紅い紅い月の下。
私と、スピラーレ王子は舞っていた。
「と、飛んでる……!」
だが、ただの舞踏ではない。
──空を飛ぶ、舞踏だ。
ヴァンパイアの羽を大きく広げ、優雅に空を舞うスピラーレ王子。
私は、羽なんて持っていないので舞う、というよりかは、彼に抱きしめられるという感じだが。
王子の腕の中、私の足はもう地面に触れていない。二人の身体が宙に浮かび、バルコニーを離れ、夜空へと舞い上がる。
恐怖で思わず目を閉じたが、王子の確かな腕の感触に、少しずつ安心感を覚え始めた。
風が私の髪を撫で、長いエルフの耳をくすぐる。恐る恐る目を開けると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。王城が遠く小さく見え、その周りに広がる城下町の灯りが、星空を地上に映したかのように煌めいている。
紅い月の光に照らされた森は、まるで赤い絨毯のように広がり、遠くの山々は黒い影となって横たわっていた。
「綺麗ですね」
スピラーレ王子が優しく微笑む。
「え、ええ……」
私は言葉を失いそうになる。こんな景色、初めて見る。いつもは王城の窓から眺めるだけだった世界が、こんなにも広大で、こんなにも美しいなんて。
……いや、カフォンくんと一緒に飛んでいた時も見たが、あれは昼だったし、横にとんでもない存在がいたから気が気じゃなかったというか……?
「これが『空』からの景色です。地上とは違う世界が、ここにはある」
王子の言葉に、私は無言で頷く。エルフは地に根差した種族。
それはハイエルフとて同じこと。空を飛ぶことなど、私の人生では想像したこともなかった。
「ちゃんと捕まっていてくださいね」
そう言うと、王子はゆっくりと回転し始めた。まるでワルツを踊るように、私たちは夜空の中でクルクルと舞う。
血まみれのドレスを着たエルフの姫と、蝙蝠の翼を持つヴァンパイアの王子——何とも奇妙な組み合わせだが、この異常な紅い月夜には不思議と似合っている気がした。
「きゃっ!」
思わず上げた悲鳴は、すぐに笑い声に変わる。怖いはずなのに、どうして心が躍るのだろう。
自由に空を舞う感覚は、地上では決して味わえない喜びに満ちていた。
「楽しいですか?」
スピラーレ王子の目が優しく輝いている。
「え、ええ、とても!」
初めての空中散歩に、私の心は少女のように弾んでいた。風に吹かれながら、紅い月に照らされながら、二人は夜空のダンスを続ける。
王子の蝙蝠の翼がバサバサと風を切る音と、私のドレスが風にはためく音が、不思議な協奏曲を奏でる。
「あれは……?」
私の視線の先に、何かが見えた。月の光に照らされて飛ぶ小さな影。
よく見ると、あれは……ヴァスカリスだった。
あの巨大な化け物……じゃなくて、蚊が、まるで護衛のように私たちを見守りながら飛んでいる……。
ここで空飛ぶ黒猫とか、ペガサスではなく、「蚊」を登場させる辺りが、この世界の狂気を感じるが……まぁ、今は置いておこう。
「ヴァスカリスも楽しそうですね。月明かりの下での飛行は、彼にとっても特別なことのようです」
蚊の表情など読み取れるはずもないが、なぜだかそう思えた。このロイヤルモスキートも、私たちの空中舞踏を楽しんでいるかのようだった。
しばらく飛び続けた後、王子は静かに言った。
「エルミア姫。貴女は……超越種に生まれたことをどう思いますか?幸せなことだと感じますか?それとも不幸だと思いますか?」
