私たちは、紅い月夜の下を舞う。
その中で私は、この空に私と彼しか存在していないような錯覚に陥っていた。
「──そうなんだ。学園には、どんな種族がいたの?」
好奇心からそう尋ねる私に、スピラーレ王子は熱を帯びた声で答え始めた。
「それはもう、色々な種族が!中でも面白いのは、竜人の方々でした!彼らがくしゃみをしただけで建物の壁にヒビが入ったり、冗談で軽く額を小突いただけで相手が吹っ飛んでしまうんです。ある時なんて、竜人の先輩が怒って机を叩いただけで、講義棟が半壊して、危うく死にかけたことも……」
王子は楽しげに笑いながら、イレネス学園での思い出を語る。その表情は少年のように無邪気だ。
「えーっと、それは笑っていい話?それとも怯えた方がいい?」
王子の目がキラキラと輝いている。そしてそれは本物の輝きだった。
それを見て、この人は本当にその生活が楽しかったんだろうなと感じるのだ。
そして、異種族が引き起こすハプニングが笑い話として受け取っていいものなのか、それとも恐怖の記憶なのか、私には判断がつかない。
「もちろん笑い話です!けが人もほとんどいなかったし、竜人の生徒も反省して、翌日には皆で再建作業をしたんですよ。種族間の協力って、そういうところから始まるんだって、先生が言ってました」
王子の言葉に、私は思わず目を丸くする。
「ほ、本当に?このクソ……あ、いや、狂った世界で、そんな平和で常識的なやり取りが存在するの?」
「ははは、エルミア姫は面白いですね」
王子が優しく笑う。その笑顔は月明かりよりも明るく、私の心を温かくしてくれる。彼の両腕に抱かれながら、私たちは赤い月を背景に、夜空のワルツを踊り続けていた。
地に足をつけず、空中を漂いながら、私は王子の導きに身を任せる。風が私たちの間を通り抜け、髪を撫で、耳をくすぐり、ドレスの裾を揺らす。
「踊るのは得意ですか?」
王子が私を見下ろして言った。彼の紅い瞳がやわらかく光っている。
「いいえ、むしろ下手な方だと思います。踊りの練習が家族の混乱で毎回中断されるから……」
「そんなことないですよ。エルミア姫は自然と体が動いています。まるで風と一体になったかのように」
王子がそう言って私をくるりと回すと、私は思わず悲鳴を上げそうになった。でも、実際に口から出たのは、幼い頃に感じたような無邪気な笑い声だった。いつ以来だろう、こんな風に笑ったのは。
空からは、王城がおもちゃのように小さく見える。普段ならあの城壁の中で、私は姫としての務めに追われる日々。
優雅に振る舞い、抑えた笑顔を絶やさず、品のある言葉遣いを貫く。そんな「完璧なハイエルフの姫様」を演じ続ける日々。
──でも今、ここでは違う。
血まみれのドレスを着て、髪は風でぐちゃぐちゃになり、高笑いをあげながら、私は空を舞う。それは姫としてあるまじき姿だろう。
でも、不思議と心が解き放たれるような、自由な気分だった。
「王子、イレネスでの生活で一番良かったことは何ですか?」
「ん~……そうですね」
スピラーレ王子は少し考え込むように目を細めた。そして、静かに答えた。
「『普通』でいられたことかな」
「普通……」
「そう。特別扱いされず、肉塊にもされず、ただの学生として過ごせた日々」
なるほど。私には想像もつかない喜びだ。私だって「普通」に過ごせたら……。
私が考え込んでいると、不意に白くて大きな何かが目の前を横切った。
「ピィ!」
ヴァスカリスだ。あの巨大蚊がバタバタと羽ばたきながら、私たちの周りを飛び回っている。
これは……「私も一緒に踊りたい」と言っているのかな?
……いやごめん、それだけは無理。
なんてこった、今のは「ピィ」という単なる蚊の鳴き声なのに、私の脳が勝手に翻訳してる。
次はきっと「蚊の言語講座」とか「蚊と心を通わせる法」みたいな本を読みたくなるんだろうな。もしくは私がそのうち身体からぶーんっていう音を発するようになって「最近の若い子は蚊語が流行っているのよ」とか言い出す未来が見える。
「上昇しますよ。捕まっていてくださいね!」
王子の強い腕に抱かれ、私たちは夜空をさらに舞い続けた。羽音を立てて飛ぶヴァスカリスを舞踏の邪魔をする第三者として華麗に無視しながら。
空を切る風が、私のドレスを翻し、長いエルフの耳を心地よく撫でていく。
「……」
しかし……私は冷静に、この状況を分析していた。
お見合い相手と二人きり……これはもしかして、「恋愛」というやつの入り口なのだろうか?
