王子にしたように私の首も貫かれるんじゃないのかと思ったが、どうやらその気はないらしい。ただ、私の傍で浮遊しているだけだ。

そして……「殺すなら今だ!」と言わんばかりに、無防備な私の首筋を口吻で指し示している——ようには見えない。


「あのぅ」


羽音が辺りを包む中、私がヴァスカリスに問う。


「もしかして、助けてくれたの?」

「ピィ……」


もしかして、私が王子に襲われていると思って助けてくれたのか?マジで?

……なんという展開だ。これは私の人生初の「蚊に助けられた」エピソードになるのだろうか。前世でも今世でも、蚊といえば「刺す」「痒い」「叩き潰す」といった関係性しか記憶にないのに。

そして、ヴァスカリス氏はそこはかとなく頷くような、肯定するような素振りを見せる。それは、「ピィ」という鳴き声が「そうだよ、危ないところだったね」と言っているように聞こえる。


──つーかマジで蚊が私を助けた?しかも意図的に?


もしかして「ロイヤルモスキート」と呼ばれるだけのことはあるのか。普通の蚊には知性なんてないはずなのに。

どうやらこの巨大な蚊は知的生命体と呼べるだけの知能が存在するらしい。それはつまり、妖精さんよりも遥かに知能が高いということだ。

強さも知能も蚊以下の妖精さんは少し反省すべきだろう。


「えっと……その……ありがとうございます」


今の光景は、王子の冗談で、別に危なくもなんともなかったのだが……取り合えず私を助けてくれようとしたのは事実なので、ヴァスカリスにペコリとお辞儀をする。

蚊に命を救われたという事実を、どう消化すべきか悩みながらも、とりあえず礼儀はわきまえなければ。エルフのお姫様としての教育が身に染みついているらしい。


「ピィ」


ヴァスカリスは相変わらず無表情なので(虫だからね……)何を考えているのかは分からないが、そこはかとなく「いいってことよ……」と言っているような気もしなくもない。

複眼が紅い月光を反射して、ほんの少しだけ優しげに見える。まぁ、私の気のせいだろうね。


しかし……

私は廊下で倒れ伏しているスピラーレ王子の惨状を見下ろす。


「どうしよう……」


ヴァスカリスに刺され、首から血を垂れ流して気絶……いや、死んでる?王子を見て私は呟いた。

せっかく、二人きりで散歩していたというのに、死んでしまっては……。


スピラーレ王子を死なせてしまったらお見合い大失敗、外交問題になる……のか?

もっとも、彼は最初から肉塊の状態でお見合い会場に現れたし、あの状態から再生できるヴァンパイアが蚊に刺されただけで完全に死ぬとは思えないが……。


「ん?」


その時、私は廊下の影からとある視線を感じ、視線を上げる。


「……」


──そこにいたのは、私のお付きのメイドの少女、エスカテリーナであった。

彼女は見てはいけないものを見たかのように、私を見ているが……私はその視線に気づかなかった。


「あ、エスカテリーナ。ちょうどよかった、王子を運ぶのを手伝って……」


私がそう言いかけた時、エスカテリーナが悲鳴をあげる。彼女の声は王城の隅々まで響き渡った。


「いやぁーーー!!!姫さまが狂った一族の血に目覚めて、お見合い相手を殺してしまいましたわぁー!!お兄様と弟様の血を受け継ぎ、ついに姫様も殺戮の道を歩み始めちゃったんですね!?しかも化け物の蚊まで手なずけて!これは新たな恐怖の幕開けですわっ!!」


エスカテリーナが悲鳴を上げながら一目散に逃げていく。その走り方は、背後に悪魔が迫っているのを感じているかのように必死だ。

メイドスカートの裾を掴み上げ、靴を飛ばしながら、彼女は廊下の角を曲がっていく。そして去り際に「命だけはお助けぇ!」という叫び声だけが残った。


「うそでしょ……」


呆然とする私。

まさに今、「無実の市民に冤罪をかけられた」という感覚を初めて味わっている。

……いや、確かに状況証拠は揃っている。

血まみれの私、床に倒れ伏し首から血を流す王子、そして佇む化け物みたいな蚊の姿……そう思うのも当然じゃないか!いや、私だって同じ状況を目撃したら「殺人現場」と思うに決まっている。

とはいえ、「姫様が狂った一族の血に目覚めた」とか「ついに殺戮の道を歩み始めた」とか、エスカテリーナも実は私の事をそういう目で見ていたと思うと、身体から力が抜けてきそう。


「……」


私とヴァスカリスの視線が交差する。「やっちまったね」と「仕方ないよね」という言葉を無言で交わすような、不思議な連帯感が生まれる。


暫く、そうしていると……。


突如、王子がむくりと突然起き上がた。


「うーん……なんか首がズキズキする」


首から未だに血が垂れ流されているのにズキズキするという表現程度で済ませる辺り、やはり吸血鬼なのだろう。

まぁ、そんなことはどうでもいい。


このお見合いが終わったら、私の評価はとんでもないことになっているのが確定しているという事実が、私の身体を脱力させている……。


「あれ?どうしました?エルミア姫!さぁ、二人きりの散歩を楽しみましょう!なにせ僕たちは狂っていない、常識人同士なんですからね!あ、別にお見合い会場に戻りたくないからそう言っているわけじゃないですよ?でも今頃殺し合いしてるかもしれないし、僕たちがいてもお邪魔かなって思うから、全部が終わってから戻ってもいいかなぁって。なんかの間違いで全員死んでくれてたら最高……おっと失礼」


屈託のない王子の笑みを目に、私は今日何度目になるか分からない溜息を吐いたのであった。


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