それは突然の質問だった。
月光に照らされた彼の表情には、どこか切ないものが浮かんでいる。何故、そんなことを聞いてくるのか分からない私だが、彼の紅い瞳には切なる想いが込められているような気がした。
だから、私は言った。
「どっちでもありません。私は私で、例え下位種であろうと、それは変わらないから」
それは私の偽りのない本心だった。
「そう、ですか」
紅い月が私たちを見下ろす中、スピラーレ王子と私は夜空を優雅に舞い続けていた。王子の蝙蝠の翼が力強く風を切り、リズミカルな羽音を奏でる。
彼の腕に抱かれた私のドレスは風になびき、血の色が月の光に照らされてさらに深く鮮やかに輝いていた。
「もう慣れましたか?」
王子が微笑みかける。
確かに最初の恐怖は消え、今では高揚感だけが残っていた。私たちは城の尖塔の上を滑るように通り過ぎ、時には雲の中へと入り込む。
冷たい湿り気が私の頬を撫で、一瞬視界が白く霞む。そして再び姿を現した紅い月が、私たちの舞踏を祝福しているかのように輝いた。
「わぁ……!」
一回りと大きく旋回すると、アズルウッドの森全体が見渡せた。昼間は翠の海のようだった森も、今は紅い月の下で不思議な色彩を帯びている。
遠くには川が蛇のように曲がりくねり、星明かりを反射して輝いていた。
「すごい……!」
思わず呟く。
王子は私の言葉に応えるように、さらに高く舞い上がる。息を呑むような高さから、私は初めて自分の国の全容を目にした。
境界線、隣国との関係、地形の特徴—普段は地図でしか見ないものが、実際の風景として広がっている。
時折、王子はくるりと回転し、私は思わず彼の首に腕を回してしがみつく。そんな時、彼の胸から小さな笑い声が漏れるのが聞こえた。
どうやらヴァンパイアも、こういった遊びを楽しむことがあるらしい。
側にいる巨大な蚊の姿が、月明かりの下でシルエットとなり、不思議と優雅に見えるのが悔しいけど。
「もう少し冒険してみますか?」
王子が囁く。
「え?どういう……」
言葉が終わる前に、私たちは急降下を始めた。「きゃあっ!」思わず叫び声を上げる私。森の梢スレスレまで降下し、木々の間をすり抜けていく。
木の葉が私たちの足元をかすめ、森の匂いが鼻をくすぐる。
そして再び上昇し、今度は城の塔と塔の間を縫うように飛ぶ。「待って、怖い!」と言いながらも、私の口元には笑みが浮かんでいた。
そうして、再び上空に飛ぶと、私は王子を睨んで、頬を膨らませた。
「ち、ちょっと!少しは手加減してよ!……あっ」
思わず「素」が出てしまい、私は慌てふためいた。手で口を押さえるものの、時すでに遅し。
しまった、つい素が……。村娘みたいな、というか一般人みたいな喋り方が出てしまった。
私はお姫さまだというのに……。
「あ、いえ、その……少しばかり驚いてしまいまして……このような乱暴な言葉遣いをしてしまい申し訳ありません」
必死に取り繕おうとする私。でも、こうなったら終わりだ。「ハイエルフの姫様」という看板が、私から吹き飛ばされた瞬間だった。
上位種、下位種の括りはどうでもいいが、お姫様という概念は私にとっては、重要なのだ。なぜなら、かっこ可愛いから……。
しかし王子は、私を見て朗らかに笑った。彼の紅い瞳が月の光を浴びて輝いている。
「やっと素を見せてくれたね」
「えっ」
私の目が点になる。何を言っているのだろう?
素?何の素?