前世では恋愛経験なんて皆無に等しかったし、現世でも兄の謎の妹愛以外、まともな恋愛を見たことない私には、この感覚が何なのか分からなかった。
そうして、私の思考と身体が風を切る中で……王子が不意に呟くように言った。
「エルミア姫。実は……僕、貴女のことを最初に見た時……」
王子の声が風に消されそうになる。それでも聞き取れた彼の言葉に、私は耳を傾けた。
「殺される、と。思いました」
「え?」
私は耳を疑った。いや、耳を洗った方がいいかもしれない。
この長い長いハイエルフの耳が、とんでもない幻聴を拾ってしまったらしい。
(──いやいやいや。殺される?私に?どうして?)
私はそんなに怖い見た目してるか?ていうか血まみれのドレスが悪いのか?まぁ確かに今の姿は異常性を醸し出してるかもしれないけど。というか好きでこんな格好してるわけじゃないし。
困惑する私を他所に、王子は言葉を続ける。その表情は真剣で、どこか懐かしむような、そして恐れを思い出すような、複雑な感情が入り混じっていた。
「貴方の兄君の噂は聞いています。なんでも、昔の戦争のときに、恐れられた戦士だったとか……」
あぁ、なるほど。
その一言で合点が言った。
私の兄の噂を聞く……そりゃ、その妹である私を恐れても不思議ではないというか、むしろ当たり前というか……。
(……待てよ?)
──不意に。
私の脳裏に、カルタの言葉が蘇った。
『我が国の誉れ、アイガイオン殿下ですが……彼はその昔、ルナフォール一族の始祖を何人も、何十人も殺し……おっと失礼、抹殺いたしました』
『ルナフォール一族の始祖を何人も、何十人も殺し……』
『何人も、何十人も殺し……』
どうしたって、あの小さな毒舌執事くんの言葉が頭から離れてくれねぇ……!魔のささやきか、セールスの電話番号みたいに忘れられなくなってる。
──そうだ。兄は、彼らの一族を殺しまくった異常者。
つまり、私は……彼らにとっての仇の妹……?
そのことに気付いた瞬間、私の全身が震えた。ショッキングな真実に、思わず王子の手を振り払いそうになる。
「あ、あの……その……」
──何を言えばいいというのだろう。私がやったことではないが(ここ重要)、彼らからすれば、そんなことは関係ない。
血は血を呼ぶという言葉があるように、恨みや怨念は親族にも向けられるものだ。
アズルウッド家の一員として生まれた時点で、私は敵対関係という巨大な荷物を背負わされているようなものだ。
ドワーフの王子、カイナブル王子の時と同じように、憎しみを流してくれるのだろうか?
それとも、実は「母上、私はこうして敵の娘と接近し、最後にはドヤ顔で殺してみせます!」みたいな復讐計画があったりして?そう考えると、この空中ダンスも実は「高いところから落とす計画」だったり?
いやいや、さすがにそれは考えすぎか……でも、この世界、なんでもありそうだし……。
そうして、まごついてる私を見て、王子はクスリと笑って言った。
「『私は私』」
不意に紡がれた、彼の言葉に私は首を傾げる。「え?」という疑問符が私の頭上に浮かんだに違いない。
「エルミア姫。貴女はさっき、言いましたね。『私は私』と」
そして、彼は私を抱き、ゆりかごのようにして空を舞う。前よりも優しく、まるで薄い卵の殻を包み込むように、彼の腕が私の背中と膝下を支えてくれる。
王子の心臓の鼓動が伝わってくる。規則正しい、力強い鼓動。それは彼の言葉と同じく、とても礼儀正しくて──。
「貴方の兄君は、とても恐ろしい方なのは真実なのでしょう。僕の肉親の多くは、彼の剣で命を絶たれたそうですから」
その言葉に、私の鼓動が高鳴った。
いままで散々聞かされてきたその事実。しかし、当の一族からそう口を出して言われると、凄まじい罪悪感が押し寄せてくる。
まるで兄の剣を自分が振るったかのような、そんな錯覚すら覚えてしまう。「兄の罪」という言葉が、鉛のように重く私の心に沈んでいく。
他人事だと思っていたあの戦争が、今目の前にいる人の肉親を奪ったということ。誰もが語っていた「鮮血に染まった戦場」に、彼の一族の「命」があったということ。
それは、紛れもない現実──
しかし、王子は朗らかな笑みを浮かべて言った。
「……でも」
彼が紅い月を見上げる。
白銀の髪が紅い光に反射して、まるで火が灯ったような輝きを放っている。
彼の横顔は彫刻のように整い、その美しさは月明かりの下でさらに神々しさを増していた。
「それは貴女のことではありませんよね」
「っ!」
その瞬間、王子がとても、尊い存在に見えた。古い絵本に描かれた『真の王子様』というものを、初めて目の当たりにしたかのような感覚。
