紅い月が存在を主張している中、いつもとは違う夜の風景を眺めるため、私とスピラーレ王子は城のバルコニーにやってきた。
あとヴァスカリスも……。
「素敵な夜景ですねぇ」
誰に言うでもなく、私はバルコニーの風を浴びながら呟いた。もちろん本音ではない。
だって今、空は美しいの対極にある異常事態そのものだ。赤い月に照らされた夜の城下町は、まるで血の海に沈んだかのような不気味さを醸し出している。
エルフの詩人なら世界樹の祝福を受けた夜とか何とか言うのだろうが、私の目には何かの儀式で生贄にされた後の現場にしか見えない。
「えぇ、本当に。それに、エルフの国は空気が綺麗ですね」
不意に、スピラーレ王子がそう言った。彼は黙っていれば、超絶イケメンの儚げな青年である。カイナブル王子の荒々しい感じはないが、まさしく王子様、という感じだ。
まぁ、時折肉塊と化すから絵本には出せないけど。絵本の王子様が突然ドロドロの肉片になったら、子どもたちにトラウマを植え付けるだけだろう。
ママ、王子様ってみんな肉塊になるの?なんて疑問を持たれたら、世界中の母親が困ってしまう。ヴァンパイアの国ではそれが普通なのかもしれないが……。
『なんじゃなんじゃ、空が紅いぞぉ!世界樹の葉っぱは紅く染まってないよな!?これは女神様のお怒りか!?』
『世界の終わりだわ!カフォ……じゃなくて、邪悪な魔法使いが遂に世界を滅ぼそうとしてるんだわ!生きてる間にやりたいことリスト、全然消化できてないのに!』
私の視界に映るアズルウッドの城下町。彼らは右往左往し、世界の滅亡が迫ってきたかのように慌てふためいている。
流石は長命種のエルフさん。恐らくは私が生まれる前の大戦とやらの記憶が色濃く残っているのだろう、王宮にいるノーブルエルフよりもノーマルエルフの逃げ方はプロそのものだ。
何百年も生きていると「これはヤベェ!」という状況認識能力も洗練されるということか。
「それに、賑やかだ。もしや、エルフの国は毎日このようにお祭り騒ぎなのですか?ヴァンパイアの『おはようの挨拶は爆発』みたいな陰鬱な雰囲気とは大違いで、羨ましいですね……いやぁ、逃げる姿も美しいとはエルフならではの芸術だ」
一瞬、彼にヴァンパイアの国がどんなものか聞いてしまう衝動にかられたが、舌を噛んで何とか耐えた。
どう考えてもろくな答えが返ってこないし、もし『お前もヴァンパイアの国を味わってみたいか』みたいなことを言われても困る。
私の脳内では、ヴァンパイアの国は血の噴水、コウモリだらけの城、そして生きた人間を吊るして血抜きするための天井フック付き寝室……のような恐ろしいイメージしかない。
知らぬが仏……いや、女神……。そして、触らぬ神に……いや、吸血鬼に祟りなし、である。
「そういえば、イレネス大連邦の首都も、このように毎日賑やかでしたね……。色々な種族がいるからこそ、朝も夜も関係ない、まさに不夜城と言うに相応しい大都市でした。異種族が入り混じり、皆それぞれの文化を尊重し合って……」
私が無言を貫いていると、不意にスピラーレ王子が何かを思い出すかのようにそんなことを言いだした。彼の瞳には懐かしさが宿り、口元には優しい微笑みが浮かんでいる。
「イレネス大連邦?」
思わず、私の口はそう問いかけていた。
「おや、エルミア姫はイレネスに留学していないのですか?あ、でも会わなかったってことはそういうことか……でもあそこ、広いからなぁ。三年間会わなくても不思議じゃないけど……」
なにやらブツブツと呟く王子。その声は小さくなったり大きくなったりと、不安定だ。
(イレネス大連邦……どこかで聞いたような……?)
私はというと、その聞き覚えのある単語に脳味噌をフル動員して思いだそうとしていた。
といっても、ハイエルフの姫様として日々受けてきた教育は「優雅な立ち居振る舞い」「詩的表現100選」「貴族の笑い方講座」といった役立たずの知識で埋め尽くされていたから、実用的な知識なんてほとんど頭に入ってないのだが。
どこだったか……あぁ、地理学の授業だったかな。確か、眼鏡をクイクイと上げる仕草が特徴的な地理学を教えてくれるエルフの講師が言ってたような……?
私の脳裏に、彼の台詞が過る……。
『良いですか、姫様。この世界には、数多の国がありますが……その中でも世界をけん引する存在が、イレネス大連邦なのです(眼鏡クイッ)。大連邦、という名の通り、盟主であるイレネスを中心とした様々な国と種族が共存する勢力です。(眼鏡クイッ)エルフ、人間、ドワーフ、獣人、そして……(寝落ち)』
眼鏡をクイクイさせる講師の姿と共に言葉を思い出す……が、肝心なところで私の記憶は途切れている。
なぜなら、そこで気持ちよく寝落ちしていたからだ。「種族の共存」とかどうでもいいから、ベッドで寝かせてくれよと思っていた記憶だけはハッキリしている。
まぁともかく、凄く大きい連邦国家で、異種族が沢山仲良く暮らしている──っていう感じだった気がする。
もしくは講師がそう言ってただけで、実際は「異種族同士が日常的に殺し合いをしている地獄の坩堝」とかかもしれないけど。この世界、表向きと実態がかけ離れていることが多すぎる。
「まぁ、スピラーレ王子は『あの』イレネス大連邦に行ったことがあるのですね。私、この王宮から一歩も出して貰えなくて……羨ましいですわ」
出来損ないの脳味噌から記憶をなんとか引きずり出した私は、あたかも知っていたかのように優雅に微笑んで言った。
知らないことをあたかも知っていたかのように話す技術はエルフの得意技だ。……いや、私個人のかもしれないが。
それに、「あの」と言っておけば、なんとなく知っているように聞こえるから不思議だ。正直、「あの」以外に付け加えられる単語が思いつかなかったというのもある。
しかし、私のそんな言葉を聞いたスピラーレ王子は一瞬目を見開いた後、目を潤ませた。その表情は子犬を踏んづけてしまった時の罪悪感に似ている。
「な、なんと……?僕ですら留学させてもらえたのに、もしや狂った家族に軟禁されて……?うっうぅ……なんと可哀そうな姫なのでしょう……僕としたことが、思い出話なんかして……」
そして、王子はハッと何かいいことを思い付いたかのように、目を輝かせて、私の手を両手で包み込んだ。
その手は死体のように冷たく、思わず身震いしそうになるのを堪えた。
「そうだ!僕のイレネスでの留学の話を聞かせましょう!せめて空想の中だけでも、イレネスの街を旅しているような気分になってもらえたら。多種族が行き交う広場、夜になっても輝き続ける魔法の灯り、空を飛ぶ乗り物……全てお話ししますよ!」
「え?別に興味ない……あ、いえなんでもありませんわ。ぜひ聞かせてくださいな」
正直、全然興味がないのでどうでもいいのだが、王子のはしゃぐ姿を見るとそんなことを言えなくなってしまう。
興味なさそうな顔をしていると失礼だと思い、私は「超絶興味あります!」という顔を作るために頬の筋肉を総動員した。
「イレネスの話なら、幾らでも!イレネスの大学はですね──」
そして、ヴァスカリスの耳障りな羽音と、王子の死体を思わせるひんやりとした手の感触を感じながら、私は彼の語る思い出話に耳を傾けるのであった──。