「見てみたかったんだ。貴女の素顔を」
王子は笑いを堪えるように言った。
「完璧なハイエルフの姫様で、常に気品に満ちていてって聞いてたけど……でも、本当はどんな人なのかな、って」
「え、えぇと……」
「だから、ついつい意地悪してしまったんだ。急降下したり、くるくる回ったり……ごめんね」
王子は申し訳なさそうに言ったが、その目はまだ笑っていた。
「もう!卑怯じゃん、そんなの!」
もう隠しても仕方ないと思い、私はそのまま素の自分で言い返した。そして王子の肩を軽く叩く。
「痛っ」と言いながらも、王子は嬉しそうに笑っている。
「私が心配したらどうするつもりだったの?もし本当に落ちちゃったりしたら?」
「僕が必ず受け止めるよ。君を傷つけるようなことは、絶対にしない」
王子の言葉に、一瞬言葉が詰まる。
「……もう。そんな言い方されたら、怒れない」
私は負けを認めるように溜息をついた。でも、悪い気はしなかった。むしろ、心が軽くなったような気がする。
いつも「完璧なハイエルフの姫」を演じ続けるのは、実は疲れることだったから。
王子は、私をくるりと回した後、再び抱き寄せる。そして、彼と私の顔が至近距離まで縮まる。
──近い。吐息すら感じられる距離だ。月明かりの下で彼の赤い瞳が綺麗に輝いている。
でも、何故だろう。私は、嫌ではなかった。むしろどこか心地よさすら覚える。まるで私が本来居るべき場所に来たような不思議な感覚。
そして、そのまま暫くの間見つめ合う私たちだが……。
不意に、彼が言った。
「やっぱり、似ている──」
「?」
「あっ……その……」
似ている?誰に?
私がきょとんとしていると、王子は申し訳なさそうに、まるで失言したかのように縮こまってしまう。
彼の紅い瞳に一瞬、戸惑いと後悔の色が浮かぶ。蝙蝠の翼もビクッと縮むような感じがした。
「その……実は……」
そうして、王子はおずおずと話し始める。その様子は先ほどまでの飄々とした王子の姿からは想像もつかないほど、臆病で恥ずかしそうな初心な少年のように……。
「イレネス学園での舞踏会の時……エルフの女性を踊りに誘ったのですが……それが貴女にとても似ていて。同じハイエルフの方だったのかもしれません。長い金髪に澄んだ瞳、そして……その笑顔が」
王子の告白に、私は一瞬言葉を失った。誰かと間違えられていたのか。それとも親戚か何かだろうか?
エルフは外見が似ている者も多いから、そういうこともあるだろう。でも、なぜか胸がちくりと痛む。
「それで?その人と踊ったの?」
「いえ……断られました」
王子の声には、今でも痛みが残っていた。その時の傷が、完全には癒えていないことが伝わってくる。
彼の白い頬が、ほんのりと血の色で染まっていく。恥ずかしさと悲しさが入り混じった表情。
「あぁ、なるほど」
私は目を丸くした後、ゆっくりと意地悪そうな笑みを浮かべた。
なぜだか分からないが、からかいたくなる気持ちが湧いてくる。
「へぇ、じゃあ私はその人の代わりってわけね。二番目の選択肢、いわゆる『リバウンド』ってやつかなぁ?エルフならどれでもいいから踊ってみたかった?」
私の言葉に、王子は慌てて首を振った。彼の顔が真っ赤になり、手も慌ただしく動く。
「そ、そんなことは!全く違います!僕は……」
慌てふためく王子を見て、私はクスリと笑って言った。
「冗談よ。さっき、空で怖がらせてくれたお返し」
そう言って笑う私。その言葉に彼はきょとんとして口をパクパクと開け閉めしだした。
彼も色々な体験をしてきたのだろう。だから、私だけを見ろだなんて言えないし、そもそもまだ会ってもいない相手の行動を咎めることなんで出来ないのだから。
それに、それが過去の話なら、なおさらだ。
「でも、なんで断られたの?」
私がそう問うと、私をポケーッと見ていた王子が、ハッと気を取り戻した。まるで夢から覚めたように、彼の目が現実に戻ってくる。
「え!?あ、そ、そのぅ……」
言い辛そうにする王子。頬を赤らめ、目線をあちこちに彷徨わせる。やがて観念したかのように言った。
「その……『いやだぁ!千歳以上、年の離れてるおばさんになに言っちゃってんのよぉ~!100歳以下の男の子と手なんか繋いだら、私捕まっちゃうから!もっと若い子と踊ってきなさい、分かった?』って……」
暫くの静寂。
そして──。
「いや、千歳以上歳の離れた相手ってなに!?なんで気付かないの!?つーか、大阪のおばちゃんか!?」
私の怒涛のツッコミが夜空に響き渡った。
月は変わらず赤く、異様に大きい。でも、今はもうその光景すら恐ろしくは感じない──。