この赤い月の下で、彼だけが清らかな光を放っているような──そんな錯覚さえ覚える。
「それに、我々ヴァンパイアもまた、幾多の命を手にかけてきました。血に飢えた獣として人々を恐怖に陥れ、時に快楽のために殺してきた。そんな私たちが、エルフだけを責めることはできません」
なんだろう。
カイナブル王子の時もそうだったけど、こうして「常識的」なことを言う彼の姿が、とても眩しく思えてしまう。
いや……常識ではない。常識なんてものは、この狂った世界では通用しない幻想でしかない。
この世界では肉塊になったり、首が飛ぶのも常識の範疇だ。
これは──「意志」。
彼は、自らの揺るぎない「意志」の力を持っている人。
カイナブルと同じように。
彼らは自分なりの答えを持っている。だからこそ、他人の罪を背負わせるような真似はしない。
それはきっと、きっと──貴重なものなんだと思う。
「……」
そんなことを考えながら、王子と見つめ合う私。
何故か、心臓が高鳴る。まるで石段を一気に駆け上がった後みたいに、ドクドクと胸の奥で鼓動が跳ねている。
まだ、会って間もない人物……いや、ヴァンパイアだというのに、何故か、彼から目が離せない……。
「先ほど、学園でエルフのおばさ……いえ、その、おそらく人生の大先輩でいらっしゃったエルフの情勢に舞踏を断られたと言いましたが……」
私の言葉に、王子は懐かしむような、恥ずかしがるような視線で私を見続ける。
青春時代の失敗談を思い出して赤面している少年のような表情だ。
「あの方も、貴女も……私を『ルナフォール』や『他種族』としてではなく、一人の存在として見てくれました。きっと貴女たちの目には、この世界に生きる一人一人が単なる駒ではなく、価値のある存在に見えているのでしょう」
そして、彼は言った。
「だからこそ、私は彼女や貴方に惹かれてしまったのです。どんな魔法よりも強く、どんな血の契りよりも深く……」
王子の胸から伝わってくる鼓動は、確かに高鳴っている。私自身の心拍と共鳴するかのように、二つの鼓動が重なり合う。
雪のように白い肌と、血のように赤い月明かりのコントラストの中、私もまた、彼の姿に惹かれて──
(え、なんでこんなにドキドキしてんの私?)
いやいや、ちょっと待て。何このテンポの早い展開は?
さっきまで肉片だった男に今惚れかけてるの?つーか、なんで私の胸がこんなバクバクしてんの?これってまさか中学生みたいな初恋の予感ってやつ?
でも身体はウソをつけない。どんどん鼓動は高まっていく。世界樹のリズミカルな揺れのように、私の心臓は踊り続ける。
数時間前まで「うわぁ化け物〜」とか思ってた相手に、今ドキドキしてるなんて、ありえない。
ありえない、けど。
肉塊から人に変わって、臆病な青年だと思っていた王子が、急に頼もしく、魅力的に見えてくる。
この強く、確かな信念を持つ彼の目を見ていると……体の奥底から、なにかが沸いてくるのだ。
そう、これはまるで、カイナブル王子に最後に惹かれてしまったときのような──
「……ん?」
その時であった。
地上から、眩しいほどの光線が一筋、飛んでくる。まるで天を貫く矢のように、金色の光が私たちに向かって真っ直ぐに伸びてきた。
「さっきお見合いで初めて会った相手に、こんなことを言うのは非常識かもしれませんが……僕は、エルミア姫のことが──」
「お、王子!?スピラーレくん!?なんか来てますよ!?てか、マジでヤバいの来てる!話はそれからでもいいから、まずは回避行動を!」
「そう、来ています。でも、これは確かに僕の気持ちで……今しか言えない気がして」
「ち、ちがうって!下見てよ!貴方の告白より先に死にたくないんですけど!」
ゴゴゴと唸りを上げて私たちに迫ってくる光線。王城のトイレが詰まった時の兄の咆哮レベルの轟音。
いや、それより遥かに大きい音。「世界の終わりの予告編」みたいな轟音。そして目にも留まらぬ速さで迫ってくる。
王子に必死に伝えても「僕の気持ち」だの「僕の思い」だの「君への想い」だの、とにかく死亡フラグ全開の台詞を言い続けるばかり。
こんな時にロマンスとか言ってる場合か?いや、別に告白は嬉しいけど、その前に生きててほしいんですけど!
そして──
「そう、この感情は、紛れもなく、恋──ぷぎゃ!?」
その瞬間、王子の身体に光線が直撃し(何故か私を逸れて)、何かを紡ごうとしていた彼は血しぶきになって消え去った。
ついさっきまで「紅い瞳に吸い込まれそう」なんて思っていた私の前で、彼の体はまたもや飛び散る肉片と血の雨となった。
そして、彼が粉々になって飛び散る赤い雫が、紅い月に向かって舞い上がっていく──。